プロローグ いくつもの分岐点に、戻りたいとは思いませんか?
カーテンの隙間から春の柔らかな日が差している。
目覚ましを止めた俺はベッドからむくりと起き上がり、暖かい陽光を左半身に浴びた。
下では既にドタドタと慌ただしい朝の音がしているし、外では隣の家の犬、ゴンタロウが吠えている。寝起きから騒がしいのは嫌いだ。もう少しボーッとしていたい。朝だもの。
「……朝だもの」
そう呟くと同時にダダダダッと階段を上ってくる音がする。当然俺はこの音がなんなのか知っている。嫌いだ。寝起きの気分には少し辛い。
ドンッと部屋の扉が今にも散り散りになりそうな勢いで開いて、その音の主はこう言う。
「何時まで寝てんの!?早く起きなさい!」
母である。母であった。すぐにバタンッと扉を閉めて下の階にまた慌ただしく戻っていく。
「……ふぅ」
いつものやりとりに飽き飽き嫌々しながらも、早起きする気にはなれず、どちらかと言えば始業チャイムの音をなんとか後ろにズラして頂けないものかと怠けきっているのが俺だ。起きなければならぬ。
顔を洗い、少々酷い寝癖を水で多少宥め、まだテンションの上がらない瞼をそのままに、食卓に付く。
「あんたなに食べるの?」
母は自分のコーヒー豆をゴリゴリと挽きながら、こちらを一瞥することもなく問いかける。
「ああ、そうだなあ……」
そう呟くと同時に世界は止まり、目の前にはフレームに囲まれた文章が2つ現れる。これは絶対的選択肢である。違う言葉を発することは許されない。また、動くことも許されない。ただ考え、選び、発声する。
これが俺の身に起きている大変迷惑な、マナー無きルールです。
『目玉焼きの乗ったトースト』
『白米と味噌汁』
ふわりと目の前に浮かんだ選択肢を眺めてみる。しかし、こんな事は考えるまでもないのだ。もはや平日の朝、ここに出てくる選択肢は8年前の8歳の頃からほぼ変わる事なくこれである。
俺だって食べたいよ?朝から牛丼とか、昨夜の残りのカレーとか、たまには冒険してシュークリームとか。俺は食べたい。食べてみたい。食べさせて欲しい。そう思っている。願っている。望んでいる。
「『白米と味噌汁』」
そう口にすると同時に世界は動き出し、母のゴリゴリと豆を挽く音。シューっとお湯を沸かす音。味噌汁の匂い。テレビからの笑い声。近所の小学生たちのパタパタとした靴音。ゴンタロウの吠える声。
母はこちらにチラリと視線を1つ。あんたも変わらんね……やれやれ。とでも言いたそうな目を向けた後、何も言わずに立ち上がる。コンロに火を点け、味噌汁の入った鍋をお玉でひと回し。
「あいよ」
といつも通り、変わらぬ返事を1つ、するのである。
味噌汁をすすり終え、「はぁ……」っと一息。時間に余裕のない中だからこそ、余裕を見せたい。大人の男にはそういったことが大事なのだ。しかし、母上はそれを許しはしないだろう……いや、母上とあいつは。
歯を磨きながら自室に戻り、着替え、鞄に教科書とノートを突っ込み、ベッドに座る。シャカシャカシュワシュワと歯ブラシを動かしていると家のチャイムが鳴った。成った。やった。ビバ朝。嘘であった。なんにも嬉しくないのであった。ピンポーン。
「ここちゃーん!いつもごめんねえ」
コーヒーを飲みながら無表情でニュースを見ていたであろう母は、足早にニコニコ、ニパニパのおばさまスマイルで玄関を開けた。と思う。大体いつもそうだから。
「いえ!ついでですので!」
そう多分笑顔で元気よく返すのは浅葱 心さん。16歳。ゴンタロウ家を挟んだ土地に住む、同い年の幼馴染。ゴンタロウ家は犬小屋のことでありその隣に住む幼馴染はつまり俺の家の隣人なわけで、トドのつまり、ゴンタロウの飼い主はこの幼馴染、浅葱家の人間である。回りくどい。
そして母が可愛がっている。いや、ゴンタロウじゃなくて、心を。
歯ブラシを咥え、鞄を肩にかけ、登校準備は完了した。階段を下り、洗面所へ向かおうとすると、背中から2人の声。轟く。
「「早くしなさいっ!!」」
振り返ることなどしない。それは野暮ってもんだ。さっきまでの和やかさはもうそこにはない。男なら背中で語れ。土下座だって、結局は背中の哀愁で許されているに違いない。
「ごめんなさい」
背中では許されないこともある。
プロローグ いくつもの分岐点に、戻りたいとは思いませんか?