第16話 試練
必死の努力にも関わらず、ユキコはその領域に辿り着く事が出来なかった。
今は最後のチャンスに賭ける為、θ1と呼ばれる熟睡状態で脳神経の疲労を回復させていたところである。
……ほんの十分程の休憩で頭痛がするほど疲れきった脳神経は回復していた。
熟睡状態であっても、誰かに呼びかけられた時や最初に決めた時刻が訪れたときには、意識が目覚めるように、意識レベルを自分で制御できるようになっていた。
ティーシスの理論はおそらく正しい。ユ
キコはα2、θ1等、いくつかの脳内活動状況を意識的に使いこなせるようになっていた。
α1――『ゾーン』にさえ辿り着けば、一度は諦めざるを得なかった夢に手が届く。
――ユキコの心に焦燥が募る。
至高の領域は努力だけでは届かないとティーシスが言っていた。
これから行う演技で、その領域に辿り着く事が出来なければスケートを諦めろと言われた。
ティーシスは本気だろう。ハルが言っていたように……。あの人が自分の言葉を違える事は無い。
スケートを諦める事だけは出来ない。それだけは出来ないのだ。
しかし、ゾーンを会得できないまま続けても、レイコの時の様な敗北感、挫折感を味わう事になる。
人生には絶対に負けられない正念場というものがある。
肝心な舞台で底力を発揮できないような人間はこの先一生かけても『ゾーン』に到達することは有り得ないともティーシスは言っていた。
(いやだ……。絶対に嫌だ!)
ユキコは血が滲むほど強く手のひらを握り締めていた。
「ユキコ!」
前回オリンピックの会場を再現した仮想空間に転移した時、ハルとレイコが既にユキコを待っていた。
ユキコは力の無い笑顔を彼らに返す。
自信などかけらも無い。
それでも絶対に譲れないものが人間にはある。
冷凍冬眠から目覚め、自信を喪失し、生き方すらも見失った。
――諦めるより無いと思った夢に、一縷の希望の灯がともされた。
(お願い! ――どうか! ――どうか!)
今のユキコにはハルやレイコと言葉を交わす余裕など無い。
祈るように組み合わせた手は青白く震えている。
リンクの中央を見据え、ただただ震えていた。
ハル、そしてレイコもそんなユキコを目にし、かけるべき言葉を失った。
――ティーシスが虚空よりユキコの側らに姿を現す。
「心の準備は出来た?」
ユキコは小さく頷き、リンクの中央に向かった。
ドックン、ドックン、ドックン、――心臓の音がやけにうるさい。
全身の神経が研ぎ澄まされ、細胞の一つ一つまでが感じ取れそうな錯覚に陥る。
ドックン、ドックン、ドックン。
リンクの中央に立ち、音楽が鳴り始めるまでの時間が途轍もなく永く感じる。
そして、音楽が響き渡ったとき、極限の集中力は一瞬の時間を永遠へと引き延ばし、全身の隅々まで、会場の空気までを感じ取り、そして支配した。
今ならわかる。ティーシスの言っていた言葉の意味が。
音楽が想起する情景を心に浮かべ、全身でそれを表現せよと!
体の隅々まで神経を研ぎ澄まし、想いで会場の空気すらをも染め上げよと。
(できる。今なら出来る――!)
五回転サルコワに挑む。しかし、不安は全く無い。
空気、時間さえもユキコの手の中にあった。
レイバックスピン――想いのすべてを繊細な手足の動きに留める。
今、すべてが叶う。ユキコが追い求めた至高の世界が手の中にあった。
「――――!」
視界が色を失い、急速に縮まってゆく。呼吸をする事すらできず、傾いていく自分の体をとどめる事すらできない。
(いったい何が起こったの?)
自分の身に起きた事も理解できぬまま、ユキコの意識は闇の中へと沈んで行った)
「こんな話、聞いていません。
いったいユキコに何をさせようって言うんです――!」
怒りに満ちたハルの声がティーシスを攻め立てる。
「命に別状は無いわ。自分の限界を超えてしまった為、意識を失ってしまっただけよ」
ユキコが意識を失って、およそ一時間あまりが過ぎていた。
『ゾーン』に目覚め、己の潜在能力を限界まで引き出す術を得たユキコは、己の限界を踏み越え意識を失った。
命に別状は無いとは言え、それほどまでの極限状態にまでユキコを追い込んだティーシスにハルは激怒した。
「あなたの許可など求めた覚えは無いわ。ユキコがそれを望み、私はその為の術を教えた。
――それは恐ろしく困難な道のりだった。
けれどもユキコは文字通り全身全霊を込めそれを勝ち取ったのよ!」
「…………まだ言っていない事があるんじゃないですか?
こんな無茶、無謀な行為の危険性は? 代償は?
本当にユキコは無事でいられるんですか?」
ハルはティーシスに殺意にも近い激しい視線を向ける。
「過去に『ゾーン』を経験し、極限の集中力を発揮した人に、死亡したり精神に異常を来たしたりした人は一人もいないわ」
ティーシスの話にハルは安堵の表情を浮かべる。
「う、うーん……!」
ユキコが無邪気な顔で目を覚ます。緊迫した空気は一瞬で瓦解した。
「テ、テストはどうなりました? 私はスケートを続けられるんですか?」
意識を取り戻したユキコは食入るような真摯な視線でティーシスに問い質す。
「合格よ。良く頑張ったわねユキコ。
ここまで来れば、後は大会までの訓練で意識的にα1に移行できるようになるわ。
ただし、ここから先は相応の覚悟が必要よ。
『ゾーン』を意識的にそして五分もの時間に渡って使いこなした人間は、これまでの地球の歴史で只の一人しかいないわ。
正直なところ、どんな危険があるか分からない。
精神崩壊を起こしてもおかしくは無い。
――それでも、やる?」
「ティーシス!」
ハルの悲痛な叫び声がティーシスの声を遮る。
α1―『ゾーン』を意識的に使いこなしたアスリートなど、地球の歴史を顧みても百人と居ない。
ましてや、フィギュアスケートと言う分野で、数分間に渡ってその極限状況を継続しようというのだ。
正気の沙汰ではない。
ユキコにも意識を失うあの瞬間、この力の危険性は理解できていた。
「やります! 絶対に遣り遂げます――!」
ようやく辿り着いた至高の領域。――どんな危険もユキコを怯ませる事は出来なかった。




