表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/133

イグの春休み


 イグバディ・ングナッ・ムグーの一日は佐護杵光の起床と共に始まる。ガサゴソと布団が動く音を小さな耳で捉えたイグは、部屋の隅の止まり木に取り付けられた巣箱から顔を出し、鼻を鳴らして空気の臭いを嗅ぐ。悪者の臭いがしない事を確認し安心したイグは、止まり木を駆け下りて佐護の頭までよじ登った。


「んー、おはよう、イグ」

「チチッ」


 眠たげな佐護の声に、イグは髪を引っ張りながら元気よく答えた。現在イグが属する群れの大柄な長、佐護は朝になると必ず顔を洗い、歯磨きをする。食べるわけでもないのになぜ、棒を口に突っ込んで泡を吹くのか、とイグは不思議だったが、佐護はおっちょこちょいで不思議なところがあるのは理解していた。故に気にせず、歯磨きをしている間に髪を整えてやった。

 歯磨きが終わると、佐護は寝転がってテレビを見始める。イグも肩や頭の上をちょろちょろしながら、それを一緒に眺める。しばらく前までは佐護がテレビを見ている間に独りでに動いて朝食を作る包丁やフライパン、食材を眺めていたが、今は飽きてしまっていた。次々と色彩が切り替わるテレビ鑑賞の方がイグ好みだった。


 食事が出来上がるとそのまま朝食である。今朝のイグの献立はモンキーフードに昨日の余りの林檎一切れ、蜂蜜一匙だ。頭や肩の上に食べかすを落とすと佐護が怒るので、イグは食事の時は安住の地を離れ、ちゃぶ台に降りて食事をとる。食事の間、佐護の目はテレビに釘付けだった。もう一週間も前から佐護はこの調子だ。時折録画もしている。情報拡散具合の確認と、テレビ出演しちゃった記念録画のためである。


 アイルランド沖の戦いはイギリス国営放送局が、東京沖の戦いは日本の公共放送局が一部始終を撮影・報道していた。

 当初、テレビ局は正体不明の巨大物体が海上に現れた、という情報により、詳細確認のためにヘリを飛ばした。人工衛星で確認されたそれは巨大な浮かぶ水球で、陸地へ向けて時速20km程度の速度で移動していた。有り得ない現象であるはずだが、絶対に有り得ないとも言い切れない現象でもあり、軍の出動は控えられた。これが分かりやすいドラゴンやエイリアンの姿をしていれば、幾らかの混乱はあれ軍が早々に動いただろう。しかし実態は巨大な水の塊である。非現実的だが、中途半端に現実寄りだ。特殊な自然現象なのか、未知の生物なのか、はたまたオカルトか宇宙人か。全く特定ができない。


 ヘリが到着する前に、まずアイルランド沖の600m級の水球の目の前に海中から現れた黒いローブの謎の人物が立ちふさがった。人工衛星による真上からの映像では詳細は把握しにくかったが、どうやら黒ローブと水球が戦闘を行っているらしい、という事はすぐに推測できた。黒ローブが手を動かすたび、不可視の衝撃が水球を襲う。水球は黒ローブに向け津波のような触手や水流を放つが、これも不可視の何かで防がれる。やがて到着したヘリのリポーターは、興奮しながら「見えない巨人(Invisible Titan)が水の化け物(Water Monster)と戦っている!」と叫んだ。

 そしてそれがそのままメディアを通じて一気に広まり、謎のローブの人物は世界的にはInvisible Titan=I.T、巨大水球はWater Monster=W.Mと呼称される事になる。日本ではタイタン、超水球、と呼ばれているのだが。


 それまで無害であった超水球に攻撃を加えているらしいタイタンへの非難の声は、報道ヘリへの超水球の攻撃を不可視の力が防いだ事によってほぼ消えた。それでも『タイタンが攻撃を加えたせいで超水球が怒ったのだ』という論は根強く残っている。タイタンも超水球も何もメッセージを残さなかった。二体の戦闘の目的、意味は想像する他にない。


 一方、東京沖の50m個体は三人の謎の人物が相手取った。状況と黒で統一された服装、超水球への敵対行動、タイタンと同じく黒クジラで姿を消した事から、タイタンと同じ立場にある人物達であると推測されている。

 監視カメラ映像と目撃情報から東京都江東区から三人は黒い巨鳥によって現地へ高速飛行したという事は判明しているのだが、偶然か故意かそれ以前の行動は監視カメラなどに映っておらず、三人の正体は分かっていない。江東区の人と車の出入りは多い。服装を変えさえすれば容易に紛れ込めてしまうのだ。仮面が邪魔で顔認証による分析も不能だった。

 三人は炎、氷、瞬間移動を用いて超水球に対抗、これを撃破。ヘリと人工衛星からの撮影では水煙と角度の問題ではっきりと映っていないが、小型自律機械あるいは小動物らしき存在も確認されている。

 黒い鳥と黒いクジラも含め「正体不明の黒服集団」と呼称される事が多い。


 そして、公共放送の報道による情報はそこまでである。それ以上のもっと込み入った推論・激論・極論は、ゴシップ誌やバラエティ番組、ラジオトークショー、ネットの領分だった。

 佐護は念力で警視庁や国会議事堂、テレビ局、自衛隊に探りを入れ、捜査の手が天照まで届いていない事を知っている。知っているが、どれほど確認を繰り返しても安心できないがゆえ、そしてテレビに映る天照の雄姿にそわそわしてしまうがゆえに、テレビを見るのはやめられなかった。事件から三日ほどはほとんどずっとテレビに張り付いていた事を思えばマシにはなってきている。


 朝食の終わり際、満足してテレビから目を離した佐護はおもむろに果物ナイフを手に取って立ち上がり、何もない場所で足をもつれさせ転んだ。


「あーっ! いてててて! いたい! うわーたすけてー!」


 転んだ拍子にうっかり果物ナイフで太ももを深々と刺してしまった佐護を、イグは素早く駆け寄って癒した。治した御褒美に最近お気に入りのガムシロップを三個も開けて貰いながら、あわてんぼうの佐護の太ももを撫でてやる。佐護はイグを助けた頼れる群れの長だったが、必ず二日に一度大怪我をするおっちょこちょいであった。


 恒例のハプニングが終わると、佐護はバーテンの服装に着替え、居住スペースから天照店内に出て軽く清掃する。その後足を組んで椅子に座り、アコースティックギターの練習を始めた。「二十年後四十半ばのおっさんになった時、若い頃ギターやってたアピールするための練習」である。

 下手くそでぎこちない、ゆっくりとした弾き語りに合わせ、イグも体を揺らして歌った。イグは佐護の歌が好きだった。それはイグの耳からしてすら下手だったが、一生懸命で、心がある。そして毎日少しずつ少しずつだが上達している。聞いていて嬉しくなる歌だった。


 一時間ほど練習すると、ギターを置いて超能力モノのライトノベルを読み始める。超水球事件後、目ざとい書店は超能力関係の書籍を積極的に推しており、それが売れに売れて品薄である。佐護が読んでいるのは鏑木から借りたものだった。時折「なるほど」「あ、こういう展開やっちゃう?」などと呟きながらメモを取っている。構ってもらえず暇になったイグは巣箱に戻り、昼寝をした。


「イグ! 昼飯だ!」


 美味しそうな匂いと佐護の声で目を覚まし、天岩戸のフロアに出ると、佐護がパスタを食べながらミキサーで果物ジュースを作っていた。イチゴとバナナをベースにパイナップルを少量混ぜたペースト状の原液を小皿で出され、イグは夢中で舐める。佐護は残りの原液を牛乳とヨーグルトで薄めて一気飲みしていた。

 皿に残った餌を名残惜しく舐めているイグの耳が、天岩戸への階段を下りてくる足音を捉えた。イグは顔を上げ、耳を動かし、さっと佐護の肩へ飛び移り警戒する。


 予想通り、やってきたのは悪者の臭いをぷんぷんさせた鏑木栞だった。店名のロゴが入った小さな箱を持っている。鏑木の本日の服装は腰部がコルセット状になっているハイウエストの黒色スカートに、白いブラウスという清楚な出で立ちである。なお、鏑木はこの服装で最寄りの駐車場から天岩戸までの短い移動の間に十数人の童貞を精神的に殺しているが、鏑木の変わった服装に見なれている佐護は余裕の致命傷だった。苦しげに心臓を押さえる佐護にイグは治癒を使い、謎の攻撃を仕掛けてきたらしい鏑木に歯を剥きだした。


「お疲れ様。今日はケーキ持ってきたわ」

「お疲れ今日も服すごいな、シンプルで似合ってる。ジュース飲むか?」

「ありがとう。ラッシーかしら」

「ラッシー? オシャレ用語は分からんが、果物ミキサーにかけて牛乳とヨーグルト混ぜたやつだ」

「それがラッシーよ。フルーツ系の」


 親しげに佐護の隣に座り、箱を開け一緒にケーキをつつき始める鏑木が、イグは猛烈に気に入らない。群れに我が物顔でのさばる悪者に皆騙されている。追い出してやりたいが、長である佐護に気に入られているのが辛いところであった。あまり酷い事はできない。

 故にイグは嫁をいびる姑の如く嫌がらせをするのである。イグはシンクに置かれていたフォークを取り、鏑木の長いウェーブがかかった髪をスパゲティのようにくるくるした。生意気に整えた毛並みをめちゃくちゃにしてやるのだ。フォークが絡まった髪は滑稽で、イグは笑った。


「チチチチチッヂヂヂヂヂヂ!?」


 次の瞬間、イグは天井の換気用シーリングファンから垂れる紐の先に尻尾を結ばれぶら下がっていた。

 悲鳴を上げるイグはため息を吐く佐護に救助され、理不尽にも軽く叱られる。イグはしゅんと落ち込み、今度はもっとうまく嫌がらせをしてやろう、と深く反省した。

 一服を終えた二人は、イグが尻尾に治癒をかけ舐めている間にしばしの打ち合わせに入る。


「鐘山テックだけど、やっぱりサンプルを大量に用意できるのは大きいのね。業績は右肩上がり。佐護さんの高圧ブラックボックスも活用し始めたみたいよ」

「あ、マジで? 道理で最近利用回数増えてきたと思った。ただの黒い箱なんだよなあ」


 鐘山テックの実験室に設置された黒い箱にはタッチパネルが取り付けられ、圧力と時間を入力すると佐護のスマホに連絡が入るようになっている。佐護はそれを受け、現代科学では到底実現不能な超高圧をブラックボックス内に展開している。通称、ブラックボックスだ。

 鐘山テックの研究員は当初こそ鏑木から提供されたその箱の仕組みを解明しようと躍起になっていたが、どう調べてもタッチパネルと発信機が取り付けられただけの単なる鉄の箱だったためそこはかとない恐怖を抱いたらしく、現在では深く突っ込むのをやめ、便利な箱として利用法を模索している。前代未聞の巨大人工ダイヤはその成果の一つだ。知識に乏しい鏑木と佐護では黒鉛を単純に圧縮しても上手く行かなかった。専門知識と技術に裏打ちされた鐘山テックとの共同戦果と言えるだろう。


「時間的負担になっていないかしら? 風力発電もあるでしょう? 忙しいようなら私がスケジュール調整に入るわ」

「あー、そうだな。ブレード回すのは地味に面倒なんだよな。鐘山テックの方が順調なら風力発電は規模縮小してもいいかもしれん。急に辞めると迷惑かかるだろうからゆっくり仕事減らして……いやでもなあ。あそこの社員面白くて好きなんだよな。タービン神社とか作り始めてるし」

「どういう事なの……」

「神社はいいんだよ。防諜は本当に大丈夫なんですかねぇ。もう一週間になるが報道全然収まる気配無いぞ。そのうちなんかこう、すごい科学捜査とかされて見つかるんじゃ」

「情報統制の基礎を徹底しているから大丈夫よ。監視カメラに映らない。人に目撃されない。物証を残さない。喋らない書き込まない。倉庫街の痕跡は大雨を降らせて消したでしょう? 政府警察メディアの動向も念力監視で把握しているわ。最近は東京近郊に絞って調査しているみたいだけれど、人的・物的被害が出た訳でも犯罪行為が行われたわけでもないから、動いているのはほぼメディアのみ。学術団体による海洋調査も計画されているようだけれどね。とにかく人海戦術で動かせる人員にも限りがあるわ。ネットの情報収集も株価操作目的の風説の流布が激しく頼りにならない。これ毎日二回は言ってるわよ? 心配要らないわ」

「頭では分かってるんだがどうにもなあ。まあいいか。この機会を上手く使って政府警察メディアに食い込むって話は?」

「進めているわ。これは任せて頂戴。ただ慎重を期す必要があるから私一人で……いえ、佐護さんがダメという訳ではないのよ? ただの向き不向きの問題で」

「知ってる。そのへんを任せるために鏑木さんに副官任せてるんだ、気にしちゃいない」


 一通り話し終えると佐護はカウンターにつき、棚からリボンでラッピングされた箱を二つ出す。そして不機嫌そうな顔を作ってグラスを磨き始める。鏑木は洋書の小冊子を読み始める。しばらくすると、炭模様のハーフパンツに真っ赤なTシャツを着てシルバーアクセサリをジャラジャラぶら下げた高橋翔太と、GパンにTシャツとカーディガンを暖色系で揃えた蓮見燈華がやってきた。


 挨拶もそこそこに、二人はすぐにカウンターに置かれた箱に気が付いた。何しろ二人の名前が印刷されたカードが挟まっている。


「ボスからのプレゼントよ。良くやった、と言っていたわ」

「ボス来てるの!?」

「さっきまでは。二人と入れ違いでモルディブに行ったわ。忙しい人だから」


 周りを見回していた燈華はがっかりした。二人はボスにほとんど毎日会っているが未だに会えていないと思っている。

 翔太は自分宛の円筒形の箱に巻かれた赤いリボンを見て呆れている。


「ボスってこんな可愛いラッピングすんのかよ。女子か」

「リボンは俺だ」

「えっ」

「…………」


 ぼそりと言った佐護が無言で棒人間が炎で丸いものを攻撃している様子を描いたラテアートを出す。翔太はマスターの不器用な感謝とねぎらいに、フッと笑って礼を言った。

 プレゼントはその場で開封され、翔太はオリンピック聖火を分火した火が灯るランタンを、燈華は昨年法隆寺の仏像の中から見つかった約千年前の蓮の種を大いに喜んだ。

 イグは珍しい種に興味を惹かれ齧ろうとして、燈華にかなり本気で怒られ尻尾を縮み上がらせ佐護の肩に避難した。訳が分からなかった。


 四人は鏑木のノートパソコンを囲みカフェラテとクッキーをお伴にネットの噂を追い雑談を始める。とはいっても佐護は喋らないのだが。


「コードネームも定着して来たね。全部英語なのはやっぱり日本より欧米の方が議論盛んだからなのかな」

「一応日本の50mよりアイルランドの600mの方が早く出たみたいだしな。タイタン、ITはボスだろ。タイムレディのTLが鏑木さん、バーニングガールBGが燈華で」

「翔太はフリージングナイト。FKだね」

「イグには名前付いてないんだよな。ああいやヒーラーって呼ばれてるか。これってコードネームか? 小型機械説優勢なの笑うわ」

「それはちょっと面白いけど……うーん、やっぱりけっこう叩かれてるよね」


 ネットの書き込みには『どうして姿を現して説明しないんだ』『やましいところがあるんだろ』『暴れるだけ暴れて逃げた』『無責任』『こいつらガチホモとクソレズ』『地球の自然の奇跡の産物をぶち壊した人間の屑』などなど、罵倒も多い。水際で超水球による都市部破壊を阻止したのだ、という事情など、一般人には分からないのだ。勿論好意的に捉え純粋に憧れ、賞賛する論も多くあるのだが、百の賞賛でも一の罵倒の痛みを消せるわけではない。

 メディアはまるで犯罪者か逃げ出した希少動物を追い回すような勢いで、有力情報に懸賞金をかけている報道関係社も珍しくない。

 なぜ、姿を見せない意図を汲んでくれないのか、あんなに頑張ったのに、と学生二人は不満を隠せない。以前の鏑木の警告通り、正体を明かせばプライバシーを根こそぎ暴かれオモチャにされる事がはっきりしていた。

 鏑木は納得できない二人に諭した。


「ねぇ、事件が隠蔽されて何事もなかったかのように国民全員が口を閉じるとか、逆に英雄礼賛と美辞麗句しか聞こえてこないとか、それよりは罵倒と称賛が混ざった今の方が自然だとは思わないかしら。平和の証よ」

「……そうかも知れねーけど、そりゃ大人の理屈だろ。俺は納得できねぇ。よく考えもしないで好き勝手言いやがって。心の火が灯ってない。こいつらはヤな奴らだ」

「確かに。徳低そう」


 鏑木は憤慨する二人の言葉を否定せず、ただ微笑み、話題を変えた。世界の闇について語る鏑木に二人の気はすぐに逸れた。

 超水球事件以後、世界の闇の出現数は大幅に減っている。世界中が圧倒的暴力の存在を知り、恐怖を覚えたからである。それは暴力を求める深層心理のストッパーになる。しかし一方で、水の怪物を超能力によって倒す人間の存在証明は、いずれ近いうちに更なる暴力欲求を呼び起こすだろう。喉元過ぎれば熱さ忘れる。恐怖も忘れる。なにしろ結果的に超水球による被害はなかったのだから、恐怖は長続きしない。超能力を、証明された新たな種類の暴力を求める人間の深層心理が世界の闇に影響を及ぼす事は間違いない。

 

 そんな話を長々と聞いていたイグは暇を持て余した。何を鳴き交わしているのかさっぱり分からず、佐護も話に気を取られ髪や耳を引っ張っても構ってくれない。昼寝はもうしてしまい、眠くもない。

 するすると佐護の体から床に降りたイグは、ふと天岩戸の入り口のドアが少し開いている事に気付いた。翔太がしっかり閉めていなかったのだ。イグは肉体の若返りと生活環境への慣れから、生来の好奇心を復活させていた。イグは一匹だけで外に出た事がない。佐護に連れられての朝の散歩の習慣は一週間前からなし崩し的に中断されており、外の空気が恋しくもあった。

 そして興味に惹かれるまま、ドアの隙間から外の世界への冒険に出かけた。四人は談笑していてそれに気づかない。脱走大冒険の始まりだ。


 路上から地下の天岩戸へ続く階段をジャンプして超えたイグは、植え込みと街路樹を伝って街を冒険した。

 植え込みの低木の花の蜜を吸い、街路樹の細い枝についた虫を食べ、不味い羽は下を通る通行人の頭に投げて捨てる。

 隠れているわけでもないので人間に何度も見つかったが、悪者の臭いの人間がきゃあきゃあ言いながら触ろうと伸ばす手をイグは引っぱたいて逃げ出した。目が穏やかで、悪者の臭いがしない人間の場合は撫でるのを許したが、皆下手くそだったのでやはりすぐに振り払って逃げた。


 昼下がりの日光は眩しく、車の音は煩かった。車通りの少ない早朝にしか外に出た事が無かったイグは目をしょぼしょぼさせながら、音と溢れかえる悪者の臭いを避けて裏道に入っていく。午後の日差しは高層マンションに遮られ、ブロック塀の上はひんやりと涼しい。イグは気分よく塀の上をのこのこ散歩していたが、よく動いて小腹が空いてきた。そこへ吹き降ろすビル風が香しい匂いを運んでくる。蜂蜜の匂いだった。

 イグは立ち止まり、鼻を風上に向け匂いの元を探る。ややあって塀の上から電柱へ、雨樋へと飛び移り、高層マンションの壁をベランダに置かれた鉢植えから垂れさがる植物の蔓などを頼りに器用に登って行った。


 空いた窓からマンションの一室に入ると、ベッドに半身を起こして座っていた青年が目を丸くした。

 そこはスポーツマンの部屋だった。棚に飾られた綺麗なバスケットボールの横に使い古されたバスケットボール。金色のトロフィーが幾つも机に並び、壁にはユニフォームと賞状。スポーツ雑誌が本棚に整理されて並んでいる。

 しかしその部屋の主である高校生の丸刈り青年の顔色は悪く、右腕には物々しく白いギプスが巻かれ首から吊り下げられていた。


「は? 猿……?」


 窓からの闖入者に唖然とする青年に目もくれず、イグは青年の膝の上に置かれていたトーストにロックオンして飛びついた。夢中で舐め、すぐに近くの瓶にもっとたっぷり蜂蜜が入っている事に気付く。叩いたり転がしたりして中身を出そうとするが上手くいかない。青年は苦笑して、毛と土汚れがついてしまったトーストの上に蜂蜜を出してやった。


「っ!」


 その動作で、青年は顔を歪ませ、右腕を押さえた。しばし固まり、それから重苦しいため息を吐く。


「猿、どこの奴か知らんがそれ舐め終わったら帰ってくれよ。今は小動物愛でる気分じゃないんだ」

「チチチ」

「なんだ、お前まで馬鹿にすんのか? そうだよどーせ俺はクソ間抜けな度胸試しで骨折って選手生命断たれたカスだよ、クソっ! うるせーんだよ言われなくても分かってる! 何が父さんは悲しいだ一番悲しいのは俺だボケ! ってぇ……」


 興奮した青年が再び呻く。

 ハチミツで口の周りをべたべたにしたイグは、叩きこまれた条件反射で、青年の腕に治癒をかけた。

 奇跡の光が薄暗い部屋を照らす。


「!?」


 青年は言葉もなく、石像になったかのように静止して暖かな白い光を受けた。数秒でイグは治癒を止め、興味を無くし蜂蜜を舐めに戻る。

 たっぷり一分は放心していた青年はハッとして右腕を見た。持ち上げ、動かし、振り回して、驚愕する。そして間違いなく人生で一番であろう驚きをもって驚嘆すべき奇跡の猿を見つめた。


「お前……そうか、ニュースで見たぞ。噂の秘密結社の小動物か。猿だったんだな」

「チチッ」

「安心しろよ、誰にも言わない。たぶんそっちの方が嬉しいんだろ。しかしなんだな、ははっ、クソつまんねぇ最悪な世界だって思ってたが、奇跡ってのはあるもんなんだな。よーし、待ってろ今バナナ持ってきてやる。蜂蜜よりそっちのがいいだろ?」


 青年は猿をひっくり返さないようにそっとベッドから降り、歌いながら足取り軽く部屋を出ていった。

 青年の姿が見えなくなった途端、イグの体は宙に浮いた。その不思議現象を知っているイグは驚くが、慌てはしない。その不思議な力は自分に決して危害を加えない事を知っている。宙を横切り空を飛んだイグは、唐突に落下し、植え込みに向かってイグの名を呼んでいた燈華のカーディガンの胸元に飛び込んだ。


「ひゃっ!? え、なになになに!?」

「チチチチチ!」

「えっ……イグちゃん? え? なんで空から落ちてきたの? あ、なんかベタベタしてるなにこれ、蜂蜜? 蜂蜜の匂いするよ? 何してたの私達が探してる間に、あっこらちょっと潜り込まないで、ばかっ、出てきなさい!」


 イグは結局燈華の手によって天岩戸に連れ戻され、学生組が帰った後に佐護によってこっぴどく叱られた。

 どんなに怒っていても叩いたり毛を毟ったりしないのが佐護の良いところである。

 次は怒らせないように外に出よう、と、イグは深く反省した。


 鏑木が帰った後、佐護は風呂に入り、着替えて布団に入った。イグも巣箱に入り、目を閉じる。ほどよい疲労と満腹感で、眠気はすぐにやってくる。

 明日が来るのが恐ろしくなくなったのは佐護に助けられてからである。佐護の穏やかな寝息をBGMに、イグは心安らかに眠った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
イグ本当に可愛い。
[良い点] 徳低いわが便利すぐるw
[一言] なんか癒される〜
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ