2 異母兄弟と湖へ
マルトが王代理の知らせを伝え聞いたのは翌朝になってからだった。
それを教えた本人は、上品な香りを強く匂わせる小さな紙切れを見せながら言った。
「義母上もなかなか諦めが悪い。今度は夕食を、だと。我が王代理と決まったとたん茶が食事になった」
鼻先でせせら笑うと、デートレフはそれを元のように畳み直して封筒に仕舞い戻し、傍らの侍女に渡した。
「これの返事を書いておけ。ご招待は有難いが、生憎と今日は所用があって伺えぬ。お許しください、と」
部屋付きの侍女が事務的に「かしこまりました」と返答する。
「義母上が好きな花でも添えておけ」
付け足すように彼が言うと、侍女は了承の印に軽く礼をした。
苦い顔でマルトが一言進言した。
「花や栗鼠などより一度だけでも付き合って差し上げたらいかがですか」
冷たく彼は切り捨てた。
「必要無い」
「デートレフ様」
彼は昨日と同じ地味な平民服を着込み、略冠を隠すようにすっぽり被り布を頭に巻く姿である。
てきぱきと腰に短刀を吊るし、背には布袋を背負う。
「……前にも言った。ちゃんと義母と呼んでやっている。それ以上馴れ合うつもりはない。茶会ばかり開きたがる暇人と違って我は忙しい」
後妻として嫁いだ王妃は、近頃彼と話す場を作ろうと躍起になっている。
それは、彼が徹底的に彼女と距離を置こうとするからだけでなく、彼女の子供、すなわち彼の異母兄弟達を彼が対等に扱う気配が無いからでもある。
デートレフがとる表面上の丁寧さは、根底の無関心を周囲から覆い隠していたものの、王妃の苛立ちを抑える効果はないようだった。
「せめて弟殿下達と友好な関係を築く努力ぐらい……」
ブツブツこぼすマルトに、デートレフは肩をすくめた。
「小うるさい奴だな。それほど言うならあいつらも連れて行ってやる」
そして戸口に控えている従者をちょいちょいと指で呼びつけた。
「今すぐに行って、カーイ殿下とサーマン殿下にお伝えしろ。『お暇でしたら今から一緒に水遊びに行きませんか』とな」
従者はお辞儀の見本のように頭を下げ、すぐさま言葉を伝えに行った。
「水遊びとは、まさか湖にですか」
驚き呆れるマルトを尻目に、デートレフはフン、と鼻を鳴らした。
「皆、王家の者だ。問題あるか」
「大ありです。禁域ですよ!」
「大丈夫だ。導師どもが我を咎めることはない」
「王代理ともなれば、それはそうかも知れませんが、遊びなどと」
言いかけてマルトははっと口を閉ざした。
デートレフがクスリと笑った。
「……なんだ、判っているではないか」
それ以上マルトが何も言わないので、彼は手際よく身支度を整え終え、少し考えてもう一人の従者に指示を出した。
「小振りな馬車を用意しておけ。護衛は口の堅いのを二人程度で良い。下働き用の通用門に待機させろ」
「かしこまりました」
部屋を出ていく従者の背を見送る、苦虫をかみつぶしたようなマルトの顔を見て、デートレフはうけ合った。
「そんな顔をするな。子供の面倒ぐらい見る」
金色の頭が二つ並んで目の前で揺れている。馬車が大きく揺れるたびに、軽い子供の体が弾むようだ。
どちらもまだ華奢な体つきで、若いというより幼い部類に入る。本来ならいたずら盛りの年頃だ。水遊びときいて装飾の少ない服を着ているが、品の良さは隠しようも無い。
市井の子らなら、朝から夕暮れまで遊び倒して夏日にすっかり肌が焼けていることだろうに、この二人はほっそりと色白で、母親譲りの天上の花もかくやという整った綺麗な顔立ちをしている。
王宮を出てからだいぶ経った。
馬車に揺られつつ片方の金の頭、理知的な光を瞳に宿した年かさの子供が、口を開いた。
「兄上、ずいぶん遠いのですね。どこまで行くのですか?」
「もうそろそろ着くから心配ない」
デートレフがそう答えると、いくらか安堵の色が見えた。
それよりもっと幼い金色の子供の方は、珍しいのか窓の外を食い入るように眺めている。
「カーイ兄上、なにか光った!」
窓にへばりついたまま子供が外を指差して叫んだ。
カーイと呼ばれた年かさの子供は、弟に寄り添うように窓に顔を寄せた。
「本当だ。……川かな?」
「湖だ。サーマン殿下は初めてか?」
喜色を浮かべる小さな子供に、デートレフは教えてやった。
「はい! 光るんですね。きれいだなあ」
「私も湖は初めてです」
二人の子供は、馬車窓の向こうの生い茂った樹木の間から時折姿を現し、陽光を反射させる水面に心を奪われた。
とうに"塔"の警戒区域内に入った。流れ込む風の質感が違う。
誰に教えられなくとも、デートレフは肌に感じる空気で気づくことができた。
それは呼吸一つするたびにだんだんと濃くなっていく。ある程度以上の力を持つ者なら気付く大気の変化だ。
この異母兄弟は判るのだろうか。もう既に禁域の中だという事に。
二人とも笑顔だ。遊びに出たことが嬉しいのか、特殊な空気に気づいているのかどうか、傍目には分らなかった。
デートレフは楽しそうな様子の異母弟らに声をかけてやった。
「そのように喜ばれると案内する側も嬉しいものだな」
サイズの違う類似品のように、容貌の良く似た二人の弟、カーイとサーマンをお得意の微笑でもてなす。
マルトには、主人が微笑を浮かべながら、冷静に分析しているのが判った。
異母兄の気まぐれで突然誘われたにもかかわらず、宮殿の外に連れ出してくれたことに対し無邪気に礼を言うサーマン。
多少戸惑いはあるものの、同じく外出の機会を得て気分が高揚しているらしいカーイ。
素直にはしゃぐサーマンと、弟と静かによりそうカーイの様子に、マルトは微笑を浮かべた。仲が良い。
馬車に同席しながら一言も話さず、静かにしていたマルトだったが、時々カーイの視線がちらりと自分に向くのが感じられた。
デートレフは側近のマルトを自分の護衛だと彼らに説明し、同乗させた。
主人のそばの一段低いところに侍ることがあっても、マルトが異母弟王子達と間近で顔を合わせるのは初めてであった。
次にふと目が合った時、マルトが軽く会釈すると、カーイは淡雪のような笑みを一瞬浮かべた。
清らかでふんわりとはかない微笑。それなのに温度がまるで感じられない。
子供らしからぬ冷やかさに少し驚いて目を見張ると、カーイ王子はマルトから視線を外し、外をうかがった。
もう"塔"はすぐそこだった。
馬車は"塔"に至る長い橋の手前で止まった。騎馬の護衛が二騎、その後ろで静止する。
一行が降りると、目の前には豊かな湖水が広がっており、背後には森が、脇には開けた夏野原が待っていた。
そして、湖水の中から生えるように天に伸びた建物が"塔"だ。
岸辺まで進んだ王子達は、高く晴れ上がった空とそれを映す湖面を前にして、禁域の濃い空気を吸った。
マルト以外の付き人は、馬車と一緒に待機させられた。
そして、マルトは王子達からちょっとだけ離れた草地に控えた。そこなら兄弟の邪魔にならないし、呼ばれた時にすぐ駆け付けられる。
「デートレフ兄上、あれはなんですか?」
子供らしく首を傾げ、"塔"を指差してサーマンが聞いた。
デートレフは面倒がりもせず丁寧に教えてやる。うけ合ったからには相手をするつもりらしい。
「あれが"塔"だ。灰色衣の導師達がいるところだ。導師に会ったことがおありかな、サーマン殿下?」
「いちどだけ。昨日父上が連れていたおじいさんは『どうし』なんだって、カーイ兄上が」
「ほう。カーイ殿下、導師にお会いしたのか?」
カーイはこっくりし、それから考え考え答えた。
「はい。昨日、父上と一緒にいらっしゃるところに呼ばれてご挨拶を。それから、サーマンが生まれた後すぐだと思いますが、母上のところに導師が来たんです。多分、名付けか何かで」
デートレフが面白そうにほう、とまた言った。
「義母上はご生国風の名前をお考えになったからな。少々周囲に反対されていた。カーイ殿下の時は導師の制止が通ってどちらの国でも通るその名になったが、サーマン殿下のは結局、義母上の意見が通った」
「でも、父上と兄上は何も仰らなかったと聞いています」
真っ直ぐ異母弟達が彼を見上げている。
確かに彼は何も言わなかった。
カーイが生まれて、王妃が生国である北の隣国の風習に則った名を付けようとしたとき、小娘の郷愁からきた感傷のような名前など許されぬ、と周囲が息巻いた。我が子かもしれぬが王の御子だ。もっともな反対である。
嫁いできた当時の後妻の義母は、誰の目にもたしかに美しく映った。が、同時に微笑ましい程年若く言動がどこか子供じみていた。
デートレフも周囲に意見を求められた。彼は肩をすくめて嫌悪の表情をしたただけで意を表し、言葉にしなかった。
サーマンのときには、カーイが王家の力を大して持たないことを知っていたので、恐らく次に生れた赤子も同じように能力が低いだろうとデートレフは予測した。
自分に対抗できそうもない力の薄い子に、義母がどんな名前を付けようが、はっきりいってどうでもよかった。二度目は黙認という名の無視をした。
デートレフはちょっと思い出し笑いをした。
「御自身の御子息だ。我が口出すことではない。好きに名付ければよかろうと思ったまでだ。父上はまあ、あれだ、義母上のお考えを大切にしたかったのだろう。常に寛容な方だからな。……で、自分の名前は好きか、サーマン殿下」
「うーん。好き、かな」
サーマンはにこっと照れたように笑った。
「それでは、カーイ殿下はどうだ。自分の名前が好きか」
「自分の名前が好きかどうかなど、考えたことありませんでした」
「では、今考えるといい。お前は自分の名が好きか?」
カーイはしばし小首を傾げて考えた。
「好きじゃない、です」
「何故だ」
「上手く言えないですが、ただ呼ぶ時だけに使う音ということなら、好きでも嫌いでもないです。そうじゃなくて、私自身を指すのなら、違う呼び方がいい」
「例えば?」
「例えば……」
カーイはそこで声に出すのをやめた。唇が言葉を形作る。
読み取ったデートレフの微笑がすうっと消え、弟を見る目が鋭くなった。
「本気か」
「……はい」
カーイはしっかりと彼を見つめ返した。
子供だとばかり思っていた異母弟が、大人びた強い眼差しで地を踏みしめ、立っている。
「王代理の話を聞いたのか」
うなずくカーイの頬がさっと紅潮する。きゅっと引き締められる眉根。
「我に、対抗する気か」
兄王子が低いかすれ声で問うと、思慮深い返答が返ってきた。
「それは、まだわかりません」
一回りも違う第一王子と玉座を争うのではなく、全て諦めるのでもない。
王族特有の天賦の才能を得られなかった少年は、異なる頂点を目指すことに決めたのだ。
デートレフは喉の奥でくくっと笑い声を噛み殺した。
「面白い。……いいだろう。お前の決意を認めてやる」
なぜ突然長兄が笑ったのかわからないサーマンは、ぽかんとふたりを見上げたままだ。
「我は褒めもしないしけなしもしない。お前は他のどんな者よりも難しい道を進まねばならんはずだ。だが、それを選んだことは評価する。だから忠告してやる。気を抜くな。意志を強く持て」
カーイはこくりとうなずいた。
これが異母兄にとって破格の待遇だという事は、少年の彼にもなんとなく感じられた。
「ありがとうございます、兄上」
礼を言う次兄を見上げ、サーマンがにっこりした。兄が嬉しいと自分も嬉しい。そんな顔だ。
デートレフは"塔"を仰いだ。夏の日差しに滑らかな壁が照り映える。眩しい太陽が容赦のない熱を降り注いでいる。
天に輝く太陽が一つだけのように、地にも王は一人だけ。
「……気が変わった。マルト、馬車にお乗せしろ。"塔"の中に向かう」
デートレフは離れて立つマルトに声を張り上げて言いつけると、自身は湖に向かって伸びる橋のたもとへ進んだ。
橋の太い柱に彼は手の平をあてた。彼の周囲に陽炎のようなものが生まれ、その身を包む。
ヴーン、と重低音が響く。次いでカチカチと小さな音がした。
デートレフは手をあてたまま小声で何か呟いた。
「対象を確認。警備を一時解除いたしました。通行を許可します」
機械的な声が柱の上の方から投げられた。
マルトは横目で主人の作業を見つつ、二人の弟王子を馬車に乗せる手助けをした。
2021.03.06 振り仮名等の微修正しました