第18話 至高の舞台
ユキコとハルそしてティーシスは『アイス・ワールド』出場と最終調整のため、ネオキャンベラを訪れていた。
人気投票の結果、ユキコの滑走順位は九番目。
オリンピック金メダリスト――アリシア・ハートの直前となった。
特訓は無事終了!
ユキコは意識的なα1への移行を体得し、五分の演技時間中、その極限状態を継続させる精神力を身につけた。
単純な反復練習と言って差支えは無い。
α1を己の限界まで継続し、θ1で脳神経の疲労回復を図る。
しかし、それは人間の限界に挑む極限の世界と言えた。
地獄と呼ぶ事さえ生易しい領域を、ティーシスとユキコ以外に知る者は居ない。
「うーん、やっとここまで来たんだなって―!
いい天気! 最高の気分だわ」
のんきな感想を洩らすユキコをティーシスは愛しげに見つめる。
ユキコはこの一ヶ月半、いつ精神が崩壊してもおかしくない極限状態を乗り越えてきた。
限界を超えた疲労に意識を失った事は百回を超える。
この儚げな少女のどこにこれほどの強さがあったのか、ティーシスをもって理解し得なかった。
しかし、心の奥底で感じていた。
この少女ならきっと遣り遂げると!
「あのさー、僕が言うのも何だけど、本番前のプレッシャーとか……こういう状況ってもっと緊張感が必要なんじゃないかな……」
(……やっぱり甘いのよね。この子は……。
頭はいいし、性格も純粋――かわいいところはある。しかし、肝心なところが抜けている――!)
今時の地球人の中では、最もましな部類に入るのかもしれない。
ハルの事は幼い頃から色々面倒を見てきたため、思い入れはひとしおである。
それゆえに、温室育ちで詰めの甘いところを眺めていると無性に苛めたくなる。
(どうしてこんな性格になってしまったのかしら……)
ユキコが本当の苦悩をハルに見せていないため、ハルには人間の本質が見えていない。
地球に行って少しは大人になったかと思ったのだが、相変わらずのお坊ちゃんぶりである。
「ライバルになりそうな出場者はチェックした?」
「フィリシア・デ・ダナンとミレーヌ・フィルメーヌ、そしてアリシア・ハート。――身体能力でおよそ十パーセント、私は彼女達に劣っています。
そして、この三人は他の競技者と違う不思議な緊張感を漂わせています。おそらく……」
ユキコは最悪の予想を口にする事が出来ず、言い澱む。
「あなたの予想通りよ。三人とも『ゾーン』を使っている。
そして、アリシアに至ってはおそらく意識的に……」
身体能力・そして練度で劣るユキコが彼女達に対抗するには『ゾーン』の修得が不可欠だった。
しかし、彼女達もそれを修得しているなら……
「彼女達の『ゾーン』は数秒から十秒。あなたのそれとはレベルが違うわ。
ただし、ゾーンを体験した人間はα2レベルでも普通の人間より格段に高い集中力を誇るの」
状況はおそらく互角。
アリシアに勝つ事は至難と言ってよい。
「あなたが成すべき事は?」
「自分の世界を自分に出来る極限の世界で表現する事です」
結局のところフィギュアスケートは自分との戦いである。
自分の世界を表現しきる事こそ肝要なのだ。
他人との比較や順位の競争など、結果論に過ぎない。
ユキコの答はティーシスを満足させた。
ネオキャンベラの『アイス・ワールド』会場では開会式が催されている。
現在は女子シングルス参加選手全員で、シンクロナイズドスケーティングを披露している。
演技内容は事前に送られて来ており、参加選手のユニゾンは昨日のリハーサルで確認済みである。
四回転ジャンプや高度な振り付けのレイバックスピンが当たり前のように組み込まれており、一ヶ月前のユキコであれば最低でも一週間は練習しなければ滑れなかったであろう演技も、今なら通しの演技を一度見るだけで合わせられる。
演技は終盤にさしかかり、各選手が十五秒の持ち時間で順番にアドリブの演技を披露するところだ。
これまで選手たちのユキコに対する対応は、あからさまによそよそしかった。
世間からの同情のみで人気投票第二位の出場枠を手に入れたと思われているであろうから無理もない。
実力の伴わない場違いな生きた化石と言った所だろうか。
(やっぱり挨拶くらいはしておかなくちゃ――!)
フィリシアは五回転サルコウを跳んだ後、キャメルスピンを披露している。
ユキコの演技は彼女の次に行われる。
ユキコは集中力を高め、『ゾーン』に入る。
観客の息遣い、視線の流れを感じ取り、己が意思、演技で会場のすべてを支配するために。
――ユキコは己の緊張感を高め、そしてそれを周囲へと広げていく。
演技を終え、列に戻ろうとするフィリシアとのすれ違いざまにユキコは五回転フリップジャンプを決める。
突然の出来事にフィリシアは動きを止め、視線をユキコに奪われた。
そして会場中の視線がユキコ一人に注がれる。
サーキュラーステップ――
繊細な指先に会場中の視線を集め、風の流れを紡ぎだす。天使のような笑顔はそれを観る観客に春の陽光を喚起させる。
おどける仕草、囁きかける笑顔。芸術的なステップと共に投げかけられる彼女の一挙手一投足に会場中の視線が釘付けにされた。
会場は水を打ったような静寂に包まれる。
演技を終えたユキコはスパイラルの姿勢で列に戻る。
そしてアリシアとのすれ違いざま、挑発の視線を彼女に送った。
――アリシアが身に纏う空気も異質なものへと変化する。
彼女もまた『ゾーン』に入ったのだ。
挑発を受けたアリシアは、五回転フリップジャンプを決める。
そして先ほどユキコが滑ったサーキュラーステップを寸分たがわず滑って見せた。
演技を終えたアリシアはユキコの数メートル先で立ち止まり、無言で見詰め合う。
息詰まる緊張感に会場中が静まり返る。
言葉を発するものは一人もいない。
「クスッ!」
ユキコはアリシアに微笑みかけ、彼女もまた笑みを返す。
二人が集中力と緊張を解くと、いつも通りの空気が会場内に戻っていった。
たった三十秒あまりの緊張した空気に、今も会場中がざわめいている。
そして会場内すべての人達の関心が、明日行われる二人の対決に注がれていた。
『いったい何なのよあれは――! 私達なんか眼中に無いって言いたいわけ?』
演技を終え更衣室へと戻ってきたとき、一人の少女がユキコに詰め寄って来た。
国際試合での会話は通常英語で交わされる。
仮想人格は話しかけられた外国語を翻訳し、マスターに伝える。
そして、マスターよりアクセスで受けた話の内容を翻訳し、マスターの口を使って話すことができる。
ちなみにサクラは通常五ヶ国語、ダウンロードによって二百三十二ヵ国語を自在に話す事ができる
目の前にいる少女の名前を思い出せず、戸惑っているユキコにサクラが情報を送って来る。
『李紅蘭 十五歳 中国圏西京コロニーから出場している選手 『アイス・ワールド』での人気投票結果は五位
今年の世界ジュニア選手権で優勝』
『ごめんなさい。別に眼中に無いって訳でもないんだけど……』
『紅蘭、もう戦いは始まってるのよ。
そして、あの時間は観客に自分を印象付ける為に設定されていた筈。
あなたの非難は見当違いよ』
ミレーヌ・フィルメーヌが紅蘭を嗜める。
『だけど、あなた達あの時いったい何をしたの?
――訳が分からないわ。
それにユキコの演技はどう見ても全日本選手権で滑っていた映像とは別人だわ!
星人ティーシスはあなたにいったい何をしたの?』
『どんな猛特訓だろうが、たかだか数ヶ月であんな別人みたいな演技が出来るなんて私には考えられないわ。
――不正な行為でもなければ……』
タチコワと紅蘭が尚も不満を口にする。
『私はだいたい想像がつくわ。
何をやったかは企業秘密。
まさかユキコにあれが使えるなんて想像もしていなかったけど……』
アリシアがユキコへの詰問を押し留める。
『やっぱりそういうことなの……』
フィリシアもユキコの『ゾーン』に気づいたようだった。
ユキコの演技は参加選手達に大きな波紋を投げかけた。
リンク状態チェック
サクラはユキコの視覚情報を加工し、アイスリンクの表面温度を推測する。
摩擦係数の変化等演技の微調整を提案すると供に、ジャンプ等によるリンクの破損状況を確認し、ユキコの演技に支障が出る場所の警告を送った。
ユキコはそれらの情報を受信し、自分が予定していた演技に修正を加える。
「ありがとう。サクラ」
「御健闘をお祈りします」
サクラは祈るような面持ちでユキコを見送る。
演技中は仮想人格との通信は当然のことながら禁止される。
『行ってらっしゃい。マスター』
ユキコはリンク中央に立ち、観客に視線で語りかける。
これは一人の少女が星々の世界に旅立つ冒険の物語
静まり返った会場に音楽が流れ始める。
『星界の門』――曲はユキコ自身の体験を演技に反映するため、結局はレイコが作曲したオリジナル曲となった。
演奏はユキコの演技に合わせてサクラが行う。
静かに目を閉じ両手を頭上で交差させ、氷の彫像のごとく動きを止める。
絶望、別れ、そして凍りついた刻。
ピアニシモで始まるピアノの調べにのり、ユキコは静かに滑り出す。
見知らぬ世界に目覚めた少女は家族との別れに打ちひしがれ、未知の世界への不安に怯える。
――スパイラルシークエンス。柔軟で繊細な肉体を優美に使い、基本のアラベスクスパイラルからキャッチフットスパイラル、そしてビールマンスパイラルへと移行する。
物憂げな表情で滑る耽美的なスパイラルに、会場中の人々が息を飲んで魅入っている。
そんな時、差し伸べられた青年の手が彼女を冒険の世界へと誘う。
現実の壁に戸惑う日々。不安に揺れる心
――シットスピンからアップライトスピン。深く静かな演技の中に立ち昇るエネルギーに、会場中のボルテージが静かに高まる。
そんな中、贈られた至福のひと時。
柔らかなヴァイオリンの音色とともに、春の陽光が差し込む白銀の世界を創り出す。
――繊細な指先に会場中の視線を集め、風の流れと共に軽やかに滑り出す。
天使のような笑顔で繰り出すサーペンタインステップは、それを観る観客に春の陽光を喚起させる。
あどけない仕草、囁きかける笑顔。
芸術的なステップと共に投げかけられる彼女の一挙手一投足に会場中の視線が釘付けにされた。
はしゃぎあい、戯れあう少女と青年。少女は青年をからかい逃げ回る。
それは少女にとって宝石のような大切な想い出。
穏やかで優美な動きに見落としがちになるが、ユキコのスケーティングは昔とは比較にならない位に疾い。
正確無比なエッジワークで無駄な力を全く使うことなく、リンクを所狭しと駆け抜けていく。
運動エネルギーを無駄なく効率的に活かす事こそが、高難度のジャンプを成功させる秘訣であること。
そしてリンクの全てを使い切った演技により会場中の人にアピールする事こそが高評価につながることをユキコは既に悟っていた。
そして舞台には青年と共に滑るもう一人の少女が登場する。
彼女の圧倒的な技量は少女の自信を粉々に砕く。
轟くパーカッションと共に猛々しい四回転アクセル――宙を舞う。
さらに着氷と同時に四回転トゥループ。
四回転半+四回転のコンビネーションジャンプを決めたユキコは、リンク中央付近で右腕を高々と掲げる。
会場中で最も視界の良い位置で、充分な高さと飛距離のジャンプ、そして静かで切れのある着地を印象付ける。
――会場は大歓声に沸いた。
アップライトスピン――回転軸となる左足にフリーレッグを交差させ高速回転を行うスクラッチスピンへ。
当惑する少女。
無力感そして絶望。
両腕を使ったパントマイムと沈痛な表情で絶望の深さを表現する。
あの時は自分の生き方というものを根元から断ち切られた気がした。
何をやっても熱中できなくて、生きている気がしなかった。
そして故郷である地球へと戻ったのだ。
地球への募る思いと困難な旅路。そして襲い掛かる狼の群れ。
サーキュラーステップ――襲いかかる狼の動きと戦いを視線と格闘技のパントマイムで表す。
後ろから襲いかかってきた狼をサイドステップで躱し延髄に手刀を入れる。
正面から飛びかかってきた次の狼の喉元を貫手で貫く。
そして左横から来る狼には後ろ回し蹴りを決める。
それでも狼達は数に物を言わせ次々に襲いかかってくる。
右後ろから来る狼に右肘を叩き込み、左前方から来る狼の顎を左足で蹴り上げる。
そして正面から迫るリーダー狼に渾身の正拳突きを叩き込んだ時、周りから狼達の姿は消えていた。
事実に多少の誇張はあるが物語などこんなものであろう。
パントマイムはユキコの十八番だ。
演技に幅を持たせるため、バレエと演劇は七年間続けてきた。
ユキコの軽やかなステップは人々を冒険の世界へと魅了する。
そして宇宙への帰還。一度はあきらめた夢への一筋の希望。それを勝ち取るための特訓。
――上体とフリーレッグが水平一直線の姿勢のまま跳び上がってからキャメルスピンへと移行するフライングキャメルスピン。
そして右手でフリーレッグを掴みドーナッツスピン、さらにはビールマンスピンへと移行する。
幼い頃からフィギュアスケートを始め、体が柔軟なユキコだからこそできる最高難易度のスピンだ。
(もっと速く! もっと激しく!!)
ユキコの熱気に会場中が総立ちになる。
体が熱い。熱にうかされたようにユキコは会場中を見渡し、煽る。
体中の筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。
人間の体は四分余りの時間にわたって全力運動を継続することはできない。
時間内で可能な運動量を無駄なく活かして、できうる限りのスピーディーで高難度の演技を組み立てた。
そして、これから最後の大技に向けて、再びクロスオーバーで加速する。
五回転フレップと四回転サルコワのコンビネーションジャンプ。
その後、着氷と同時に両手を頭上に掲げ、残った力の全てで全身を締めつけながら可能な限りの超高速スタンドスピンに移行する。
――立ちはだかる好敵手との息も吐けぬほどの激闘。
そして取り戻した自信。
――ユキコは周囲に艶やかに氷粉を撒き散らしてスピンを急停止し、会心の笑顔で演技を終了した。
演技を終了させたユキコの視界がかすみ、意識が飛びそうになる。
呼吸は嵐のように激しく、滝のように汗が流れる。
すべての力を出し切った。
震える膝を無理やり押さえ込み会場を見渡す。
静まり返っていた観客が嵐のような拍手と歓声を上げる。
すべての観客は立ちあがり、リンクには無数の花束が投げ込まれる。
これほどの熱狂に包まれる会場はかつて一度も観た事はなかった。
一筋の涙がユキコの頬をよぎる。
(ついにやった。やったよ、わたし――!)
ユキコは右手を上げ観客の声援に応える。
熱狂する観客はさらにヒートアップする。
(お父さん! お母さん! 孝幸! 私やったよ。最後まで頑張ったよ)
ユキコは湧き上がる歓喜を抑えきれぬまま、キスアンドクライに向かう。
『お帰りなさい、マスター。とっても凄かったです。サクラ感動しました。感動できたんです。
――生まれて初めて感動っていう言葉の意味が実感できたんです! マスター』
サクラがこれほど感情を顕にしたのは確かに初めてのことだ。
(よかったね! サクラ)
「おめでとうユキコ! あんたやっぱり最高よ――!」
レイコはユキコの肩を抱きしめ最大級の賛辞を贈った。
「やっぱりユキコは凄いよ!」
ハルの頬は感激の涙で濡れていた。
ティーシスは無言のまま、ユキコに穏やかな視線を投げかけていた。
「おめでとう。素晴らしい演技だったよ」
ハルの隣に立っていた黒いスーツの男が、白いバラの花束をユキコ手渡す。
知的で優雅な仕草の中に圧倒的な存在感がある。
物静かな表情の中に言い知れぬ不安をユキコは感じた。
『サクラ、この人誰?』
『会場の従業員及び入場客すべての検索をかけましたが、該当者なし。検索結果――正体不明』
「…………」
「やっと役者が出揃ったようね」
ティーシスは黒いスーツの男を見つめ、そう呟いた。




