第10話
喫茶店に一人の客が入ってきた。その男性は店内をやたら気にしている。帽子を深々と被り、黒いジャケットを着ている。そして顎には無精髭を生やしている
拓郎は立ち上がると、その男を呼びかける。男は拓郎に気がつくと、いそいそと拓郎の元へ近寄る
拓郎はその男に愛嬌良く笑顔を見せて、ゆっくりとお辞儀をした。孝介も素早く立ち上がり、お辞儀をする。男の方は挙動不審である。慌てた素振りを見せ、お辞儀を仕返した
「佐々木、博也さんですね?」
「……はい」
「初めまして。音無探偵社の事務長を勤めております、音無です。今日はどうもお忙しいところに来てもらい、ありがとうございます」
「……いえ……こちらこそ……」
男は細々と喋る。まるで何か悪いことをしているような気にさせられる
拓郎、孝介はその男と向かうようにして座った
「こちらは助手の音無孝介。私の甥でありまして、調査員であり私の助手をしております」
「どうも」
孝介は深々とお辞儀をすると、佐々木博也は小さく頷いた
佐々木博也、今回の対象者である
拓郎の助手に就いてから、何度かこういう仕事をしてきたが……依頼の対象者というのは決まってこのような感じなのだ
「今回の件につきましては……音無さんには迷惑をかけてしまって……」
「それが私たちの仕事です。そんなに固くならないで下さいよ。取り調べじゃないんですから」
拓郎は気さくに笑った。冗談めかして言ったつもりだろうが、元警部の拓郎が言っても冗談に聞こえないと孝介は思っていた
「博也さん、今回私たちはあなたのお母さん。富美さんからあなたの行方を捜索するよう依頼を受けました」
「……母が……」
「はい。十二年前、あなたは家に手紙を残した後家を飛び出し、十二年間全く連絡の一つも寄越さなかった。富美さんはあなたを心配しております」
「…………」
「……私たちは知っています。あなたが家を出た理由を。しかし、話してもらえませんか?あなたの口から」
拓郎がそう言いながら鞄の中から取り出したのは、古いテープレコーダーだ。これは拓郎が刑事時代のときに、取り調べの際に使っていたものである
ますます取り調べらしくなってきたぞ、と孝介は密かに心の中でにやけていた
孝介はそんなことを思いながら、自分も鞄の中からメモ帳とボールペンを取り出した
孝介の仕事はこのメモ帳に対象者の話を明確に書き留めることである。そのメモを元に報告書を作成していくのだ。ここからは集中してかなければならない
拓郎はテープレコーダーの録音ボタンを押した。それとほぼ同時に、佐々木博也が重い口を開いた
「……俺、二年前まで俳優を目指していたんです」
佐々木博也。三十二歳。神奈川県横須賀市出身。県立K高校を卒業後、進学はせず地元の芸能プロダクションのオーディションを受ける
しかし上手く行かず、その二年後家から通帳とキャッシュカードを持ち出し、家を飛び出す
その後上京。ここ上野駅近くのアパートを借り一人暮らしを始めた
上京したのには理由があった。東京の芸能プロダクションのオーディションを受けるためであった
中学のころから夢であった俳優になるために……
彼がオーディションを受けた芸能プロダクションは、“東映アカデミー”と呼ばれる、東映株式会社東京撮影所の一部門だ。俳優、声優、小役が所属し、また養成所でもある
1994年に東映演技研修所と東映児童研修所が合併し現在の形に至る。東京都練馬区東大泉に所在する
彼は確かに二年前までそこに所属し、俳優人生を送っていた
「俳優と言っても……全然それらしきものじゃあなかったんですけどね……CMやドラマのエキストラとか、小さな舞台の演出とか……そんなんばっかで」
「皆、そういうところから始めていくものです」
「……果たしてそうでしょうか」
彼は寂しく笑って呟いた
自分には才能がなかった、と彼はそう続けた
「東映アカデミーに所属して十年……毎日毎日養成所で演技の訓練をしてきました。しかし……いくら頑張っても、私には出番が回って来なかった」
それでも諦めたくなかった。いつか自分の演技を認めてもらえると信じていた
「でもね、ある日分かったんですよ。どんなに頑張っても、落ちこぼれるやつは……所詮は落ちこぼれなんだってこと」
今から三年前だと言う。彼の所属する東映アカデミーにある若い男性が入ってきた。彼は佐々木博也と十歳年の離れた新人だという
当時十九歳の若造は期待の新人として部内でも一目置かれる存在であった
しかしその若者の演技力は、確かに一際輝くものだった。同じ俳優を目指している者にしか分からぬ、圧倒的な演技力
彼の独自の世界に引き込まれて、魅力されてしまう
そんな彼はわずか一年の間に、着々とその地位を高めていった
次々と仕事が舞い込んできて、多くの舞台、CM、そしてドラマや映画にも出演した。その役というのも、かなり重要性の高い役であり、当然支払われるギャラも高い。彼はそれだけではなく、数々のテレビ番組からオファーが来ている
「すごいでしょ?一年ですよ。たった一年……私など十年間頑張っても、エキストラとしてしか出れないのに……今度彼が主演のドラマが始まるらしいですよ。ハハ……」
彼は目を伏せていた。目の下に光る涙を孝介は見た。書き留めるペンの動きが止まってしまう……胸の奥に嫌な感覚を覚えてしまうのだ
何故だろうか……この男の話を聞いていると、深く共感出来る部分がある。そう、それが苦しい……
彼に共感してしまう自分の感性が酷く苦しい……
孝介は彼の姿が見ていられなくなり、思わず目を背けた