第15話 煉獄
ユキコは仮想空間でティーシスの特訓を受けていた。
訓練を始めて既に二十時間になる。
努力家で忍耐強いユキコだが、ティーシスの猛特訓には初日から泣きが入った。
……これは特訓というよりも拷問に近い。
今は練習用プログラムを通しで滑っている。
四回転アクセルはまだまだ練習不足で、二回に一回は失敗する。
失敗したときの感覚とサクラのシミュレーション通り滑った感覚を比較し、正しい感覚を何度も記憶に刻み込む。
「ユキコ!今はまだ高度な技術を修得するより、基礎的なスケーティング技術を完璧に修得する事を心がけなさい。
高度な技術はより高度な基礎の上に成り立っているの」
基礎スケーティングには自信を持っていたユキコだが、サクラの完璧な身体操作を目の当たりにした今、自分の基礎スケーティングが如何に稚拙で完璧から程遠いかを実感していた。
サクラの演技で身体感覚を共有してみると分かる。
その姿勢は常に理想的なポジションに保たれているため、演技は流れるようにスムーズで無駄な力を全く使っていない。
サクラがユキコの肉体を操作すれば、ユキコの身体能力でも短時間ならオリンピック入賞者に匹敵する高難易度の演技ができるのである。
もっともそれはガラス細工の人形のように、美しくはあっても感動を生み出さないのだが……。
「それではダメよユキコ!
練度の低いあなたがトップアスリート達と互角以上に戦う為には、集中力が必要なの。
ようやくα2が短時間維持できるレベルじゃお話にならないわ。
肉体の疲労をリセットして、三十分休憩しなさい」
ユキコは練習中、脳内活動状況をブレインサーキットでモニターし、意図的に高い集中力を作り出すよう指示されている。
これはバイオフィードバックと呼ばれる手法でティーシスの提案により取り入れることとなった。
α2と言うのは相当に集中した状態。
α1と言うのは超一流のスポーツ選手が調子の良いとき体験する『ゾーン』と呼ばれる究極の精神集中状態を指す。
休憩中はθ1と呼ばれる熟睡状態を作り、脳神経の疲労を効果的に回復させるよう指示を受けている。
しかし、意図的に熟睡することなど容易に出来る筈もなく、せいぜいθ2、リラックスした状況程度しか作り出せない。
今日はスケート技術の基礎トレーニングと並行して、この集中力を高める訓練と疲労を回復させる訓練を一日中繰り返し行っている。
仮想空間では肉体の疲労はいつでもリセットできるが、脳に蓄積された疲労はそういうわけには行かない。
ユキコの精神は既に朦朧とし、激しい頭痛に襲われていた。
「一度感覚を掴んでしまえば、そこから先は訓練を繰り返すことでモノに出来るわ。
現代のトップスケーターでも集中力を高める訓練をしている人はいない様なの。
これさえマスターすれば彼女達と互角に戦えるわ!」
……こんな無茶な特訓をするアスリートが他にいるとも思えない。
ハルの必死の忠告の意味が初めてユキコにも理解できた。
(……鬼だ。……この人は……、まさしく鬼だ……)
人間の潜在能力を引き出すためには、科学的なトレーニングや滝に打たれて精神を集中する様な修行だけでは不可能な事らしい。
己の限界に挑み、何とか乗り越えようと苦闘する極限の領域でのみ、その能力は発現する。
確かに究極の集中力を演技中継続する事ができるようになれば、身体能力・練度共に劣るユキコでも、そう簡単には負けないであろう。
あくまで彼女がそれまで持てばの話だが……。
(お星様が見える……)
休憩席に戻ったユキコは熟睡もとい失神していた。
「ティーシス様。いくらなんでもこの特訓は無茶過ぎます」
サクラからティーシスにコンタクトでクレームが入る。
ユキコのストレスレベルはこの日のトレーニングで四百パーセントを超えていた。
仮想人格は、体内の化学物質(コルチゾール・アミラーゼ等)増加量や心拍・瞳孔・脳波の乱れを測定することでストレスレベルを計測できる。
通常の生活や業務を行う際、三十パーセントを超えると不適格とされ、生活改善や転職等の改善指導が入る。ストレスレベルが百パーセントを超える場合は、社会生活が維持できなくなると言われている。
個人差はあるが、百五十から二百パーセントになると、失神して医務室に運ばれる。
二十時間にもわたって、しかもストレスレベルが四百パーセントを超えるまでトレーニングを続けたという話など地球圏すべてのネットワークを検索しても前例がない。
「今回の特訓に関しては、私が責任を持つわ」
ティーシスの返答は取り付くしまもない。
「こんな無茶を続ければ、ユキコ様は死んでしまいます!」
今回ばかりは、サクラとてこのまま引き下がれる状況ではなかった。
「あなたが計測したユキコの身体状況は、すべて私も把握しているわ。
例え脳に腫瘍ができたとしても現代の地球の科学レベルなら十分に治療可能よ」
「そんな問題ではありません。
ノイローゼやパニック障害等心の病気は現代の科学でも克服できていません。
そして、トラウマとして心的外傷が残る可能性は高いです。
それに…。それに…。こんな無茶な特訓に挫折して、地球に帰るなんて言い出したら……」
サクラが悲壮な雰囲気を漂わせてティーシスに食い下がる
「ユキコのサポートを私が引き継いでも良いのよ」
平然としたティーシスの返答にサクラが飛び跳ねる。
(…この子も面白いリアクションをするようになったわね。
まあ、そんな事了承できるはずが無いって判ってて言ってるんだけれども)
「……
この特訓でユキコ様は本当にゾーンを修得することができるのですか?」
サクラは決死の覚悟で尚も食い下がる。
ユキコがゾーンを完全に修得できるかどうかなどティーシスにも正直なところ判らない。
前例が無いため推測を行うための基礎データが全くないのだ。
しかし、この壁を乗り越えなければ、ユキコは自信を取り戻し、夢をつかむ事など出来ないであろう。
避けて通ることなど出来ないのだ。
それはティーシスにとっても同じことだった。
「私にもわからないわ。―ユキコ次第よ」
ティーシスは決然と言い放った。
ユキコとサクラは現在三つの特訓を行っている。
一つは仮想空間でのユキコの特訓。
これは技術力・集中力を鍛える目的で行われている。
毎日意識を失うまで特訓を続けている彼女は、意識的にθ1に移行するコツを修得していた。
二時間の特訓の後にとられる十分間の休憩。
そのわずかな時間に疲労しきった脳神経を回復させるには熟睡する他は無いのである。
必要に迫られれば人間はこんな事もできるのかとユキコは感心していた。
脳内活動状況を意識的に操作する感覚が分かるにつれ、α2レベルの集中力を演技時間中継続する事もほぼ修得しつつある。
二つめはユキコの肉体の鍛錬だ。これはユキコが仮想空間にダイブしている間、サクラがユキコの肉体を使ってトレーニングをしている。
ユキコの常識からは考えられない事だったが、マスターが仮想空間にダイブしている間、その肉体で仮想人格がトレーニングをしたり、掃除洗濯等の雑事を命じられたりする事はこの世界では当たり前に行われている事だという。
現実空間では仮想人格に仕事をさせ、自分は仮想空間にあるゲームの世界で生活している人さえこの時代にはたくさんいるらしい。
(チートだ! 詐欺だ!! ドーピングだ!!!)
この事実を初めて知ったときユキコは呆然とし、そして憤慨した。
ハルやレイコをはじめとするこの世界のアスリート達は血のにじむ様な努力であの演技に辿り着いたわけではなかった。
仮想空間でゲーム等をやっている間に仮想人格が科学的なトレーニングとやらを毎日欠かさずに継続していたのだ。
三百年前の自分が毎日欠かさずに続けていたあの血を吐くような訓練は一体なんだったのか……。
サクラのシミュレーションによると、大会までにユキコの肉体は、筋力五パーセント、持久力七パーセント、瞬発力は四パーセント向上すると算出されている。
現代はスポーツ医学も発達している為、トレーニングの効果も高い。
しかし、体を鍛えるのには最適な年齢がある。
反射神経の訓練は六歳前後が最も効果的で、持久力では十五歳前後が最もよく伸びる。
ユキコの場合は最適な時期に効果的な訓練がなされなかった為、この先一生身体的能力ではトップアスリートに追いつけない。
骨格等の遺伝的な問題もあるため、身体能力が必要とされる競技ではオリンピックはおろか国内レベルの大会ですらトップアスリートには対抗できない。
集中力を高め、表現力・芸術性の分野で対抗するより他ないのである。
三つめはティーシスによるサクラの特訓である。経験値を持たないサクラのために、ティーシスがシミレーションの経験を積ませる事になった。
ティーシスが知るユキコの人生に様々な体験を付け加えた擬似的な経験をサクラに積ませることで、仮想人格を成長させようという事らしい。
サクラはおよそ一ヵ月で十五年分の経験を積む予定だ。
他に、便利なツールやプログラムもティーシスからコピーさせてもらったらしい。
サクラのCPUは現在全力稼動中だが、ティーシスには、これだけの仕事を抱えてさえ、処理能力の一パーセントにも満たないという。
「そろそろ、プログラムとプロモーションビデオを作らなきゃいけない時期ね」
ティーシスの呼びかけにユキコとハルが振り向く。
『アイス・ワールド』の二次選考は、一般視聴者の人気投票によって決定される。
演技の構成とプロモーションビデオをネットワーク上で公開し、自分の見たい演技に票を入れる。
女子シングルスでは一次選考通過者百名の中から十名が選ばれ、一番人気が高かった選手が最終滑走者、以後人気の高い選手ほど後ろの順位で滑る。
最終滑走の後で一番素晴らしい演技をした選手に視聴者が票を入れるため、後に滑るほど視聴者への印象は強く残る。
二次選考は事実上の前哨戦にあたる。
「プロモーションビデオの方は僕の方でも構成を考えているんだけど、こんなイメージでどうだろう?」
ハルがハヤテに作らせた映像を三人で確認する為、仮想空間にダイブする。
ホームサイトから抜粋したユキコの思い出が、映像として流れ出す。
三百年前の全日本選手権で金メダルを獲得し、オリンピックへの出場を決めた場面。
骨肉腫と診断されオリンピックを断念した時、一人で泣き崩れていた場面。
家族との別れと氷の水槽で眠り続ける場面。
レイコとハルの演技に打ちのめされ涙がこぼれてしまう場面。
そして、星人ティーシスの指導と協力で、『アイス・ワールド』への特訓に励む場面。
それらの場面を五分の規定時間内に収め、大会での活躍に期待を感じさせる余韻を残している。
イメージとしては『悲劇のヒロインが今、夢に向かって……』という所だろう。
構成は陳腐だが印象的だ。
これほどドラマチックな人生を歩んでいる女の子は、世界広しと言えどユキコ以外には居ないだろう。
「この構成、とっても恥ずかしいんですけど……」
ユキコが蚊の鳴くような声で抗議する。
「恥ずかしがってちゃー二次選考に残れないよ。ホームサイトからもトピックスに『アイス・ワールド』への参加を告知し、人気投票ページへのリンクを張っておけば、かなりの票が期待できると思う」
「しょうがないか……」
「プロモーションビデオの方はこの線で行きましょ。
プログラムの方はまず曲を決めないとね。
ユキコは何か滑りたい曲は決まってる?」
「ラヴェル作曲の『ボレロ』で滑ってみたいんですけど……」
ユキコは曲を二人にコンタクトで送る。
「うん、いいんじゃないかな?」
「私も悪くないと思うわ。振り付けはこんな感じでどうかしら?」
(……は、早い)
三人の周囲はアイスリンクに変わり、ティーシスのイメージしたユキコが演技を始める。
――プログラムの構成は一瞬で作り出したとは思えない素晴らしいものだ。
(こんなにきれいに滑れるわけが……)
目の前で演技を続けるもう一人の自分の四回転ループと四回転アクセルのコンビネーションジャンプを眺め、ユキコはそっと溜息をついた。
「不安なの? ユキコ」
ティーシスの問いにユキコは黙ったままうなだれる。
α2レベルの集中力なら演技の間中継続出来るようになった。
練習用プログラムは殆んど転倒することなく滑ることが出来る。
しかし、そこから先の進展が全く無い。
α1――ゾーンの領域は影すら見えない。
現時点でも全日本選手権で滑ったときとは比較にならないほど技術力・集中力ともに高まっている。
しかし、それだけでは現代のトップアスリート達には対抗できない。
「確かに今の状態では出場しても恥をかくだけで終わるでしょうね」
ティーシスの言葉には遠慮も容赦も無い。
「だったらこうしましょ。プロモーションビデオの提出期限は明後日。
それまでにゾーンを掴む事が出来なければ今回の大会は見送りましょう
――明後日、午後三時。あなたが夢見たオリンピック会場を再現した仮想空間で新プログラムを滑ってもらうわ。
それでもダメなようだったら……スケートは諦めなさい」
「――――!」
ユキコは言葉を失った。
そんな話はした覚えがない。
これまでの九年間ただひたすらにスケートに打ち込んできた。
簡単に諦められるような事ではないのだ。
それだけは、それだけは勘弁して欲しい……。
ティーシスの凍りつくような瞳に射すくめられたユキコは、その言葉を口にする事が出来なかった。
『ゾーン』―それは人間が発揮する極限の集中力。
九十九パーセントの人間は、その領域を一度も経験することなく一生を終える。
ほんの一握りの天才と呼ばれる人のみが足を踏み入れる事の出来る至高の世界と言える。
その天才達ですら、その領域を体験する事は一生のうちでも数えるほどしかない。
それを訓練により自在に使いこなした人間など、過去の地球人の中でもティーシスはたった一人しか知らない。
極限の緊張と集中、そして想いの強さがその領域への扉を開かせる。
ティーシスがユキコを選んだ理由の一つは、彼女が原始的ながらも厳しい訓練を積み重ねてきた事により、強い精神力を持っていた為だ。
その精神力とスケートへの情熱こそが扉を開くための鍵だと考えていた。
ユキコが今の特訓でその領域に到達できるなどティーシスは最初から考えてはいなかった。
ユキコの下地を作り、極限まで追い詰め、そしてスケートへの情熱を煽ることで『ゾーン』への扉を開こうと考えていた。
これまでのティーシスのユキコに対する言葉は、このための暗示であり布石である。
ユキコの訓練メニューは、過去にただ一人ゾーンを自在に使いこなした天才が編み出した訓練方法である。
ブレインサーキットはその訓練器具を改良する事によって開発されたものでもある。
しかし、常識的に考えるならたった一ヵ月半の訓練でその領域に到達できる可能性は一パーセントと無いであろう。
(それなのに私はユキコがやり遂げる可能性に賭けた!)
試されるユキコは溜まったものではないであろう。
――しかし、ティーシスにはユキコが起こす奇跡がどうしても必要だった。




