狂気のアリスと子守のメリー
本の表紙を眺めていても、中身はわかるはずもないので。
あたしは文面をなぞった。
──少女は、物語の続きを望んだ。
♠
タイヤの下で、紙が軋む音がした。
「ついたよ、仔猫」
「そ、お勤めご苦労様」
御者に淡泊な返事を投げつつ、あたしは車窓の景色を見つめる。
四角に切り取った空。
デタラメな色彩だ。空は赤くて、地面は真っ黒。
跳ねる白兎が「急げ、急げ!」とみっともない足音を響かせて、あたしの視界を横切っていった。
おとぎ話の世界は、滑稽なまでにおぞましい。
「あなた方のご主人サマは、随分と趣味が悪いのね?」
「お客人。あまり無礼を言うと、恐ろしい女王に首をちょん切られてしまうよ。常に笑顔で、みんなを傷つけないように心がけて」
「……ええ、素敵。努力する価値があるね」
ため息をこぼすみたいに、応えた。
窓ガラスの鏡面に反射する笑わない少女。
無愛想で、きっと誰からも愛されない。
「そうだろう、そうだろう」と御者は言葉面だけを受け取り、ご機嫌に頷いた。
単純な思考だ。嘲りに近い感情を懐きながら、馬車を下りた。
長髪を後ろ頭に結い、外套を羽織る。……仕事道具、よし、持ってる。
「ワンダーランドにようこそ! キミは、キミは何人目のアリス!?」
と、足元から声が聞こえてきた。
見下ろすと、愛らしい笑みを浮かべた駒鳥がいた。
あたしの紅い靴の先に止まろうと、細枝のような足をバタつかせている。
彼の問いを微笑で受け止めた。
「そうね、あたしは来たばかりだから存じ上げないの。よろしければ教えてくださる?」
「もちろん! アリスはひとり! ただひとりだけ!」
「よかった。ひとりだけなの。杞憂ね、もう。紛らわしい尋ね方はやめてくださる?」
「うん、ごめんね! ねえ、へそ曲がりなキミ! キミはだれなの!?」
「あら大変、名乗ってませんでしたね。あたしはメリー、よろしく駒鳥さん」
「メリー! メリー! 素敵な名前だね! キミはお客人? お茶会にご招待されたの!?」
「いいえ、違う」
突き放すように言い放つ。
本来の口調に戻っていくのを感じる。
はしたなくて。
獣のように本能的な。
──偽りで描かれた寓話は終わり。
──幕を開くのは、ひどく血生臭い舞台劇。
これは宣誓だ。あたしは、地面に唾を吐き捨てた。
「あたしはクソッタレな物語を裁断しにきたの」
困惑した駒鳥が、空中を羽ばたく。
無様に羽を飛び散らせながら、甲高い悲鳴をあげていた。
あまりのショックで脳が昏倒し、コウモリの飛ぶ夜に墜落していった。
「大変だ、大変だ! クックロビンが死んでしまった!」
「誤解なさらないで。殺すつもりはあったけど、いまのに悪気はなくってよ」
周囲の鳥獣たちが、同時に幾つも叫喚を響かせる。
しょうがないなあ、もう。
混乱のるつぼの中を、あたしは歩いていく。
「どうしよう、どうしよう!」
「そんな! 誰が殺したんだ!?」
「追い出せ! 裁判だ! 死刑だ!」
糾弾の声に足を止め、わざとらしく困った顔をつくった。
「死刑は困る。温情を与えてくれよ」
「おや、おや? 反省してるよ!」
「仲直りしよう!」
「でもいけない! 判断するのは女王だから!」
「ああ、女王は死刑だって言うよ! きっと!」
「そう……なら、司法取引は不成立だね。あたしは女王を弑逆する」
もはや、対話は不要だ。
……いいえ。
初めから、あたしと彼らの間に、共通する言語は存在しない。
あたしは根本から歪んでいて。
彼らの頭は狂ってるのだから。
「ああそんな! でた、きた! バンダースナッチだ! 逃げろ!」
「あ、アァアアアァアア! いたい! いたいよ! どうして! どうして死ぬ必要があるの!?」
──と。
背後に、巨影が降り落ちてきた。
灼ける息が後ろ髪を叩く。噎せ返る獣臭。唸る鳴き声には、強烈な殺意が孕んでいる。
振り返ると、魔犬がいた。
バンダースナッチ。
血の色を纏い、顎を燻り狂わせる怪物。見れば、槍の穂先を思わす歯には、寸前まで生きていたであろう肉塊が絡まっているではないか。
「こんにちは、バンダースナッチ。あなたって節操がないんだね」
『■■■■■──!』
煮え滾る憎悪を吐き出し、魔犬が首を伸ばす。
──伝承は唄う。
──努々、バンダースナッチには近寄るなかれ!
さらば灼熱の顎が、あなたを喰い尽くすのだから。
バンダースナッチに認識された時点で、死は確定するのだ。
「────」
視線の先。数瞬前まであたしが立っていた空間が抉られている。
迸る顎に噛み応えを得られず、魔犬に困惑がにじみ出た──あたしは、躍り上がった中空で一連の行動を目撃していた。
生きている。その不可解に、バンダースナッチが唸った。
『■■■■■■──!!?』
「いきなりご挨拶だね、悪い子だ!」
影が膨らむ。魔犬は俊敏だ。
すぐさまあたしを仰ぎ見て、牙の切っ先を向けた。その首が変形する。
伸びる。伸びる。伸びる。
魔犬は理屈を凌駕し、否応なしに死をもたらす。
だけど。
伝承など覆す。あたしが、あたしなれば!
獰猛に頬が吊り上がるのを自覚した。
「調教が必要だ。あなたも、この世界も! あたしが糺す!」
膨れ上がった殺意が拮抗し、空間が軋む。
互いに受け入れる事実──
これは、どちらかが死に絶えるまで終わらない死闘の舞台である。
♥
ひとりの少女が、不思議な世界に迷い込みました。
しゃべる動物たち。
鳥獣たちのロードレース。
身体の大きさを変えてしまう不思議な薬。
いつも、いつまでも開かれるお茶会。
世話焼きな侯爵夫人に。身勝手な女王。
セカイを見つめて、少女はこの夢をずっと見ていたいと思いました。
だから少女は、夢に目覚めることにしたのです。
まだまだ、物語は終わりません/狂い続ける。
♥
解体されたバンダースナッチが、断末魔を響かせた。
憎悪を連唱し、砕けた牙で、なおもあたしを噛み殺そうとしている。
呆れた気概だ。死んだまま、あたしを殺すつもり?
「伏せ。喋らないあなたは利口でかわいいね」
『■■■■……』
「バンダースナッチが死んだ! 彼女が殺した!」
「罪状は〝バンダースナッチを殺した罪〟かな!」
「なら刑罰はなんだろう?」
「首切りだ!」「ちょん切ろう!」「死刑だ!」
「判決を!」「判決を!」「判決を!」
騒々しいなあ、もう。
溶岩の熱を持つ血が、周囲をぐちゅぐちゅと侵食しながら、魔犬の中から溢れている。
何匹かは巻き込まれたみたいで、悲鳴も上げずに燃え尽きていった。
血のマグマの中で血肉をぶちまけて、更なる地獄が生まれる。
「大変だ、女王に伝えないと死刑にはできないよ!」
「そんな! はやく首を切ってもらわないと!」
悲鳴がいくつも響いていた。
狂乱は伝染していく。元々彼らは正気じゃないのだから、大した違いはないのだけれど。
あたしは脱力しながら、馬車に戻る。
御者がおっかなびっくり、と言った様子であたしに振り返ってくる。
「バンダースナッチを殺した!? あなたは何者だ!?」
「誰からも愛される象徴──あなたたちが少女と呼ぶ存在と、相違ないよ」
嘆息と共に応えて、先ほどの会話をはたと思い出す。
「そうそう、訂正させて。あたしは仔猫じゃなくて、淑女だ」
皮肉が口元を掠めた。
あたしが淑女? 短剣を振り回して、醜く踊るあたしが?
冗談にしたってお粗末だ。
「お客人、あなたは処刑される! 女王はあなたを見逃さないだろう!」
「そ、大変。手間をかけさせては申し訳ないし、こちらから出向きましょうか」
御者の首に短剣を添える。
刀身は碌に血拭いしてないから、根本が腐食していた。
「女王のもとまで連れていって。安心して。帰り道までは殺さないよ」
「け、けど! きっと私まで女王に首を切られてしまう!」
「それこそ安心して。あなたは手を貸すわけじゃないから、あたしは足を借りるだけ。足だったら切られる心配はないんだよ」
「ほ、ほんとうに?」
「うん、本当も本当。だけど、その前にあたしがあなたの首を切ることだって、容易いんだよ」
優しく諭すと、御者は声もなく頷いた。
焦燥がごとく馬を操り、御者が馬車をはしらせた。
……うん、瀟洒な歩きだ。
固いシートに背中を預け、外套に短剣を納める。
後ろで結んでいた紐を乱雑に解く。
軛から外れた髪の尾が、車窓から吹き抜ける風になびいた。
「いい風だ。うん、うっかり微睡んでしまいそうな」
夢の中で眠る……なんて、つじつまの合わないことを考える。
♦
夢から目覚めた少女は、もう一度あの不思議な世界に行きたいと願いました。
そして、再び目覚めます。
そこは、鏡越しの世界。
名無しの森。
ハンプティダンプティ。
赤の軍と白の軍。
女王の会食。
赤の女王が変じた仔猫を捕まえると、少女は目覚めました。
少女は自問するのです。
これは、自分の夢か?
それとも、赤の女王の夢か?
♦
たどり着いたのは、トランプの城。
ひび割れた白亜の城壁は血色に彩られている。
庭に乱立するのは、串刺しにされた多種多様な生首。
馬であったり、カメであったり、帽子屋であったり。
頭部の博覧会みたいだ。
女王は、豪華絢爛の趣向を勘違いしているらしい。
「やっぱり趣味が悪い」
「なあ、なあ、私はもう行っていいかな!」
「うん。お勤めご苦労様、またあとで会おうね」
馬車を下りながら、御者の肩を叩く。
地に足をつけた瞬間、トランプの軍団が殺到してきた。
あたしの腕に、足に巻き付いてくる。
「捕らえた!」「捕らえたぞ!」
煩わしい。
光に集る羽虫さながらの様相に舌を打ち、懐から短剣を閃かせる。
バラバラに切り裂かれたトランプが、悲鳴を上げて舞い落ちた。
「残念。あたしは道化師、あなたたちでは不足だ」
嘯き、歩き出す。
重い扉を開くと、噎せ返る血臭が押し寄せてきた。
謁見の間。
天井は遠いくせに、妙な重苦しさを感じる。
年代物の絨毯には、夥しい血がシミになってこびりついていた。
目に見える赤すべては、血で塗られている。
「まあ、まあ、まあ! 可愛いお顔!」
奥から、粘ついた甲高い声が降り注いだ。
現れたのは、ふくよかな女性。
堂々とした顔の上には、小さい冠が載っている。
「ハートの女王……」
と、その名を呼んだ。
視線が外せない。彼女の手には、武骨な大剣が握られている。
幅の広い刀身には、生々しい鮮血が付着していた。
童話上での彼女は『首をちょん切ってしまいなさい!』と、怒りと共に言いこそすれ、実行には移さなかった。
「驚いた。あなたって、口だけじゃなかったかな? 首を切れと命じるばかりで、決して手は汚さないものかと」
「…………」
返答代わりに、彼女はその手に掴んでいたものを投げてきた。
ゴロン、と鈍い音を立てて、足元に何かが転がってくる。
……生首。
さっき、あたしが見送った御者だ。
あなたの癇癪には抵触していないはずだけど。
「そう、とっくに見境はなくなってたんだ。女王サマ」
じろり、と脂肪で窪んだ眼窩から睥睨する光。舐めるような視線で、あたしを見つめている。
如何に首を切るか、算段をつける瞳だ。
目を閉じ、挑発的な笑みを作った。
「でも道理ね。女王サマは、とっくにヴァージン卒業済だろうし!」
「貴女は可愛い顔をしてるもの。とびっきり惨たらしく殺すわ!」
「やってみなよ、尻軽おばさん!」
示し合わせたかのように、同時に地を蹴った。
中間でぶつかるのは、短剣と大剣。
剛力で振るわれた大剣を、受け止めるのではなく、軌道をズラすように合わせた。
「大人しくしてなさい、丁寧に首を切ったげるから!」
「汚い声で喚かないで」
首切りの剣は大量の血を飛ばしながら肉薄する。
彼女の呼吸に同調し、完璧なタイミングで軌道を逸らす。
「ああ、もう! 小賢しい!」
女王にしてみれば、あたしの剣技は魔法そのものだろう。
確実に相手を殺せる一撃が、須らく外れているのだから。
断頭の刃は床を抉り、壁を破壊し、徹底的な暴虐を遂行する。
でも、あたしには触れられない。
「どうした、あたしはまだ生きているぞ!」
女王の剣が苛立ち、荒くなった。
暴力の嵐を紙一重で躱し続け、一点の隙を見出した。
大きく振りかぶった両腕。がら空きだ。
「首、置いていきなさい!」
振り下ろす大剣をバックステップで避けて、着地の瞬間に絨毯を踏みしめ突進。
一陣の颶風と化したあたしは、肥大化した腹に短刀を突き立てた。
首を切るはずの大剣は、床を砕き沈黙する。
花が咲く。
腹に沈んだ切っ先から、確かな手応えが伝わった。
「え…………?」
惚けた声を漏らす口から、ゴボゴボと水泡を膨らませて血が溢れ出た。
手荒に剣を引き抜き、身を離しながら横薙ぎに振るい、女王の首に一筋の傷を抉る。
傷を塞ごうと分厚い手を宛がうが、噴き出る鮮血は止まらない。
瞳が濁り、色を失う。
怯えるように上げた顔を見据え、あたしは静かに告げる。
「バイバイ、女王」
「どうじで……?」
「あたし、いつまでも夢を見ていたくないの」
「あ、りす…………?」
「……人違いだよ」
何かを求め、縋る声。
無念に持ち上がった手が、血だまりに落ちた。
一面が血の海だ。
女王の深紅と、庭で串刺しにされた生首たちの黒く濁った赤。
「これで、ようやく終わる……あたしは、夢から目覚める」
淡く、呟いた。
そのときだった。
『お客様ね! まぁ! お人形さんみたいに可愛い!』
場にそぐわぬ、酷薄なまでに無邪気な声が、木霊を打った。
レコードを通したような、ざらついた感触の声音。
「嘘だ」
敵わない、と瞬時に悟った。
あたしはここで死ぬ。
底知れぬ絶望が足先から抜けてくる。
取りこぼした短剣が、床を跳ねて硬い金属音を響かせた。
『私はアリス。人形のあなた、名前を教えてくださる?』
「あ、あああぁ…………」
闇に落ち、縋るように崩れ落ちた。
べちゃり、と粘着質な血液が、手の平を汚す。
赤黒い水面に映るあたしの目は、限界まで見開かれている。
蒼白となった頬で唇を戦慄かせていた。
「このセカイは『ハートの女王が支配する夢』じゃなくって『アリスが観測する夢』……物語のすべてがデタラメなのは、あなたが体験した出来事を、混沌に溶けこませたセカイだから!」
『正解! 誰も、夢なんて見ていないの! 私たちのセカイ、みんなのワンダーランドですもの』
変化は劇的だった。
目前の地獄が、集約していく。
血が、肉が、骨が、首が。
ひとりの少女を象った。
命の水を啜り、淫靡にアリスは蘇った。
「はじめまして」
母胎を引き裂き、赤子が現れるような。
生まれた命は、限りなく醜悪だった。
腰にまで届く長い金髪。
禍々しい紅蓮の双眸。
蠱惑的に蠢く唇は蕾みたいに。
艶やかにドレスを翻し、少女は現出した。
「アリス」と、茫然とその名を呼んだ。
少女はドレスの裾をつまみ、上品なお辞儀をする。
「ええ、アリスよ。あなたの夢を教えて?」
「…………夢を、終わらせること」
絞り出すように答え、立ち上がろうと力をこめた。
「立っちゃダメ」
体が軋んだ。
不可視の圧力が体を押し潰している。
な、これは……!?
「うふふ、四つん這いで動物みたいね」
「……! なにを、した?」
「まだしゃべれるの? あなたってば、とびきり頑丈ね」
床に押しつけれて、アリスの姿が靴しか覗えない。
「教えて? どうして夢を終わらせたいの?」
少女の言葉は、否応なしに心の根幹を抉る。
「素敵な世界よ? 動物たちと心を通わせて、退屈な授業はなくって」
「……決まってる」
いつまでも、夢を見てばかりじゃいられないから。
人魚姫が、やがて泡となって分解されるように。
双子の兄妹が魔女に喰われるように。
そんな、自然な結末を迎えたいのだ。
「夢なんて見たくない。ましてそれが、他人の欲望に塗れた夢なら尚更願い下げだ」
不意に、頭が持ち上がる。
髪を無造作に掴まれ、ウサギでも捕まえたみたいに掲げられた。
こんな細い手首のどこに、こんな力が……!
「う、ぐ……!」
呻き、アリスの顔を睨み付ける。
裂けた薄桃色の唇を吊り上げ、彼女はあたしの顔をなめ回すように眺める。
「綺麗な顔ね。でも怖い顔で台無し。笑ってくださいな、私の人形さん」
「誰が……!」
「もう、汚い言葉はダメですよ。お口、チャックしましょうね」
途端、口に激痛が走った。
眼球が飛び出んばかりに目を剥き、脳がスパーク。
口を冒涜した感覚に気が狂いそうになった。
あたしの頬に手を添え、アリスは恍惚と鼻歌を奏でる。
「──!」
「見て、ゆっくり、縫って……出来た!」
少女は謳う。
悶絶の声すら漏らせず、あたしは蹲った。
掴まれてた髪が何本か千切れ、床にパラパラと落ちた。
震える手で口を探る。
指先から伝わってくる事実に怯えた。
口を縫われている。ジグザグに、糸で!
「あ……う……!」
悲鳴や涙がなくとも、慟哭は成立する。
理解できない。
この少女は、あまりにも空っぽだ。
残酷な無邪気さも、
純真な悪意も、
すべてが、嘘で塗り固められた狂気。
「まぁ、どうか悲しまないで! ここはワンダーランド! みんなが素敵に生きて、きちんと死ぬ夢の世界なのよ!」
アリスの叱咤に呼応し、糸があたしの唇を蠢かせた。
無理矢理に笑顔を作られて、想像を絶する痛みが、灼熱となって口を襲っていた。
「マリオネットみたい! 踊って、あたしのビスク・ドール!」
「……!」
縋り付くように伸ばした手が、鋼鉄の輝きに触れた。
短剣を引き寄せ、己の口に突きつけた。
そのまま、横に一閃。
ぶちぶち、ぐちゅぐちゅ。
口内に血液が溢れ、胸の奥からせり上がってきた胃酸と混ざり合う。
切れた糸がぷらぷらと吐息で揺れる。
「が、べ……」
糸の切れた人形は、己の足で立ち上がった。
「大変、ひどい傷よ! 人形師の次はお医者さんね! まかせて!」
「うる、さい。よくも口を縫ったな、ファーストキスだってまだなのに!」
「おませさん。傷を作ったのはあなたよ?」
「裁断する、ぜったいに!」
「野蛮、野蛮なバルバロイだわ!」
きゃー! と少女は白々しい悲鳴を上げる。
痛みで感情がショートしてしまった。
恐怖が麻痺して、憤怒が体を焦がす。
短剣を構え、人外の少女と対峙する。
「あなたを裁断すれば、物語は終わる……!」
「ふふ、どうするつもりなの?」
「どうしてほしいか、鳴いてみてよ」
血を吐き、あたしは短剣を振るう。
アリスの動きはデタラメなのに、あたしの剣は一度だって掠らない。
舌を打ち、猛攻を強めた。
軌道は完璧なのに、規格外の法則が少女を生かし続けている。
「ねえ、ねえ! 楽しい、楽しいわ!」
あたしにとっては死闘でも、アリスにとってはただの舞踏。
相手は遊んでいるだけ。
だから、あたしは反撃を受けずに済んでいる。
でも。
「むー! あなたってば、乱暴!」
と、少女の蠅でも払う仕草。
反射的にのけぞり、軌道上から逃れた。
ぞん、と。
信じがたいことに、それだけであたしは昏倒しかねない痛みを胸に受けた。
「が、は……!」
まずい、次の一撃がくる!
両足を揃え空中に躍り上がり、ムーンサルトの要領で背後を取る。
短剣を突きつけるが、アリスは嫋やかな仕草で躱してみせる。背中に目でもついてるの!?
「すごいすごい! 道化師にもなれるのっ?」
「ほんと、呑気で生意気! 覚えて死んできな、支配者を嗤うのは、いつだって道化師なの!」
「む~! なによなによ! 私も、本気だしちゃう!」
言って。
何もない空間から、彼女は一振りの剣を引き抜いた。
黒の剣。
ほかのすべてを拒絶する漆黒。
世界を軋ませ、怪物を斬り伏せる必滅の影。
すなわち、
──ヴォーバルの剣。
ジャバウォックの詩にて語られる、勇士が手にしたとされる伝承。
そればかりは、あたしにも覆せない。
「そう、やっぱりあなたが持っていたの」
「ええ、名無しのあなた! 一緒に踊りましょう!」
最悪な夢だ。
最後に見るのが、こんなにも憎らしい顔なんて。
♣
少女は、人形の首をちょん切ってしまいました。
物言わぬ人形は、やっぱり綺麗な顔をしています。
顔を持って、うっとりと眺めます。
濡羽色の艶やかな髪。
鼻筋の通った冷たい容貌。
光を失った瞳の色は緑。
なんて、なんて素敵なお顔でしょう!
たまらなく愛おしくて、
お気に入りの洋服が汚れるのも気にせず、胸に抱きしめました。
それはまるで、宝箱に大事なものをしまい込むような仕草。
熱が胸を伝ってドキドキさせます。
そして、とうとう少女は人形に口づけをしてしまいます。
ああ、なんて! 私ったら、なんてはしたないの!
芳醇な香りに酔いしれる自分を、少女はどうすることもできません。
お庭の博覧会に加えるのが、なんだか名残惜しい。
やがて少女は、首と胴体をつなぎ合わせることにしました。
魔法みたいに、少女は唱えます。
「私、あなたと同じ夢を見ていたい」
♣
そしてあたしは、夢に目覚めた。
一目で、夢と悟った。
だって、あまりにも綺麗な少女があたしを見つめている。
こんなの、絶対に現実じゃない。
後頭部に柔らかい感触があって、少女の顔が近い。
俗に、膝枕……っていう姿勢なのかな。
「起きた? あたしの可愛い人形」
「どなた……?」
「はじめまして、あたしはアリス」
「アリス」と、朦朧とした意識で名前を呼ぶ。
ぱあ、と笑顔を弾かせて、頭を抱えるように抱きしめられた。
くらりと目眩がするような、芳醇な匂いが感覚を包み込んだ。
「あなたの名前をおしえて?」
「あたしの、名前?」
唐突に、暗黒に閉じ込められた錯覚。
自分が何者なのか、認識できなかった。
「あたしは、誰なの?」
「まあ! 忘れてしまったの? ん~私も知らないの!」
頼みの綱が、あまりにも頼りなくって愕然とした。
露骨に暗い顔をしたあたしに、アリスは励ましの言葉を注ぐ。
「でも! あなたは生まれ変わったの。だから、私が名前をあげる!」
「本当?」
「ええ。そうね……魔法使いみたいな外套だし、メリーはどうかしら?」
その名は、胸の奥に快音を響かせるほど腑に落ちた。
「素敵な名前」
「そうでしょう? あなたは私と一緒にいるの。私ってば、まだまだお姉さんになれないの。だから、あなたに安心して眠らせてほしい」
「あたしが、あなたを守るの?」
「ええそうよ。だからメリーなの。子守の魔法使い」
赤い絨毯に、雪のように真っ白な台詞が降り注いだ。
なんて、眩い役目。
この少女を守れる/裁断できる。とは。
「……?」
「あら、どうしたの? 首が痛む?」
「いえ、なんだか雑念が」
変だ。どうして、あたしは彼女を殺したがっているのだろう。
ぎちり、と振ろうとした首が妙な音を立てた。
違和感。意識が、まだ沈んでいるのか?
現実の地平に浮上するよう、何かが胸の奥から訴えかけている。
「いけない、起きちゃだめよ」
「……どうして?」
「あなたってば、すごく疲れてるの」
ああ、それは、眠らないとダメだ。
このまま、少女に頭を撫でられながら。
霞んでいく視界。
その、中に。
短剣の、輝きを目撃した。
手には、冷たい狂気が握られていた。
すなわち、物語を裁断する刃。
『歪んだ続編』を剪定し、正しい物語に還す剣。
「ねえ、メリー……いつまでもそばにいて」
ゆっくりと目を閉じる。
もう、夢を見るのはこりごり。
「おやすみ、アリス」
「ええ、おやすみメリー」
「いい夢を」
「うん……え?」
手応え、あり。
少女の首が、ちょん切られた。
軽く書きました。初百合です。
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