ジェーン・グレイの決断
夫の遺体が、ジェーンの眼下を運ばれていった。
「ギルフォード……っ」
貴人の処刑は斬首である。
荷車に乗せて運ばれていく夫の、首を失った遺体の横に、血塗れた頭部が寄り添っていた。
ほんの少し後のジェーンの姿であったが、己の未来よりも夫の悲運の方がジェーンを苦しめた。
罪状は、正統なる女王に対する大逆罪。
ジェーンもすぐに夫の後を追う。
ジェーンは女王として戴冠さえしたのだから、彼女の罪の方がずっと重い。
たとえ王位継承権の低いジェーンを女王として戴冠させたのが、ギルフォードの父親だったとしても。
ロンドン塔から見下ろすジェーンには、夫の死に顔を見る術はない。
ジェーンがまだ十六の乙女だからと、初夜ではただ語り合うのみだった優しい夫の、遺体に寄り添う術はジェーンにはない。
すぐに後を追うことになっているジェーンを、処刑人の元に誘う神父の足音さえ、聞こえてきた。
『やり直しタい?』
初めてその声を耳にした時、ジェーンはそれが幻聴だと信じていた。
罪悪感に苛まれる己の良心が生みだした声だと。
「……やり直し、たい……」
だからこそジェーンは、素直に内心を吐露した。
愛していた。
自分が女王になったために失われる命だなんて、思いもよらなかった。
こんなことになるのなら、ジェーンが僭主として処刑される未来が決定しているというのなら、せめて道連れになどさせなかったものを。
「やり直したい……やり直したい。
やり直したい!」
愛する人に、安穏たる人生を。
どうすればそんな未来が待っていたというのか、今のジェーンには分からないけれど、やり直したい。
小さな窓からはすぐに夫の遺体が視界を外れていった。
「いやよ、もう嫌なのよ……っ!」
けして大きな声ではなかった。
半年の獄中生活は、ジェーンから大声を奪っていたから。
己の生を嘆くことさえ、囁く声でしか行えなかったジェーンにとって、その声は精一杯張り上げた声でもあった。
『イイよ。
そノ願い、叶えヨう』
気負わない声が返事をしてようやく、ジェーンは自覚した。
嗄れた老婆のような声が、己の幻聴などではなかったことに。
「ぁ……」
恐怖や警戒を感じる前に、ジェーンの意識は白い闇に飲まれていった。
恐ろしい勢いでさかのぼっていく記憶の渦に、ジェーンは容易く意識を失っていたのだ。
『ほラ、ここダ』
老婆の声をした何かが、光溢れる庭園で囁いた。
「――っ!」
この庭園を、ジェーンは覚えていた。
何度も何度も、メアリ新女王に投獄されてからの生活を慰めてくれた、大切な記憶だったから。
庭園は公爵家のものらしく豪華なものだった。
可憐な野薔薇のアーチが設けられ、天使を模した噴水が無邪気に光を乱反射する。
四阿は豪華に整えられ、遊歩道は完璧に整備されていたその庭の、奥まった場所がジェーンのお気に入りだった。
奥まってはいるものの、ふんだんに光の差し込むその場所で。
普通は青いブルーベルが、実家のサフォーク公爵邸では白い群生を見せていた初夏のその日。
ギルフォードは白いブルーベルを手折ってジェーンの髪に飾ったのだった。
『そう、五年前ノその日ダよ。
さぁ、その花を受け取らなイで?』
「――!?」
しわがれ声が囁いた。
そして、その声とほとんど同時に、少年のギルフォードが現れた。
薔薇のアーチを抜けて、小さな木立のその奥にまでやって来た少年は、息こそ切らしていなかったものの、初夏の日差しに頬を紅潮させていた。
「レディ・ジェーン」
はにかんだ、微笑。
若々しく、生気に満ちあふれた亡き夫。
少年というほど彼は幼くはなかった。
けれど青年というにはまだ幼い華奢な体の線に、品のいい仕立ての短い上着は黒にも関わらず、内側から輝いて見えた。
短い金色の髪は、少年らしい柔らかさで緩く波打って頬を彩っていた。
「……よかったら……貴女に、これを」
彼の父親から指図されただろうに、それを微塵も感じさせない眩しそうな笑顔。
ジェーンを見つけるなりぎこちなく歩み寄り、二歳年下のジェーンがまるで立派な貴婦人であるかのように振る舞った。
たった十二の小娘の手を恭しく取り、宝物のようにそっと唇を寄せたのだ。
かつて彼は言ったのだ。
『父の言いつけなんて頭から消え去っていた。
可憐な貴女に、私は一瞬で虜になっていたのだ』と。
だから少しでも歓心を買いたくて、珍しい白のブルーベルを贈ったのだと。
『断るンだ。そうでないと、彼の首が落ちルよ?』
しわがれ声に、ジェーンは従った。
愛する夫に、平穏な人生を。
その一心で拒絶したブルーベル。
気を悪くしたようにギルフォードはブルーベルを手から離し、舞い落ちる花びらと共にジェーンの人生は変わった。
「若い女は、つまらんな」
ジェーンの結婚相手となったのは、初老のハートフォード伯爵・エドワード。
日和見の伯爵はジェーンを政治的に利用もしなかったが、愛しもしなかった。
愛情のない、おぞましい交わりでジェーンは五人の子を孕み、二人の息子が成人した。
夫の女遊びは地味ながらも続き、けれどそのことにジェーンは安堵さえ覚えていた。
あの年老いてしなびた体に抱かれずにすむのだ、と。
そんな男の精を体に受けて孕む己を、どうしようもなく醜く穢れたものと思わずにはいられなかった。
ギルフォードなら……何度そう思ったことだろう。
そのギルフォードは、スコットランドに発っていた。
父であるノーサンバランド公爵は、なんとしてもイギリスの王室を取り込みたかったらしかった。
傍系であるスコットランド女王の婿になるべく、ギルフォード親子は働きかけていると、風の噂で聞いた。
美しいと噂のスコットランド女王をかつての夫が口説く一方で、老いてしなびたハートフォード伯爵がジェーンを粗末に扱う度、ジェーンの心は死んでいった。
ギルフォードのことを思い出すことですら、屈辱と嫉妬故に躊躇する毎日が何年も続き――。
――生に執着する夫がようやく死んだ時には、ジェーンは死の床にいた。
もはや肉の体を捨てて天上へ旅立とうとする今になって、ジェーンの心は叶わぬ思慕に揺れた。
「……ギル……」
苦しみに満ちた半年の獄中生活に反比例するように、九日間だけの女王即位は輝かしかった。
愛情に満ちあふれたギルフォードは、永遠の愛と忠誠をジェーンに誓ってくれた。
『即位後の忙しなさが一段落したら、本当の夫婦になろう』と、ジェーンを重んじてくれた。
『やり直しタい?』
死の床で、ジェーンは再び老婆の声を聞いた。
愛する夫を死に至らしめる人生へと……やり直す?
「……えぇ」
死病にやつれきった老女の声で、ジェーンは返事をした。
『イイよ? ……覚悟は、いいネ?」
「えぇ」
目を閉じて、それから開いた。
横たわっていたはずのジェーンは立ちすくみ、その彼女の眼下を、首を断たれた夫の遺体が横切っていった。
「あぁ……」
ここに、戻って来てしまった。
愛する夫を死に至らしめた現実に、戻って来てしまった。
『戻りタい?」
しわがれ声は、現実を変える手段を甘く囁いた。
きっと今なら。
処刑人の元へ誘う神父が到着するまでのこの時間でなら、ジェーンは違う未来をつかみ取れる……のだろう。
それは何度でも可能なのかもしれなかった。
「……ごめんなさい」
ジェーンは、栄光と悲劇を選んだ。
単調な不幸より、栄光と悲劇を選んだのだ。
「レディ・ジェーン・グレイ。
永遠の平穏がもたらされる時間となりました」
扉の向こうに現れた神父に、そっとジェーンは微笑みかけた。
あの庭でブルーベルの花を受け取ったジェーンは、愛する夫との栄光に満ちた斬首という悲劇を受け入れたのだ。
「すぐに、わたくしも逝くから……」
栄光の名残である光が、結婚指輪に宿っては散っていった。
しわがれ声「だカらね、望んで地獄に落チる魂の方が、エネルギーは多いわケ」