夜歩く
どんなイベントにも三つの楽しみ方がある。
一つ、イベント前。期待が高まりそわそわ感を楽しめる。
二つ、イベント中。滅茶苦茶忙しいがそれが楽しい。
三つ、イベント後。苦楽を共にした仲間と感想会をするのがめっちゃ楽しい。
「二度目の裏切りは正直エグかった気がする。絶対見抜けないし見たか燈華ちゃんと翔太くんのあの顔。トラウマになっただろ」
乾杯し、まずイベントで一番心配だった事を吐露すると、ババァはまたか、という顔をした。
まあな、裏切りイベント開始前に散々議論した事ではあるし、既に結論を出した事を掘り返すのはどうかというのも分かる。それでも気になるのだ。
「だからトラウマにさせないためにすぐに生き返って夜の街を彷徨ってるところを目撃させる予定なのでしょう? 失敗体験をしても間を開けずすぐに成功体験で上書きすればトラウマは最小限にできるのよ。今回は死んだけど生き返ったからセーフというだけの話だけど。このあたりの心理療法ノウハウについては説明したわよね」
「いやそれはそうなんだけどな。そういうガチなやつじゃなくて。そもそも二度目の裏切りで追い打ちかける必要あったか? っていう」
そもそも今回の裏切りイベントはババァ主導だった。二連続の裏切りを提案したのもババァだ。
一度目は簡単な裏切り。推理は簡単で、簡単に見抜いて解決できる。
二度目は難しい裏切り。推理は難しく、見抜くのも解決も簡単ではない。
一度目の裏切り事件の経験を活かして二度目の裏切りに対処できるのか? という試験を課すと共に、善悪二元論では語れない裏切りを示すのが目的だった。
世の中は「あいつが敵だ」「あいつが悪い」という結論では終わらない。悪い奴を倒して全部スッキリ解決! なんて事はなかなかない。
二度目の裏切りでは、ババァは対話を拒否して俺を殺そうとした。ババァと俺、どちらが悪いのか判断する材料も時間も無い。どちらが悪いのか分からない、どちらが正義か分からない。そんな「正解の無い状況」の中で、翔太くんと燈華ちゃんは自分なりの判断を下し、殺し合いを阻止すべく行動をしなければならなかった。しかもその行動結果は親しい人間の命に直結した。
ぶっちゃけ、大人でもキッツい状況だったと思う。
俺が二人の立場だったら泣く。泣きながら頼むから殺し合いなんてやめてくれとすがりついて懇願する。念力を使って取り押さえるとか、そんな冷静な判断は頭から吹っ飛ぶと思う。
良い体験になったと言えば、そうなのだろう。
事前に二度目の裏切りを見抜くか、無事俺とババァの殺し合いを阻止し、ババァを何らかの手段で改心させられれば百点満点。
失敗して俺とババァが死んでも、すぐに生き返り、リカバリーが効く。
いわばセーフティーネット付きの過酷な試練なのだ。人の命がかかった極限体験はなかなかできない。させて貰えない。
それができた、というのは、今後の二人の人生に大きな影響を与えるだろう。
が、俺は思うのだ。こんな過酷な体験する必要ある? と。
日本人は普通に生きていれば命がかかった極限状態なんて一生体験しない。「あの時の極限状況の経験のおかげで、二度目の極限状況を生還できました! やってて良かった裏切りイベント!」なんてあるか?
ないだろう。ここは現実世界だぞ。平穏無事に定評のあるクソ現実だぞ。そんなイベント早々起きない。
繰り返すが、得難い体験である事は事実だ。乗り越えれば人間的に大きく成長できるだろう。
だが別に無理して成長しなくたっていいじゃないか。立派な大人になれなくたっていいんだ。悪い大人にならなければいい。
翔太くんと燈華ちゃんには楽しく充実した青春を味わい、幸せになって欲しい。それをお前、無理やりエグい試練を与えて、心を抉ってトラウマ作るような真似をして。
悩む俺にババァは面倒臭そうに言った。
「楽しさと成功しか知らぬ者は脆い。苦しみと失敗に辛酸を舐めてきた者の気持ちが分からぬからな。佐護、お前は翔太と燈華に失敗者を努力不足や熱意不足と貶す腹立たしい成功者になって欲しいのか?」
「だからってわざと失敗させる事もないだろ。そもそも翔太くんは敗北イベントで失敗してるし、燈華ちゃんなんてアレだぞ、中二まで陰湿な虐め受けてたんだぞ」
二人とも裏切りイベントで追い詰めるまでもなく、既に挫折を経験している。
人の失敗を笑うような子ではない。
「佐護はやはり二人に甘いのう。前に言った言葉を繰り返そう。苦難を超え折り合いをつけ、大人になった時笑い話として話す事ができる。そこまでできて初めて充実した青春を送った、と言えるのではないか? それこそが涙あり笑いありの青春の『涙』じゃろう」
「でもなあ。二人のあの顔を見るともう罪悪感が凄くてな。鏑木さんはどう思う?」
話を振ると、ワイングラスを優雅に揺らしていた鏑木さんは事も無げに言った。
「終わった事をやらない方が良かったかもなんて言っても意味がないと思うわ」
「おっとこれはド正論ですね反論できない。すまんババァ余計な事言った」
「うむ。ワシも若木に斧を振るうような真似をしてしまったやも知れんと思っていたのは確かじゃ。反省し今後の糧としよう。話は変わるが、ワシが指紋について知らないというのは甘い設定ではなかったかのう」
「そうかしら? 異世界だもの、そういう事もあってもおかしくないと思うわ」
ババァが出した疑問に鏑木さんは首を傾げた。
俺も手錠の残骸を念力で圧縮してボールにして金属用ゴミ箱に投げ込みながら同意する。
「なんてったって異世界だからな。理論的に考えるなら超能力封じの手錠とかプラチナ化合物も無茶苦茶だ。超能力増幅物質で能力が封じられるなんてどう考えてもおかしいからな。手錠はプラチナどころか銀製だしプラチナ化合物はただの砂糖だぞ? でも言い張れば信じるんだなこれが。異世界産の技術だから」
「異世界渡航技術なんてものまである世界出身のババァさんには分かりにくいかも知れないけど、地球人は『異世界はなんでもアリだ』って思っているのよ。どんなに不思議で変な事でも、『異世界だからそんな事もある』と納得してしまうの」
「そんなものかのう」
ババァは釈然としていない様子だが、こればかりは世界間の文化の違いだ。無知な地球人を許してくれ。
俺は二本目の発泡酒を開け、今回のイベントの個人的ベストシーンに触れた。
「俺が一番嬉しかったのは誕生日プレゼントだけど面白かったのはアレだ、ババァのカンニング。二人に二度目の裏切り匂わせる時にさあ、『罪と罰』に母国語で台本書き込んで読んでただろ。堂々とカンニングしてんじゃねーよ爆笑しかけただろうが」
「何を言う。佐護は念力で、鏑木は時間停止で逐次台本を確認しておったじゃろうが」
しれっと答えるババァは笑っていた。鏑木さんも澄ました顔でポテトサラダをつつきながら否定しないあたり、マジでカンニングしてたんだろうな。
全員燈華ちゃんと翔太くんの目の前で素知らぬ顔してカンニングしてたんだよなあ。その分演技に力を入れる事ができた訳だが、色々酷い。笑うわこんなん。
「私が一番面白かったというか、印象に残っているのは警察の乱入ね」
「ああそれは分かる」
「うむ」
鏑木さんはポテトサラダを取り分けながら言い、俺とババァは深々と頷いて同意した。
警察組は本当に裏切りイベントを引っ掻き回してくれた。
「でもまあクマさんはこっちに引き込んだし、安井もババァが上手くハメて罪を被せて首輪をつけた。実際よくやったんじゃないか?」
「子供のフリをして泣き喚いた挙句失敗したら目も当てられぬからな」
「お゛か゛あ゛さ゛あ゛ん゛と゛こ゛な゛の゛お゛お゛お゛!!」
「ん゛っ! ちょっ、やめて」
俺がババァの声真似をすると、鏑木さんが笑いの発作に襲われワインを噴き出しかけた。
背中を丸めて震えている鏑木さんの背中を撫でながらババァが「お゛か゛あ゛さ゛あ゛ん゛!」と泣きまねすると、鏑木さんは耐え切れず思いっきりむせてしまった。ババァなに追い打ちかけてんだ! ノリノリだな!
「ババァは何が面白かった?」
鏑木さんの耳元でひそひそ囁いて笑い死にさせようとしているお茶目なババァに水を向けると、ババァは少し考えて言った。
「いくつかあるのう。そうじゃな、まず安井を佐護逮捕に必要と言いくるめてパーティークラッカーを買い出しに行かせた時は笑ったのう」
「マジで? あれゲスイ刑事が買ってきたやつ?」
道理でクラッカーの数が多いと思った。ホールの隅に置かれた段ボールにまだ使いきれていないやつがしこたま入っている。
作戦に必要だと信じて大真面目にパーティグッズの買い出しに行かされたゲスイ刑事かわいそう。ババァはゲスイ刑事で遊びすぎだと思う。この調子だとそれっぽい理屈で言いくるめてしょーもないお使いばっかりさせたんだろうなあ。
「他には安井に念力で巧妙に発砲させた事と、鐘山の裏切りの意外性と出オチ感と……ああ、途中で鏑木にワシが本当に佐護を殺すつもりかと疑われた時は少し悲しかったのう。あれは本当に単なる興味本位だったのじゃが」
「あ、分かっちゃった? 疑ってごめんなさいね、上手く隠したつもりだったのだけど」
「鏑木さん……?」
「佐護よ、気にするな。お前が楽観的な分、鏑木は警戒しておるのじゃ」
ふーむ? よく分からんが、気にしなくていいならいいか。
「ところで思ったんだけどさ」
「んむ?」
「何?」
「服の血が乾いてきて辛い。今日は解散して着替えないか?」
ババァは血でべっとりの自分の服を見下ろし、鏑木さんも血まみれの俺にすがりついたせいで斑に赤黒く汚れた自分のドレスを見て真顔になった。
俺達は一度解散する事にした。
シャワー浴びよう。
それから一夜明け、安井はババァの読み通り保身に走って学生組の通報を阻止し、怒涛の展開で脳みそしっちゃかめっちゃかの学生組へのカバーストーリーは鏑木さんを通して語られた。
天岩戸のマスターであり、秘密結社天照のボスである佐護杵光は、ある時超能力に目覚めた。そして超能力を訓練する過程で世界の闇の存在に気付く。
当時の世界の闇は現在のものと比べて貧弱で、子供にすら返り討ちにされるほど。しかし、有害な存在である事には違いない。佐護は超能力を使ってこれを世界から抹消しようと試みる。
が、失敗。佐護の超能力が世界の闇に逆流し、世界の闇は抹消されるどころか強大化してしまう。世界の闇とある種の繋がりができた佐護は世界の闇の出現を感知できるようになり、強大化させた責任を取るために奔走を始める。
世界の闇は人々の暴力欲求の具現化であるから、佐護の力が世界の闇に流れ込んだのなら、世界の闇からも人々にほんの少しは流れ込む。ゆえに、世界中で超能力に目覚める人間が現れはじめた。そんな中で目覚めた超能力を持て余し孤独に悩んでいた鏑木栞を助け、佐護は秘密結社天照を立ち上げたのだ。
世界の闇を強大化させてしまった罪悪感から佐護は口を噤み仏頂面をするようになった。
そして翔太や燈華に自分がボスである事を隠していたのは、日常を守りたかったからだ。
「自分の日常も守れない者に世界の日常は守れない」という言葉は佐護にも適用される。むしろ佐護こそが必要としている言葉だったのだ。
いくら世界の闇を消そうとした自らの失敗、自分ならできるという傲慢が招いた自業自得の後始末とはいえ、超能力を世界中に伸ばし世界の闇を倒して回るのは凄まじく疲れる。精神がすり減る。佐護も他愛のない日常が欲しかったのだ。超能力を持たない、世界の闇と戦えない、ただの人間として生きられる、日常が欲しかったのだ。
天岩戸のマスターという表の顔こそが、佐護にとっての日常だった。なんとしてでもその日常を守りたかった。
そのささやかな偽りをババァが見抜き、糾弾し、ぶち壊しにしてしまった。
しかし、惨劇の結末には続きがあった。
鏑木が泣き疲れ遺体に布を被せ三十分ほど目を離した隙に、ババァと佐護の死体が消えていたのだ。点々と続く二種類の血の足跡は天岩戸の外、夜の街へと消えて行っていた。
佐護とババァの事情をよく知る鏑木は死体が歩いた理由を推測した。
世界の闇と佐護の間には不思議な繋がりがある。世界の闇が滅びない限り、その不思議な繋がりが佐護を蘇生させるのではないか。世界の闇は佐護を生かし、佐護は世界の闇を生かす。切っても切れない共存関係だ。超能力という底知れない力を介した繋がりがある以上、それぐらいの事は起きても不思議ではない。
本当に蘇生したとして、佐護がなぜ天岩戸を立ち去ったのかは分からない。いわば世界の闇による蘇生であるから、かつて佐護から超能力が世界の闇に逆流したように、世界の闇から佐護に何かが逆流し、それが原因で立ち去ったのだろう、という曖昧な推測が限界である。
一方で世界の闇との繋がりを持たず、超能力も持たないババァの死体が歩いた理由は単純明解である。
自動蘇生魔法だ。
地球では魔法を使えないが、ババァは地球に来訪する前に危機回避処置としてあらかじめ自分に一度だけ死んでも復活できる自動蘇生魔法をかけていた。魔力が存在しない世界でも正しく機能するか不確かであったが、死体が消えた事実から鑑みて、無事機能したのだろうという推測が成り立つ。
ただ、その自動蘇生には問題がある。蘇生すると一年分の記憶が失われるのだ。
ババァは地球来訪から一年を過ごしていない。すると、自動蘇生したババァは、目が覚めたら異世界感溢れる地下室にいてどうやら一度死んだらしい、という意味不明な状況になる。
状況は掴めなくても、自分が一度殺された危険な場所から逃走するのは自然な流れである。自動蘇生は一回使い切りで、二度と使えないのだから。
以上が裏切り事件の真相である。
話を聞いた翔太くんは、俺とババァが事情はどうあれ生き返ったという事実に心底安心していたが、燈華ちゃんは厳しかった。
忘れてはならないが燈華ちゃんは仏門少女である。死んだ俺が生き返ったというのは、つまり、一度死んだが悪霊によって復活し、成仏せずに地上を彷徨っている、という事になる。燈華ちゃんはキッパリと「悲しいけど、マスターは見つけ次第成仏させて輪廻の輪に戻す」と宣言した。
や め て 。
燈華ちゃんは「命を大事に」タイプだから普通に蘇生を受け入れてくれるものだとばかり思っていたが、とんだ落とし穴である。もちろんそのままにはしておけないから、ケアというかそれとない弁明が必要だろう。
意外と言えばクマさんの反応もそうで、なんと警察を辞めてしまった。肝心な時に役に立てなかった自分を恥じたらしい。で、鏑木さんに話を通し、天岩戸の二代目マスターになってくれた。いつか佐護が戻る事を信じ、店を開けて帰る場所を守るのだ、と言われては断れない。イグの世話もしてくれると言う。
クマさんの男気と気遣いが辛い。クマさんはかなり厳つく渋い見た目をしているから、むしろクマさんがマスターやってる方が天岩戸の雰囲気が良くなる気がして二重に辛い。俺の場所を守ると言ってくれるのは本当に嬉しいんだが、逆に居場所取られそう。
秘密結社所属の非超能力者で、格闘の達人で、酒場のマスターで、手甲型PSIドライブで武装している。図らずもクマさんは積年の夢を叶えた形になる。
クマさんが辞職してしまった反面、ババァが打ち込んだ楔が上手く働き、ゲスイ刑事は上手く警察とのパイプとして機能してくれるようになった。ゲスイ刑事にはババァや俺の復活を知らせておらず、人を殺してしまったと思い込んでいる。二発発砲したため始末書を山ほど書かなければならず、鏑木さんの圧力で不問に処され借りができたのも大きい。ゲスイ刑事はクマさんほど警察内の立場が良くないが、クマさんから超能力者関連事件の担当を引き継いだし、クマさんからも天照に協力するよう釘を刺され、ヤクザとも繋がりがあり、ダーティーな手段を嫌がらない。使い勝手の良い外部協力者として落ち着いてくれた。
なおババァの裏切り騒動については提携企業という事で鐘山社長にも話が通り、「奴は死んでも栞さんを幸せにすると言った。だから必ず戻ってくる」とのコメントを頂いた。
いずれ天照に戻るのは事実だけどそういう理由じゃないんだよなあ。否定もしないが。相変わらず真理を突いてるんだか空回りしてるんだかよく分からん人だ。
ともあれ天照はしばらくの間、俺とババァが離脱した状態で運営される事になる。離脱中に新メンバーが増える事もあるだろう。
色々あったが、燈華ちゃんと翔太くんには秘密結社天照高校生編を楽しんでもらいたい。
♯
高校一年生、蓮見燈華はキュロットスカートにカーディガンを合わせた身軽な服装で夜の街を歩いていた。学校帰りに天岩戸に寄った帰り道である。
夏の匂いが香り始めた夜の空気はまだまだ肌寒いが、蓮見の心はそれ以上に寒々しかった。裏切り事件から三日、鏑木や高橋は死と復活を受け入れ立ち直りつつあるが、復活を受け入れられない蓮見は沈み込んだままだ。物思いに耽る事が増え、両親にも心配されている。
何が起きても日常は続くのだ。いつまでも落ち込んでいないでしっかりしなければと思えどなかなかそうもいかない。
自宅への近道になっている人気のない隘路を歩いていた蓮見は、反対側から人が歩いてくるのに気付いた。
蓮見はその姿を見て息を飲む。Yシャツのボタンを開け着崩し、ジーパンをはいているその人物は、佐護杵光に瓜二つだった。
「待って下さい」
「おん?」
呼びかけると、その男は不思議そうに立ち止まった。自分を知っている反応ではない、人違いか? と蓮見は戸惑う。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「は? なんで?」
蓮見が知る無口なマスターとは似ても似つかない軽い言葉に怯む。表情も豊かで、朗らかだ。
「知り合いとよく似ていたものですから」
「ああなるほど? 夜久だ」
他人の空似か、と、安堵と失望が同時に押し寄せる。
だが、夜久と名乗った男はあまりにも佐護によく似ていた。念のため、更に尋ねる。
「下の名前は?」
「んっんー、覚えてないんだな、これが。ちょっと記憶が飛んでてな。ぶっちゃけ苗字も仮名だ。おっと警察はやめてくれよ。別に記憶が無くても困ってないからな」
「……もしかして、記憶が無いのは三日前以前ですか」
「えっ怖い。なんで分かったんだ? 超能力者?」
蓮見は素で驚いている様子の夜久が、記憶を失った佐護杵光である事を確信した。
蓮見はマスターは見つけ次第成仏させて輪廻の輪に戻す事を宣言している。その宣言通り悪霊による歪な復活を遂げた佐護を成仏させようと炎を滾らせようとしたが――――
「なんで泣いてるんだ?」
「え……」
夜久に言われ、蓮見は自分の頬を伝う涙に気付いた。
泣いている場合ではない。歩く屍を冥府へ返さなければならない。そう思うのに、別のもっと強い感情に支配されて体が動かない。炎が出ない。
「なんか嫌な事でも思い出したのか? あー、その、なんだ、ハンカチ使う?」
夜久が恐る恐るハンカチを差し出す。
その不器用な優しさに記憶を失ってもなお残るマスターの影を見て、涙は止まらなくなった。
「違うんです。嬉しいんです。喜んじゃいけないのに。マスターが生きていてくれて、こんなに嬉しい。私は、私は……!」
蓮見は自分の未熟を恥じた。生命の輪廻から外れた許されざる存在に喜んでしまう自分を恥じた。
だが一方で、この気持ちが未熟の証だというのなら、一生未熟でもいい、とも思えた。
夜久は蓮見が知っているマスターよりもずっと気楽そうで、楽しそうだった。真実を告げてまた苦しませる事は蓮見にはとてもできなかった。記憶を失っている方が幸せな事もきっとあるのだ。蓮見は不器用で優しいマスターに幸せになって欲しいと心から思った。天岩戸にその姿が無いのは寂しいけれど。
ハンカチで涙を拭わせてもらい、落ち着いた蓮見は、菩薩のような微笑みを浮かべ夜久に問いかけた。
「夜久さんは、今、楽しいですか?」
「ええ……さっきからなんなんだよもう。まあ楽しいけどさあ。言っても分からんと思うけど、なんかすっげー自由になった感じがするんだよな」
「分かります」
「ほんとかよ」
「ほんとです」
蓮見が力強く言うと、夜久は怯んだようだった。
楽しく過ごしているというのなら、最早言う事はない。本音を言えば天岩戸に戻って欲しかった。しかし、佐護はずっと罪悪感を抱き世界の闇と戦ってきた。休息が必要だ。
名残惜しいが思いきらないといつまでも引き留めてしまいそうで、蓮見は最後に一つだけ聞いて別れる事にした。
「夜久さんは耳の尖った銀髪の女の子を知りませんか?」
「えっ待って本当に怖い。確かに一緒にいるがなんで分かるんだ? 君は俺の何を知ってるんだ?」
「ふふ、超能力者ですから。私の事は気にしないで下さい。でも、何か困ったら天岩戸へどうぞ。私達はあなたをいつでも心から歓迎します。では」
蓮見は天岩戸の住所が書かれた名刺を渡し、戸惑う夜久を残して足取り軽く再び夜の街を歩きだす。
後ろは、振り返らなかった。




