7-2. 無口な彼女と新緑の香り
時刻は17時30分。路地を歩けば少し早いが晩ご飯を作る音も薄らと聞こえ始める頃、俺はまだ図書館に居た。
目の前に座る彼女が、静かにページを捲る音以外一切出さないので、凄く集中して勉強することができた。
山藍と一緒に居ると、過ぎ去る時間が遅いのか早いのかよくわからなくなる。
そろそろ帰るか……俺は山藍を見るが、彼女はまだ文字を追うのに没頭している。邪魔するのも悪いので、音を立てないように勉強道具を鞄に仕舞う。
山藍はいつ帰ってるんだ?下校時間ギリギリまで毎日ここにいるのだろうか。疑問はまた今度聞くとして今日はもう帰ろう。
「山藍、……」またな。俺の言葉は喉元から飛び出すことはない。
山藍はこちらを向こうと目線を本から外したところで止まり、俺ら立ち上がり鞄を肩にかけようという所で動けなくなる。
『帰ろう』
『またな』
これは珍しい。目の前の選択肢に俺が言おうとしていた言葉がある。
いつもの俺なら間違いなく『またな』を選択したに違いない。俺はいつだって無難な道を行きたいんだ。冒険していたこともある。ただそれは俺の精神を酷く傷つけた。昔の話だけれど。
ただ、今回は少し冒険してみようかと思っている。いや、これを冒険は言い過ぎな選択肢だけれど、俺は山藍という人をもう少し知りたいと思っている。そして知るためには、出来る限り多くの時間を共有するのが1番良い。
もちろん断られる可能性もあるけれど、それはそれで彼女の人となりだろう。
「『帰ろう』」
選択肢を選ぶ時点で、既に本から視線を外していた山藍は、ゆったりとこちらを見上げ、俺と視線を合わせる。
いつもよりも少し長い無言の時間が流れた。
「……うん」
彼女は決心し、1つ返事をすると読んでた本に栞を挟みパタンと閉じると鞄に仕舞う。そして立ち上がると、行こう?と訴える目を俺にもう1度向けるのだった。
両手で学生鞄を持つ山藍と2人並んで下駄箱へ向かう。特に会話はない。
座ってたからわからなかったが160cm近くはあったんだなあ。足長いなあ。と横目で見ていると1つの重大な事実に気が付く。
山藍、1年生だったのか……雰囲気が大人っぽいし、つい1時間ほど前に虚数について話してたから見たことがないだけで同学年か先輩かと思っていた。
この学校は学年で上靴の色が違う。1年生は赤、2年生は青、3年生は緑となっている。彼女の上靴の色は間違いなく赤色だ。その上靴は、まだまだ綺麗で全然汚れていない。
彼女は色んなものを丁寧に扱いそうだ。となんとなく彼女のイメージとマッチする姿を思い浮かべてしまう。
下駄箱で靴を履き替え、校舎を出て彼女を待つ。1年生の山藍の下駄箱は2階、2年と3年の下駄箱は1階にあるため、1度離れなければならなかった。
しかし、彼女が2回しか会っていない相手と、こうも簡単に一緒に帰ってくれるとは思わなかった。彼女も俺に対して、少なからず興味を持ってくれているとしたら喜ばしいことだ。
彼女はゆっくりと階段を下りてくる。傍から見たら白すぎる肌も手伝って亡霊にしか見えない。落ちないか心配になってくる……
「……遅れた」
無事階段を下り、横に並ぶと彼女は特に悪びれた様子もなく、遅れた報告をすると歩き始める。
彼女らしくて実に良いぞ!俺は少しワクワクしながら彼女の後を追う。
いつも俺が出入りしている校門とは違い、裏門から外に出る。彼女の家はどうやら俺の家とは反対方向の様だ。
裏門の横には大きな桜の木が青々とした葉を付け、凛々しく立っている。実に勇壮。この木にいつも見守らるというのも良いのかもしれないなあ。と見上げならぼんやり思う。
「……春は、もっと綺麗」
彼女は物珍しげに見上げる俺が視界の端に映ったのか、眼鏡を指先でチョンと上げながら教えてくれた。
彼女から言葉を発してなにかを教えてくれるのは初めての事だった。これだけでも、あそこで選択肢を変えて良かったと思える。
「春になったらまた見てみよう」
まだこれから彼女の家までどれくらい歩くのか、俺にはわからない。それでもきっと、この帰り道の散歩はなにか大きなものを与えてくれる気がする。
俺は一層楽しみになった山藍との帰宅を、存分に楽しむことを決めたのだった。
無口な彼女と新緑の香り。




