7 訓練場にて
王の執務室を出て自室に戻る途中、デートレフは長い廊下を歩きながらマルトにたずねた。
「義母上はお元気だったろうな?」
そして、にやにやと皮肉っぽい笑みを見せた。
「は。……癇癪をおこされました」
ぼそぼそマルトが答えると、デートレフはくっくっと声を殺して肩を震わせた。
「次は言い訳に行きません。ご自分で火の粉を浴びて下さい」
「そのような面倒は遠慮する。で、言い訳は立ったか?」
「はい。先程、殿下が立てて下さいました」
そう言うと、デートレフは少し嬉しそうにうなずいた。
第一王子の斜め後ろに付き従いながら、マルトはふう、と大きく息を吐いた。
「そう悪いお方でもありますまい。ただ殿下と親しくしようとお考えになってのことではございませんか」
「不要な気遣いだ」
相変わらず、取り付く島もない。
それでもマルトはしてきたことの報告を続けた。
「王妃様は、殿下が陛下にお会いする理由をおたずねになった後、一緒に出かけたカーイ様とサーマン様のことを気にかけておられました」
「気になるならば我の代わりに茶会に参加してやれ」
悪戯っぽい目で睨まれて、マルトは首をすくめた。
「御冗談を」
デートレフはひとしきり笑った後、一言ねぎらった。
「……ご苦労だった」
「は」
マルトは短く答え、頭を下げた。
たった一言に過ぎないのに、毎回深く胸の底に落ちるような声だ。
決して自分の意志は曲げないものの、主を思ってマルトが取った行動を容認し、その労をねぎらってくれた。それだけでマルトは満足した。
それから思い出して、追加報告をした。
「ああ、帰り際に殿下へと菓子をいただきました。なにやら特に作らせたそうで。侍女に渡しておきました」
興味が無さそうに、デートレフはふん、と鼻先で返事をした。
自室に着くと、デートレフは何を思ったのか、突然兵舎に行くと言い出した。
「訓練場だ。まさか腕が落ちてはないだろうな、マルト。……適当に下級兵か何かの服を一揃い調達して来い」
デートレフは、後のほうの言葉を従者に向かって言った。
すぐさま一礼した部屋付きの従者が外へ出ていく。
「殿下、今度は一体何をなさるおつもりで? 視察にしても時間が遅いですし、軍服とは、たちが悪うございます」
マルトがたしなめるように言うと、彼はにやりと笑った。
その企みたっぷりの嬉しそうな顔を見て、マルトは小さく肩をすくめた。
「鍛錬でしたら、わざわざ一兵卒の真似などせずとも、お相手ぐらい見つかりましょうに」
小言を聞き流しつつ、彼は黒髪を襟足で結い直した。
「手加減する相手では物足りん。それに、いきなり行くから普段の様子が知れるのだ。我が触れ付きの供付きで偉そうに出て行ってってみろ。たちまち見たいものも見れなくなる」
たしか、デートレフの剣術師範でもあった王国軍武術指南役の老練の勇士は、かなり前に引退しており、郊外に館を構えたと聞いている。もう、王子である彼に本気で剣を向けるような者は簡単に見つかるまい。
物足りない、というその気持ちは分からないでもないので、マルトは仕方無い、と顔に出した。
「……では、殿下を何とお呼びしますか?」
デートレフは目を細めて小さく口の端を吊りあげた。
「その物わかりのいいところが美点だぞ。お前の弟でいい」
「は。では、そのように」
夏季であるせいかまだ日が落ち切っておらず、兵舎の裏手にある訓練場は、迫る夕闇を前にして、まだ明かりを灯していなかった。
刃先を丸めた剣を打ち合う音が響き、気合のこもった掛け声があちこちから聞こえる。
二人が中に入っても、誰も気にも留めない。熱心なことである。
王宮警備の下級兵士らしい簡素な軍服姿で、デートレフはぐるりと訓練場全体を見渡した。
今日は近衛兵が少ない。宮殿の警備兵の方が多いようだ。
「訓練用の剣を持ってきましょうか?」
「いや、いい」
マルトの問いかけに彼はゆるく首を横に振り、立ち合い中の男二人を眺めた。
「あの二人は強いな。見知っているか?」
言われたほうへ視線を走らせると、細身ながら引き締まった体つきのごく若い男と、デートレフとそう年の変わらないように見えるやや大柄な男がこちらに背を向けて、剣を構えたまま間合いを取っているところだった。どちらも警備兵だ。
マルトの所属は近衛に当たるので、警備兵のことはあまり詳しくない。
「若いほうは、いいえ」
「ならば、あちらの奴はどうだ?」
顎で示されたほうを向くと、ちょうどマルト並みにがっしりした、厳しい猛禽類のような強面の男が剣を一振りし、相手の腕から得物を叩き落としたところだった。こちらは近衛兵だ。
「近ごろ近衛の兵舎に入ったばかりの者です」
「近衛か。よし」
デートレフは近衛兵の方へ足を向けた。
ひと段落したのだろう、近衛兵とその相手が互いに手を握り合った。二言三言、何か言い交わす。
相手の若い男も近衛兵らしい。脱ぎ置いた近衛の服を拾い上げつつ、汗まみれでまだ肩で息をしていた。その若い男が顔を上げる際、近づくデートレフとマルトに気付いた。
「これは、マルト殿。こんな時間にここへ来るとは珍しいのでは?」
マルトは軽く会釈した。強面の男も彼らに目をとめ、会釈した。
「アルム殿。たまたま時間が空いたので」
「そうでしたか。よろしければ、後でお手合わせを願えますか」
「ああ、構わない」
若い男は人懐こく嬉しそうにうなずくと、試合の相手に片手を上げて離れて行った。少し休憩を取るのだろう。
後ろから、デートレフがマルトの背中を小さく押した。誘え、という事だ。
マルトはその場に残った、がっしりと逞しい近衛の男に声をかけた。
「すまないが、疲れていないなら、私の弟分と手合わせしてやってはもらえないだろうか」
「それは勿論、マルト殿の頼みとあれば」
快く男は応じた。立ち合い中の厳しい顔はそのまま男の地顔らしく、頬を緩めてもどこか強張って見える。
「有難い。手加減無用にてお願いする」
マルトが振り返ってデートレフに無言でうなずくと、彼は唇に弧を描いてみせた。
「よろしく頼む」
「こちらこそ」
デートレフは剣も持たずに前に出た。男が険しい顔を一層険しくしてそれを咎めた。
「無手でやるのか」
「そうだ。そちらは得物を使ってくれてかまわない」
男はむっとしたらしく、手の中の剣をぽいと地に捨てた。
「そういうのは性に合わん」
「いいから剣を取ってくれ。我は武器を持たない時のほうが多い。従って無手を鍛えねばならん。そちらは剣を帯びての任務が多いのだろう。それなら剣を鍛えるのが良い。そういうことだ」
淡々とデートレフが語ると、男は目を見張り、今度はうなずいて剣を拾い上げた。
「成程もっともだ。面白い男だな。では、改めて」
二人は一礼すると向き合った。それを見守るマルトが立ち合い役だ。
「始め」
マルトの掛け声で、互いに相手を見据えて構える。どちらも隙が無い。
睨みあううち、少しづつ男の額に汗がにじんできた。むろん暑気の汗ではない。
デートレフも中腰の姿勢を崩さず、じっと待ちかまえている。
「たあっ」
いきなり男が気合を込めて踏み込んだ。
狙いは思いのほか素早く真っ直ぐだったが、デートレフは切り込んだ刃先をかわし、するりと懐に潜り込むようにして、拳で男の脇腹を打った。
しかし男は動じない。鍛えられた筋肉が拳を受け止めただけだ。男は刃を返さず、素早く剣の柄で目の前のデートレフの肩を打った。
デートレフは崩された姿勢を利用して、殴って効かぬなら蹴る、とばかりにそのまま地に手をつき、ガッと足を蹴りあげて相手を跳ね飛ばそうとした。
男は半身になってそれを避け、数歩下がったところで構えを立てなおした。
デートレフは心底楽しそうに笑むと、相手から眼を離さず、しかし余裕で手に付いた汚れを叩いて落とし、今度は左へ動いた。
合わせて男も左に駆ける。走りながら剣が閃く。
振り抜ける刃先を器用に避けながら、デートレフは呼吸をうかがった。
次の瞬間、男は剣を持つ利き腕をとられ、同時に胸元をがっちり握られ、勢いよく投げ飛ばされていた。
刃先を丸めた訓練用の剣が、音を立てて地に転がった。
仰向けに打ちつけられた男は、小さく呻きながら首の下あたりを撫でて起き上った。受け身を取り損ねたらしい。
ここまで、とマルトは見てとった。
「止め」
声を上げると、二人はふうっと緊張を解き、力を抜いた。
「久々にいい運動になった。礼を言わせていただこう」
まだ半身を起しただけの男に、デートレフは歩み寄り、手を差し出した。
男は彼の手を握り、感想を述べた。
「良い経験をさせてもらった。無手に負けるとはな」
にこやかにデートレフは手を握り返し、あまり大きくない声で聞いた。
「なかなか強かった。貴殿は近衛なのだな。失礼ながら、近衛の兵士の中で、自分はどの程度腕が立つ方だと思う? 客観的に答えていただけるか」
「それは……割合ましな方だろうと思うが。いきなり何の話だ」
それには答えず、デートレフは更に質問した。
「貴殿、率直に言って出世に興味は?」
「無いと言ったら嘘になる」
男の正直さにくすりと笑い、彼はマルトを手招きした。
マルトがそばに来ると、デートレフは兵士を立たせ、自分より高い位置にある肩を叩いた。
「貴殿を見込んで頼みがある。近衛の中で自分より強いかましだと思う奴を連れて、明朝、マルトと一緒に来い。さして時間はとらせない。急ぎの任務がある者は除外していい」
彼は正式に王代理になった後の事を考えているのだ。近衛の中から選りすぐりだけを残し、自分の身の守りを固める算段をしている。近衛隊長を通さないのは、何処ぞの貴族の縁故などに左右される可能性を嫌ってと、単に己が判断したいという我が儘だ。
やれやれ、という表情もあらわにマルトは溜息をつき、ごく小声で文句を言った。
「前にも申し上げましたが、急ぎ過ぎては」
「早いぐらいでちょうど良い。我の剣は我が選ぶ」
小声のやり取りを聞いて、立っていた兵士が突然膝を折った。こうべを垂れて囁くように
「失礼いたしました、殿下」
と言った。
察しの良い男というべきか、もっと徹底して隠そうとしなかった態度のせいと言うべきか。いずれにせよ護衛を担うマルトがついているのだから、気が付くのも容易だろう。
「おいおい、見てわからぬか。こっそり来たのだぞ。立て」
デートレフの言葉に、近衛兵はそろそろと立ち上がった。
「知らぬこととはいえ御無礼をお許し下さい」
最近兵舎にはいったばかりの男が、陛下の顔は知っていても、毎年行うべき公式の閲兵を、顔を知られたら見たいものが見られなくなるから、と先延ばししている第一王子を知らぬのは仕方がない。
それでなくとも、デートレフは普段から王子らしい身なりではなく、庶民の格好で宮殿の外へ出歩いてばかりなのだから、古くから王宮務めしているのでなければ、よく見知っている方が珍しい。
「いい。知らぬことで通せ。今言ったこと、我の名は出さずにしてくれるか?」
「は。仰せの通りに」
「よし。頼んだぞ」
それからデートレフはニヤリと笑った。
「マルト、軽く手合わせしろ。手加減無しだ」
マルトはため息をひとつついて、訓練用の剣を取りに向かった。
2020.10.15 ストーリーに変更はありませんが、一部修正しました。
2021.02.16 誤字修正しました
2021.03.06 振り仮名等の微修正しました