一章 十話 売国奴
仮面の裏側で、俺の呼吸は荒くなっていた。 蒸れる。視界が悪い。そして何より、心臓の音がうるさい。
伍長になりたての俺が、近衛中佐の軍服を着て、中央憲兵の仮面をつけている。 バレたら銃殺刑どころでは済まないだろう。
「止まれ! ここは近衛省の管轄区域だ。所属と用件を……」
ゲートの番兵が、銃を構えて水蒸車の前に立ちはだかる。 運転席のミランダ海兵長が窓を開け、無言で一枚の黒い手帳を提示した。 そこには、黄金で『中央憲兵隊』の紋章が刻まれている。
「っ……! 中央憲兵隊……!? 失礼いたしました!」
番兵は青ざめた顔で敬礼し、慌ててゲートを開けた。 俺たちの乗る水蒸車は、滑るように基地の深部へと侵入していく。
「見事なビビりっぷりだったな。おい、ミハイル……いや、中佐殿。背筋が硬いぞ」
隣に座るニシミヤ大尉が、楽しそうに俺の脇腹を小突いてくる。 この人は、この状況を楽しんでいる。
「大尉、笑わせないでください。吐きそうです」
「安心しろ。喋らなければバレない。君はただ、不機嫌そうに立っていればいい」
車が止まる。 目の前には、豪奢な装飾が施された司令官用の建屋。 ターゲットであるニーマ近衛少佐の執務室は、この最上階にある。
「行くぞ」
大尉の合図で、俺たちは車を降りた。 廊下ですれ違う兵士たちが、俺の赤い軍服と不気味な仮面を見て、次々と道を譲り、深く敬礼をする。 俺はそれを無視して、大尉の後ろを大股で歩いた。 無視することこそが『特権階級』の演技だと、大尉に教え込まれたからだ。
「ここだ」
重厚な扉の前で、大尉が足を止める。 ノックはしない。 ミランダ海兵長が、乱暴にドアノブを回し、勢いよく扉を開け放った。
「失礼する」
「なっ……何だ貴様らは! ノックもなしに!」
部屋の奥、執務机で書き物をしていた男が顔を上げる。 神経質そうな細面の男。ニーマ近衛少佐だ。 彼は立ち上がろうとして、俺の姿――赤い軍服と仮面――を見て、動きを止めた。
「中央……憲兵……?」
「ニーマ少佐。貴官に国家反逆罪の容疑が掛かっている」
ニシミヤ大尉が、氷のような声で宣告する。
「は……? ニシミヤ大尉が近衛省の軍服を...何を馬鹿な……証拠はあるのか!」
「証拠なら、貴官が今燃やそうとしていたその書類と、帝国の密偵からの証言がある。同行願おうか」
「ふざけるな! 私は武装貴族だぞ! たかが平民風情が……」
ニーマ少佐の顔が歪む。 次の瞬間、彼が右手を掲げた。
「近寄るなッ!」
空間が歪む。 ドレイク家の魔術。 少佐の掌から、赤い燐光が溢れ出し、それが爬虫類の鱗のような形状へと変化していく。 魔力による障壁か、それとも攻撃の予備動作か。
「伍長!」
大尉の鋭い指示が飛ぶ。 俺は考えるより先に動いていた。 腰の後ろに隠していたルガーP08を抜き、安全装置を弾く。
狙いは胴体。 魔術の光が俺たちを焼き尽くすより早く、俺は引き金を引いた。
――ダァン!
乾いた発砲音が室内に響く。 独特なトグルアクションの衝撃が、手首に伝わる。
「がっ……!?」
ニーマ少佐が放とうとしていた光が、ガラスのように砕け散った。 魔力無効化弾。 その効果は劇的だった。術式を構成していた魔力が霧散し、少佐はその場に崩れ落ちる。
「腕を……撃ったのか……?」
少佐が血の滲む腕を押さえ、信じられないものを見る目で俺を見る。 俺の手にあるのは、まだ硝煙を上げているルガー。
「確保しろ」
大尉の命令で、ミランダ海兵長が素早く少佐を取り押さえ、魔術を無効化する手錠と拘束具を装着する。 そのまま彼を乱暴に椅子へと座らせた。
――ガチャリ!
「少佐! 銃声がしましたが……ッ!?」
部屋の騒ぎを聞きつけ、武装した護衛兵たちが雪崩れ込んでくる。 だが、彼らは室内の異様な光景――拘束された主と、赤い軍服の集団――を見て凍りついた。
「ちゅ、中央憲兵隊……!?」
「公務執行中だ。下がれ」
ミランダ海兵長が冷ややかな視線を向け、黒い手帳を掲げる。 たったそれだけの動作。しかし、絶対的な恐怖の象徴であるその紋章を見た護衛たちは、青ざめた顔で直立不動の姿勢をとった。
「し、失礼いたしましたッ!!」
護衛たちは逃げるように扉を閉め、去っていった。 これが、憲兵隊の権力なのか。俺は仮面の下でごくりと唾を飲み込む。
「さて……。ニーマ少佐。君の親戚筋である王国でも名門武装貴族である……おじの『ガレリア公』は元気にしているか?」
大尉が机に腰掛け、優雅に脚を組む。
「なぜ、それを知っている……」
「私がどこまで知っているかは、この際関係ない。そのおじに情報を流していたのはわかっている。小癪にも、魔力を持たない『犬』である亜人を使用人に使い、連絡係にさせていたな? 感知魔法をすり抜けるための古典的な手口だ」
「私は……そんなことは知らない! それよりも、中央憲兵隊に偽装してこのような暴挙に出るとは……君たちの罪は重いぞ! ニシミヤ大尉!」
ニーマ少佐が大尉の顔を睨みつける。
――パァン!
乾いた破裂音。 大尉がホルスターから愛銃を抜き、間髪入れずにニーマ少佐の左脚を撃ち抜いたのだ。
「ぐあぁッ!!? 貴様ぁ!!!」
「黙れ。自分の立場を弁えろ、売国奴」
大尉は表情一つ変えず、冷徹に吐き捨てる。 銃口から立ち昇る煙を鬱陶しそうに手で払い、彼女は指を鳴らした。
「兵長、あれを持ってきて」
「はっ」
ミランダ海兵長が鞄から、白い布に包まれた物体を取り出す。 大尉はそれを受け取り、無造作に布を解いた。
ゴロリ、と机の上に転がったのは――人の手首だった。 断面は氷で覆われており、血は流れていない。手の甲には貴族の紋章が焼き入れられており、それが貴族の屋敷に仕える使用人であることを示していた。
「この手の持ち主の執事は、全部話してくれたぞ」
「……う、うぅ……非道な奴らめ……私の邸宅に行ったのか……」
「貴殿の使用人、なかなか手強い連中だったよ。ご家族は既に我々で“保護”している」
「っ……! 私と家族の安全を保証してくれるのであれば……すべて話す!」
ニーマ少佐は折れた。 彼は洗いざらい話し始めた。大尉は机の上に奇妙な機械――魔力を必要としない録音機――を置き、その証言を記録していく。
ニーマ少佐によると、親戚筋であるガレリア公から、軍事情報を提供する見返りに、戦後の王国の新体制下での騎士団幹部のポストを約束されていたらしい。 さらに、彼はある『衝撃の事実』を口にした。それを聞いて、俺は耳を疑った。彼が命惜しさに嘘をついているのではないかと疑うほどの内容だった。
「ありがとう、ニーマ少佐。一緒に仕事ができたことを光栄に思うわ」
すべてを聞き終えた大尉が、録音機を止めながら微笑む。
「突然何を言っ……」
「近衛省所属、ニーマ少佐。貴殿を国家反逆罪により、即刻、死刑に処す」
「なッ!? 何を言う!? 先ほどの約束は!?」
「中佐殿、刑の執行を」
大尉はニーマ少佐の叫びを無視し、振り向いて私に微笑んだ。
「しかし……それは……」
「君の戦友や上官を死に追いやった敵だぞ」
そう言われて、俺の脳裏に「戦友の仇を討て」という言葉が浮かぶ。 焼け落ちた気球、墜落していく仲間たち。その光景が鮮明に蘇る。
「……承知いたしました」
俺は躊躇いを振り払い、右手に持っていたルガーの銃口を、ニーマ少佐の頭に向ける。
すると、大尉が静かに首を横に振った。
「何をしている。彼は国家反逆罪の罪人だ。名誉ある銃殺刑などは与えない」
先ほどの冷徹な口調とは違う、どこか母性すら感じるような優しい声で、彼女は残酷な命令を下す。
「首を絞めるんだよ」
「え……しかし……」
「仮面を取りたまえ」
言われるがまま、俺は顔を覆っていた仮面を外した。 素顔を晒した俺を見て、ニーマ少佐が目を見開く。
「お前……中央憲兵隊ではないな……あの時の生き残りの……下賤な兵卒か……ッ!」
「……」
「お前らは……ッ! 貴族としての尊厳まで奪うのか!!! この外道め!」
ニーマ少佐が発狂したように喚き散らす。 無理もない。貴族を処刑するのは貴族という不文律があり、平民の手で処刑されるのは最大の侮辱だ。ましてや直接の絞殺など……。
ミランダ海兵長が、俺に一本の太い縄を渡してくる。
「これを使って」
渡された縄を手に、俺はニーマ少佐の背後へと回る。 震える手で縄を構え、それを少佐の首にかける。
「やめろ……このような侮辱は……ぐふぅ……ぐッ……」
俺は力を込めた。 縄が肉に食い込み、気道が塞がれる音がする。
「ニーマ少佐。君の妻と可愛い碧い目のご令嬢だが……この後に君と同じように対処するさ」
冷たく、大尉は言葉を続ける。 追い打ちをかけるようなその言葉に、少佐の体が激しく痙攣した。
私は彼の顔は見えない。だが、絶望に染まった顔をしていることだけはわかった。 それでも、俺は手を緩めることはしなかった。 こいつのせいで、俺の戦友は死んだのだ。 こいつのせいで。
俺は歯を食いしばり、縄を引く手にさらに力を込めた。




