キレなかったルート
大学を卒業し、社会人になってからの日々が過ぎるのは早かった。
怒涛の新人教育。就職時の説明と全然違う勤務形態。八時始業なのに強制七時出社。タイムカードを夜の八時に切ってからが本番。当然のように払われない残業代。繰り返される休日出勤(無給)。疲れ切って帰宅した直後にかかってくる呼び出しの電話。理不尽なクレーム。押し付けられる責任。割に合わない安月給。ちょっとしたミスで顧客を逃し罵倒され昇進が取り消され。
辛い。辛いが、人間は慣れる生き物。一年経てば仕事に慣れ、上手く力を抜いてサボる事も覚える。後輩が入れば先輩のイビりの矛先や雑務はそちらに流れる。
二年も経つとなんだかんだで生活は回り始めた。
その日も俺は夜遅くに安アパートに帰宅し、ネクタイを解きながら念力で冷蔵庫からビールを出した。ソファに体を投げ出し、テレビをつける。
やっていたのは深夜ニュースだった。今日も政治家が汚職して、芸能人が浮気して、事故で人が死んで、有名企業がスキャンダルを起こしている。
毎日毎日何も変わり映えしない、虚無の映像を何の感慨も無くぼんやり見続ける。ただの習慣でテレビをつけて、なんとなく人の声が恋しくてつけっぱなしにする。
コンビニ弁当とスーパーの割引弁当を周回して。
やっと取れた休日に新作映画を観に行こうとウキウキ気分でチケットを予約しても当日は疲れすぎて眠くてベッドから起き上がれなくて。
起きた時には夕方で。無駄になったチケットの予約画面を見ながら思うのだ。
なんだこの人生。
なんなんだこの人生。
ずるずるずるずる生きるだけ。
生きていて楽しい事なんてないけれど、死ぬのが怖いから生きている。
日本の経済がマイナス成長を記録したというニュースを見て、急に全てが嫌になった。
どうせ全部無駄だ。
超能力を鍛えたって何も起きなかった。美少女との出会いも超能力バトルも異世界召喚もありゃしない。超能力に目覚めた時に空想した華々しいドラマは影も形もない。
馬鹿馬鹿しい。全てが。全てが……もう……
ビールの空き缶をゴルフボール大に潰し、背後のゴミ箱に念力で投げ入れる。
ソファに横になり、しわくちゃのスーツを体にかけて睡魔に身を任せた。
起きた時には昼過ぎだった。
スマホを見ると上司から何件も着信が入っている。いつもなら心臓が凍り付くぐらい焦るのに、不思議と心は凪いでいた。
スマホの電源を切り、床に投げ捨てる。
会社なんてどうでもいい。どうにでもなったらいいさ。
無断欠勤が数日続くと会社から出社を促す通知が届き、それも無視していると解雇通知が送られてきた。
これでめでたく無職だ。連絡を絶って無断欠勤をつづけたのだからクビも当然なのだが、俺の住所を知っているはずの会社の人間が一度も心配して様子を見に来なかったのが物悲しい。
事故や事件に巻き込まれているとか、病気で動けないとか、そんな事は考えなかったのだろうか。俺に心配される価値は無かったのだろうか。
不思議と肩の荷が下りた。
なけなしの貯金120万を全て降ろし、アパートを解約して、家具も本も漫画も家にあるもの全てを売り払う。
現金と着替えだけをバックパックに詰め込んで、俺はあてどもない旅に出た。
最初は一ヵ月温泉に泊まって、温泉に併設された漫画喫茶でずっと読みたいと思っていた漫画を起きている間ずっと読み漁った。マッサージ機を占領して、他の客に話しかけられても全部無視した。惰性でずーっと続けていた念力トレーニングもやめた。
寝たい時に寝たいだけ寝て、黙っていても出て来る食事を貪り喰う。上げ膳据え膳のダメ人間生活はしかしめちゃくちゃ充実していた。随分久しぶりに人生が楽しいと思えた。
読みたかった漫画を全部読んでからはホームセンターでブルーシートと寝袋を買い、水と食料を買い込んで本格的に旅をした。
誰もが寝静まった真夜中に荷物を抱えて空を飛ぶ。行先はない。山がある方へ飛んでみたり、高速道路を走るトラックのテールランプを追ってみたり。
ある日は電線を辿って迷い込んだ廃村の朽ちかけた納屋にブルーシートをかけて雨漏りを防ぎ、寝袋に足を突っ込んで念力で沸かした湯でカップ麺を作って食べながら一晩中星空を眺めながら空想に耽ったりもした。
河原を散歩していたらなぜか仏像を彫っている女子中学生がいて、興味本位で声をかけたら怯えて逃げられ危うく事案になりそうになった。
貯金が尽きて日雇いバイトをやっている内に同じように短期バイトで食いつないでいる東京のバイト事情に詳しい先輩と仲良くなったりもした。
明日の見えない毎日だけれど、ささやかな刺激も時々あって、会社員時代よりずっと気が楽だった。
そうして二年ほど全国津々浦々住所不定生活をしている内に定番の稼ぎ口のようなものもできてきた。
土木作業だ。
土砂や瓦礫の撤去、トンネル掘削などで俺の念力は馬鹿みたいに活躍する。重機と大人数、しっかりした計画や安全管理が必要な数週間がかりの大作業も俺がバリアを張りつつ念力でどっこいしょすれば数秒で終わる。
しかし念力式超高効率土木工事にも問題はある。念力を見せて大騒ぎされ、やいのやいのとつつかれたり勝手な噂をされたりしたら精神的に耐えられる自信がない。一度社会にすり潰されてドロップアウトして、自分の打たれ弱さは身に染みて分かっている。目立ちたくない。
資産家の月守さんの系列の土建会社はそのあたりをよく配慮してくれていてやりやすかった。
最初に土木作業をする時、俺が念力でバレない程度にズルして二人分の作業量をこなしていたら、作業の様子をしっかり見ていてくれ、日当をこっそり倍にしてくれた。
調子に乗って次にバイトに入った時に三人分働いたら、何も言わず三人分の給料をくれた。
中肉中背、パッとしない体格の男が三人分も働くというのは一種異様に見えたと思う。
だが何も聞かれなかった。ありがたい気遣いだった。一日で数日分の金が手に入ったから。
何度もバイトに入っている内に、俺は次第に非現実的な量の仕事を一人でこなすようになっていった。現場監督も薄々何かに勘付いているらしく、頻繁にヤニ休憩でいなくなったり、他のバイトに別区画での仕事を割り振ってくれたりして、俺の作業の様子が誰にも見られないようにしてくれた。
鶴の恩返しではないが超能力バレしたら話がややこしくなる前に雲隠れしようと思っていたので、配慮は返す返すもありがたい。
ある日の事だ。
高めのキャンプ用テントを買って金が尽きたので仕事の無心に行くと、大口の仕事があるがどうか、と言われた。大規模な整地依頼なのだが、依頼人が大金を積む代わりに可能な限りのスケジュール短縮を要請してきているという。
俺は二つ返事で請けた。正に俺向きの仕事だ。
話を聞くと依頼人は業界で名の知れた投資家の若い女性で、山をいくつも買い上げ整地して城を建て街まで道路を敷くという壮大な計画を立てているらしい。趣味用で。
信じがたい。この現代日本に城を建てる……? テーマパークではなく趣味で????
俺の理解を超えている。暇を持て余した金持ちの遊びは理解できない。
現場監督の軽トラの助手席に乗せてもらい、ガタガタの狭い山道を越え現場に向かう。
山奥の現場には大型のキャンピングカーが一台止まっていた。依頼人が直々に担当者と顔合わせをしたいと言っているそうだ。
俺は顔合わせたくないです。そっとしておいてくれたらそれでいいんで……
キャンピングカーに乗っていた女性は案の定変な女性だった。赤い派手なドレスを着ていて、キャンピングカーの中に魔法少女アニメのポスターがべたべた貼られている。
それでも愛想笑いではなく心からの笑顔で接客できたのは彼女がとんでもない美人だったからだ。顔もいいスタイルもいい金もある。少し話しただけで教養と性格の良さまで滲み出ている。
世の中には凄い人がいるものだ。俺とは住む世界が違う。
ひとしきり雑談した後、鏑木栞は紅茶カップを置き、目を輝かせ少し身を乗り出して切り出した。
「ところで佐護さん。あなたはとても変わった仕事のやり方をするそうね? 是非詳しく話を聞きたいわ」