4 王子と水遊び
カーイが紋様の外に足を出すと、跡形もなく灰色衣が消えた。
しばらく話していたせいか、大きく息をつくと、ふらりと軽い目まいがした。
「終了か、カーイ殿下。お疲れだろう。あれは少し力を要するからな」
デートレフがそれに声をかける。
肩車からおんぶ、おんぶから抱っこ、それにも飽きて、サーマンはデートレフから離れ、一人硝子窓の向こうに伸びる柱の陰へ止まった鳥に向かって、しきりに手招きしていた。
「もっとこっちにおいで。ほら、こっち」
見たことのない種類の鳥だ。渡り鳥だろうか、茶色くて腹と尾羽だけが白い。口に何か虫のようなものを咥えている。
弟の真剣な表情に苦笑し、それからカーイは部屋全体を見回してデートレフに聞いた。
「この窓は開かないのですか?」
「開く。開けて欲しいのか。やめておいた方がいいと思うぞ。一度に全部開いてしまうからな」
「そうなのですか。少し外の空気が吸いたかっただけです。やめておきます」
「えっ。僕、開けて欲しいです。ちょっとだけでいいから」
聞きつけたサーマンが、甘えるように上目づかいでデートレフを見上げた。
肩車のせいですっかり懐かれたようだ。デートレフはくっくっと笑った。
「鳥に触りたいのか?風が強い。それでもいいか」
「はい」
嬉しそうに答える幼い異母弟。彼はふわふわした金髪をくしゃくしゃとかき回した。
「よし。少し待て」
先程いじった丸い小さなテーブルの操作盤に触れて、デートレフは別の小さな突起をパチンと倒した。
ヴーンというくぐもった音と共に、あちこちからカチカチとなにかの外れる音が聞こえた。
周囲の窓が一斉に上から下へと開いていく。
硝子の仕切りが無くなると、日に熱せられた湖上の空気が渦巻いて流れ込んだ。
「わっ!」
思っていたよりも強い熱風に煽られて、サーマンは手で顔を覆った。
声に驚いた鳥が飛び立ち、風に乗って"塔"の内部を突っ切って逃げていく。
「おっと」
頭上すれすれを掠めていく翼にデートレフが首をすくめた。操作盤の上に、鳥が咥えていた何かをぽとりと落とした。
「……妙な土産など貰っても困るのだが。我は雛ではないぞ」
つまみあげてみれば、奇妙に歪んだ虫の亡き骸だった。
彼の言葉を面白がって、サーマンは声を上げて笑った。
「雛だなんて。そうだ、兄上。飛んだらきっと雛だと思われないよ」
デートレフはふ、と笑った。
飛翔。熱風に乗って天翔ける翼を得る。もうすぐだ。
「ああ。なら飛んでやろう」
「うん。……僕も空、飛んでみたいな」
楽しそうにサーマンが言う。
カーイは飛ぶ鳥の小さくなっていく影を、長いこと目で追い続けた。
昇降機から降りてきた王家の異母兄弟達は、来た時よりもだいぶ打ち解けているように見えた。
サーマンがデートレフにまとわりつき、そのわきでカーイが静かに笑っている。それをデートレフが少しも嫌そうにしていない。
作りものでない主人の表情を見たマルトは、何があったか知らないが、義弟達と少しでも歩み寄れて喜ばしいことだと思った。
"塔"を出るとき、デートレフは導師を呼び出していとまを告げた。ついでに王代理として公式訪問する日取りが決まったかどうか聞いた。
導師は、先程決まったばかりです、と言った。
「五日後には準備が出来ます。こちらから導師がお迎えに参りますので、どうぞお出で下さいますよう。殿下のご訪問を心よりお待ち申し上げます」
「わかった。日程は陛下にも伝えておこう」
「恐れ入ります。宜しくお願い致します」
深々と低頭する導師の上から彼は命じた。
「……同調後、帰りの導師は不要だ。お気遣い無きよう導師長にお伝え願おう」
やや困惑したように導師は顔を曇らせた。
「殿下、しかしそれは慣例に反し……」
デートレフは導師が言いかけた言葉をさえぎった。
「不要だ。いいな」
きつい口調に今度こそ導師が表情をゆがめた。
「今更講釈はいらぬ。ご案じ召されるな」
いくぶん丁寧な物腰だが、はっきりそう告げると、第一王子は導師の脇をすり抜けた。
サーマンが急いでその後追って外に出る。続くカーイが少し気づかわしげに導師を見上げた。
導師はただ首を垂れ、王子達を無言で送り出した。
最後にマルトが外へ出るとき、小さな溜息を聞いた気がした。
それから王子達は初めの約束通り、禁域の湖の岸辺で、"塔"を後ろに水遊びし、魚を追い、羽目をはずして大いに楽しんだ。
初め水に入るのを怖がっていたサーマンを、デートレフは浅いところへ連れて行き、裸足にさせた。
それから背負っていた袋を下ろし、中から固めの麺麭を一つ取り出して半分に割り、一方を末弟に渡し、残りを自分で持って自身も足首を水に浸した。
「サーマン殿下、こうやって撒くんだ。その辺に魚がいるぞ」
彼がぱらぱらと麺麭を千切って散らすと、小魚がわらわらと寄ってきた。サーマンの目がきらきらと輝いた。
「僕もやりたいです!」
水の中に自ら足を入れて、同じように麺麭を小さく引き裂いて近くに撒く。餌につられて、今度はサーマンの方へ一斉に魚が突進してきた。
「あはは。くすぐったい!」
魚の尾やひれが小さな足に当たって、サーマンは笑った。くすぐりから逃れようと片足を上げ、身をよじる。
とたんにバランスを崩した子供の上半身がぐらりと揺れた。
おもわず陸の上のカーイが叫ぶ。
「危ない!」
大きな水音がした。
しかし、濡れて屈んでいるのはデートレフだった。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
片方の膝の上に乗るような形で助けられたサーマンはどこも濡れていなかったが、デートレフは半分水につかって片膝をつき、両腕に弟を抱えていた。
マルトは見ていた限り濡れた以外何も問題ないと推測できた。それでも念のため声をかけた。
「デートレフ様、御無事ですね?」
主人は立ち上がってうなずいた。濡れそぼって苦笑いしている。
「良かった」
カーイが大きく安堵の息を吐く。
「餌を落としたな。凄いことになってしまたぞ」
デートレフが指差したところを見ると、サーマンが落とした大きな塊を争うように魚が囲み、次々と食らいついていた。魚が跳ねて水しぶきが上がる。
転びかけたことも忘れ、サーマンは「うわあ」と漏らし、しげしげとそれを観察した。
「サーマン殿下は何にでも夢中になれるのだな。……ここの魚は余程飢えているようだ。ほら、残りは任せた」
デートレフは持っていた残りの麺麭をサーマンに渡し、ざばざば音を立てて岸にあがりに来た。
そして、まだ心配の残る顔で岸に立つカーイに「冷たくて気持ちが良いぞ?」と通りすがり声をかけ、落ちている背負い袋を拾い、そのままマルトの方へ歩いた。
マルトは着ていた服を脱ぎ上半身裸になると、脱いだ服でデートレフの濡れた体を拭こうとした。
「構うな。着替えならある」
デートレフはマルトの手を避けて、袋をがさごそやって服を引っ張りだした。ちゃんと手拭まであった。
着替えの服は今着ているものより明らかに質が良く、いかにも王子然とした品のあるものだ。
「……ご用意のいいことで」
呆れたようにマルトが言うと、デートレフは嬉しそうな顔をした。
「備えあれば憂い無しだ。しかしまさかこんなことで役に立つとは思わなかったがな。他の用意もあるぞ」
マルトはデートレフが袋から麺麭の入った包み、水筒、干し肉、乾燥させた果実、焼き菓子などを次々取り出すのを見て、肩を落とした。
「成程。本当に"遊びに"来たわけですか……」
「腹が減ってないか? なら食うな。さほど量はない。両殿下と食うことにする」
「そうではありません。そのような服、どこで着るつもりだったのです。まるで公式訪問のようではありませんか。さては導師長とお会いするつもりだったのでしょう。代理が決まったばかりで事を急ぎ過ぎてはなりません」
小声で文句を言うマルトに、デートレフはフン、と皮肉な片微笑みを見せた。
「会うのはやめたのだから良いだろう。それに、義母上の考えはどうあれ当人は降りるつもりらしい」
同じく小声で返しながら、デートレフは着替えを始めた。マルトが手を貸そうとすると、主人は「まず自分が着ろ」と言って断った。
「降りるとは、臣下に?」
仕方なく脱いだ服を手早く着ながら聞くと、彼は低く教えた。
「"塔"のてっぺんだ」
マルトは無言で岸辺に立つカーイに視線を走らせた。少年はこちらに背を向けて、弟に何か話しかけ、そうっと水の中に足を入れたところだ。
「……もっとも、降りなくても我以上になる見込みは無いがな」
脱ぎ落された粗末な服と被り布。その上に落ちる小さな声と微かな含み笑い。
王家の紋入りの服に着替えた第一王子は、気品と自信にあふれた紛れもない王族だった。
遊び飽きたらしい幼い王子達は、デートレフの差し出した食物を喜んで受け取った。
草むらに腰を下ろし、しばらく三人で並んで食べていたが、カーイが一言二言兄弟に何か告げて立ち上がった。
それから彼は、少し離れて控えるマルトのほうに近付き、手に干した果実をいくつか乗せて差し出した。
「少し食べませんか、マルト殿」
「……よろしいのですか」
主人には食うなと言われたが、少年は柔らかい笑顔でうなずいた。
「どうぞ。美味しいですよ」
遠慮しすぎては非礼になると考え、マルトは礼を言ってひとつだけつまんだ。
「それではいただきます。ありがとうございます」
世間話のようにカーイが話しかけた。
「……兄上はずいぶん貴殿を信頼しているようです」
「そう見えるのでしたら、光栄なことです」
「見えます。禁域の"塔"へ来るのも初めてではないのでしょう」
カーイは自分もひとつ果実をつまんで口に入れた。
「……どうして急に兄上はここにお誘い下さったのですか。おたずねしても、はっきり仰って下さらない」
「さあ。気まぐれでございましょう」
マルトは慎重に答えた。微笑を頬にはりつける。主人が言わないことを自分が話すことはできない。王代理が決まったとたん気が急いて“塔”で何やら根回ししようと考えたらしい、とは。
「兄上は気まぐれでよく"塔"に来たりするのですか。ずいぶん色々なことにお詳しいようでしたが」
「元々、殿下は"塔"をよく訪問なさっています。お詳しいのはそのせいでしょう」
「何のためにですか」
「それはもちろん、学ぶためでしょう」
カーイはもうひとつ果実をとった。口に含むと黙って咀嚼した。その様子は何かを考えているようにも見えた。
「あの、ひとつ教えていただきたいのですが」
「何でしょうか」
「"塔"の者って何ですか?導師のことでしょうか。よくわからなくて」
「導師ではありません」
マルトは深く考えずに答えてしまった。言ってから少し後悔した。カーイが答えの続きを待っている。
言い淀むと、第二王子は何を迷っているのかと訝しんだ。
「教えて下さい」
少し強めに問われて、マルトは仕方が無い、という表情を前面に押し出して答えた。
「"塔"が作った人間のことです。導師達が生命について研究し、通常の方法ではない方法で生み出した人間のことです。……御存じないのも無理はありません。王妃様は導師を快く思っていらっしゃらないようですし、"塔"について詳しくお知りになろうとは思われますまい。また、そのような環境では殿下にお教えする者もおりませんでしょうから」
――"塔"が欲するのは強い力を持つ王。王家の力は特殊であり、それは血族に遺伝する。しかし、血は世代を経て薄まりこそすれ濃くなりはしない。現王よりも強い力の持ち主を捜すとなれば、それは過去にしか。
2021.03.06・2021.03.12 振り仮名等の微修正しました