05話 太平洋の水ぜんぶ抜いてみた
太平洋のド真ん中でいきなり乗っている船が木っ端みじんに吹き飛ばされたら普通は混乱する。
何が起きたか分からず錯乱状態になり、暴れてもがいて叫び狂い、海水を飲んで更に狂乱し溺れて沈んで死ぬ。そもそも泳げない人、泳ぐのが苦手な人だっているだろう。仮に水泳の授業で好成績を残していても、服を着て波や船の残骸に揉まれながらでは本来の水泳スキルの10%も出せまい。
が、天照の構成員に普通のヤツはいない。どいつもこいつも修羅場慣れしている。
巨大猫の破滅的肉球パンチで船を粉砕され海に出された天照の面々の対応は、それぞれの能力、経験、性格が如実に出たものになった。
翔太くんは海に放り出され巨大猫を目にした瞬間、空中でチタン合金製戦闘鎧を召喚装備。右手で海面に冷凍ビームを撃って流氷を造り着地すると同時に左手で巨大猫に冷気の波を浴びせかけた。その間三秒に満たない。化け物じみた戦闘適性が成せる業だ。
襲撃を予知していたってなかなかそんな動きはできないぞ。恐ろしい。少なくとも俺はできる自信ない。
燈華ちゃんは爆炎で飛来した船の残骸を吹き飛ばしつつ、炎噴射で滞空。目を白黒させて動揺していたが、咄嗟に体が動いたようだ。流石天照最古参なだけある。
海面から十数メートルの高所を飛んでいてもなお遥か見上げる高さの巨大猫に唖然とし、身を護り警戒をしてこそいるがどうするべきか判断に迷っているようだ。いつも戦っている世界の闇とは毛色が違うからか戦闘鎧の召喚も失念している。そして何やら高速でぶつぶつ言っている。何を言っているのか聞き取れないが何を唱えているのかはよく分かる。いつも通りだ。
俺と一緒に甲板で海を眺めていた栞は、俺の念力式盗聴盗撮実況をリアルタイムで聞いていたため余裕で対応が間に合った。栞にとっての「刹那の一瞬」は「たっぷり44秒」だ。どうやらクルーザーが粉砕される寸前に時間を止めたらしく、船が壊されたと思った次の瞬間には爆散する船の残骸から少し離れた海上に展開された救命ボートの上に立ち、巨大猫を見上げて険しい表情を作っていた。
俺の千里眼を意識しつつ朝日を背景に優雅に腕輪をかざしドレスを基調としたデザインの戦闘鎧に変身するその姿はまさに魔法少女だ。
三景ちゃんはスマホを持った姿勢で吹っ飛ばされ可愛らしい悲鳴を上げながら危うく海に落ちそうになったが、寸前で辛うじて影のクッションを展開。そのまま影でできた漆黒のヨットを形成し、目ざとく溺れかけのイグを見つけ影の腕を伸ばし救いあげた。
ぷるぷる体を震わせ海水を飛び散らかすイグを肩に乗せ、巨大猫を見上げ口をぽかんとあけて呆然としている。
三景ちゃんも戦闘鎧召喚を忘れているようだ。シゲじいの血液燃料を使った腕輪およびアンクレット型PSIドライブは、チタン合金製の特注戦闘鎧をいつでも召喚装備できる。
はやいところ召喚して防御力を上げて欲しい。俺が真上から降ってきたエンジンの残骸を念力でこっそり弾き飛ばしていなかったら三景ちゃんの頭蓋骨グシャアってなってたぞ。
シゲじいはズボンを脱ぎトイレットペーパーでお尻を拭いている姿勢のまま驚愕の表情を貼り付け海中に真っ逆さまに落ちて行った。
数秒してから海面に顔を出し、周りを見渡し影の船を見つけるとコソコソ船尾から這い上がり、一瞬黒モヤで自分を包み乾いたスーツに早着替え。それからさも何かを理解したかのような険しいキメ顔で「やはり来たか……」と呟きつつ三景ちゃんの隣に立ち顎を撫でた。
うん。まあおじいちゃんだもんね。反射神経も鈍りますよね。それでもこの状況ですら訳知り顔な見栄っ張りムーブができるのは一周回って尊敬できる。
なお残りの天照海外メンバーは別働隊で後から合流する事になっているため被害を免れている。
「敵襲ーッ!」
翔太くんの怒号で事態を呑み込み切れていなかった面々も慌てて戦闘鎧を召喚し戦闘態勢に入った。が、天照が態勢を整えた途端に全長600mを優に超える巨大猫の姿が忽然と消失する――――いや、実際には原寸大に戻っただけなのだが、収縮が急過ぎて消えたように見えた。
「消えた! 幻!?」
「幻で船は壊れねぇだろ実体あった! 透明になったか空間転移で離脱したかいや手がかりが少ない推理しても意味ねーなとりあえず足場つくる! 全員集まれ!」
翔太くんが海面に作った流氷に燈華ちゃんが着陸し、栞が瞬間移動したように現れる。影船を接岸し、肩に乗せたイグと一緒に飛び移ってきた三景ちゃんに続いてシゲじいが降り、全員が背を合わせて円陣を組んだ。
それぞれがいつでも能力を撃てるよう油断なく警戒する中、燈華ちゃんがハッとした。
「待って、ボスは?」
「そういえばいないね。死んだかな」
「まさか」
ボスと関わりが少ない悲観論者の三景ちゃんの冷たい受け答えに栞は苦笑した。もうちょっと心配してくれないかな。泣くよ? ボス泣くよ? いい歳した大人が泣くよ?
「船を潰された時にアーティファクトを持って海に潜ったわ。私達が足止めしている間にボスがアトランティスに辿り着いてアーティファクトを起動できればいいのよ」
「え、素潜りしてるの? やっぱり死ぬでしょそれ、水圧とかで」
「バリアを張っているから大丈夫よ」
「空気はどうするのだ」
「念力で圧縮した空気を酸素ボンベ代わりにしているから大丈夫よ」
「もうなんでもアリじゃん。全部ボス一人で良くない?」
三景ちゃんの呟きに燈華ちゃんが少し頷いていた。
まあね。君達のボスは理論上宇宙を消滅させられるパワーがあるからね。なんでもアリではないけどできる事はめっちゃ多い。今こうして深海底アトランティス遺跡に腰かけて海上の様子を盗撮盗聴しつつ死人が出ないようさりげない介入をしているのも全部念力あってこそ。すごいだろ!
そして三景ちゃんの言葉で気の抜けた空気を漂わせてしまった一同を栞が窘める。
「確かに深海に行くのは超能力者でも難しいけれど、何人かで協力すれば可能よ。月夜見が追いかけていって邪魔をしたら流石のボスでも苦戦するでしょうね。特に向こうのボス格の男はこちらのボスと互角のようだし」
「ほう! ライバルというわけか。儂も昔、」
「シゲじい黙って」
「うむ」
「ねえ。二人でコントしててもいいんだけど、今の内に融合しておいたらどうかな。絶対追撃来ると思うし、強敵みたいだし。私も今の内に読経するから」
「融合はキモいから嫌」
皆よー喋るな。
だが油断しているわけではなく、巨大猫の一撃で大荒れの海面が水飛沫を上げるたびに誰かが僅かに反応している。イグでさえヒリついた雰囲気を感じたのか、翔太くんの戦闘鎧の腰についた格納スペースに潜り込み、恐る恐る鼻先だけ出して空気の匂いを嗅ぎ緊張した様子。月夜見が奇襲第二波を仕掛けようものなら態勢を整えた天照の超能力集中砲火を喰らうだろう。
月夜見もそれは分かっている。
実のところ、ババァの超聴力で天照の会話は筒抜けだ。
クリスの未来予知で戦闘になればどちらにとっても厳しい戦いになると理解できているだろう。
月夜見の目的はアーティファクトであり、アーティファクトは天照のボスが大事に抱えて深海のアトランティスに持っていってしまっている。追いかけるには大洋の過酷な深海環境と天照の二つが障壁として立ちはだかる。常識的に考えれば天照を排除して後顧の憂いを無くしてから追いかけるのが妥当な判断だ。
俺は天照だけではなく月夜見の動向も念力式盗聴盗撮術で見守っていたのだが、彼らが何をするつもりか理解した瞬間に流石に血の気が引いた。
それできるの? マジで? やめて?
いやよくよく考えてみれば確かに理論上は可能な気がするしそれを予想して対策しておかなかった俺や栞の落ち度なのかも知れないけど!
まさかの問題解決法の軸になるのは重力使い・浩然くんだった。
彼はかつて全長600mを超える巨大猫、黄虎の重力を軽く触れるだけで完璧に操ってみせた。
浩然くんは対象の重量や大きさに関係なく、触るだけで重力を操作できるのだ。
クリスとババァから天照についての情報を聞いた浩然くんは少し考え、海面に人差し指を触れた。
そのたった一触れが起こした、起こしてしまった変化はあまりに劇的で――――――
サンフランシスコ国際空港発-成田空港着AA334便の機長を務めるウィリー・ロビンス(52)はその日も一杯のカモミールティーを飲んでから搭乗し、順調に航路を進めていた。
「機長、航路の半分を過ぎました。機体に異常なしです。コーヒーでも?」
「ああ、いや結構」
隣に座る副操縦士のリラックスした言葉に、ウィリーは渋面を作って答えた。副操縦士は肩をすくめ、離陸時にはLサイズの紙コップになみなみと入っていたミルクたっぷりのコーヒーの残りを啜った。
搭乗前にカモミールティーを飲むのは新人時代からのウィリーの習慣で、今までただの一度も欠かした事がない。友人の勧めでなんとなく始めた習慣だったがいつの間にか欠かせないものになっていて、ちょっとしたジンクスもできていた。
いつもは甘いカモミールティーが苦い時には厄介事が起きる、というジンクスだ。
今まで苦いカモミールティーを呑んだ時に起きたハプニングは、離陸前の最終点検で不具合が見つかり4時間の出発延期を余儀なくされ、そのせいで娘の誕生日に遅れた事。
着陸体勢に入った途端にバードストライク(飛行機の機体に鳥が衝突する事故)を起こし、当時の気弱な副操縦士が悲鳴を上げ気絶してしまった事などだ。
他にも色々あった。苦味を感じても何もなかった日もあったのだが、ウィリーはジンクスを信じている。ジンクスというのはそういうものだ。
この日、ウィリーが飲んだカモミールティーは特別苦かった。思わず銘柄と賞味期限を確認してしまったほどだ。
これは何か起きるぞ、と気を引き締めて搭乗し操縦室に入ったのだが、今のところ何もおきていない。眼下、雲の切れ間から見える太平洋は青々とした美しさを湛えていて、副操縦士は感じが良い若手だし、特に機体トラブルの前兆もない。
そうして気を張っていたおかげだろう、ウィリーが異変に気付いたのは副操縦士よりも数秒早かった。
最初、ウィリーは見間違いかと思い窓ガラスを布巾で拭いた。だが見間違いではなかった。
偶然雲の無い快晴の空の下を飛んでいたため、その異常現象ははっきりと見えた。
「なあ、おい、見えるか? その、アレが?」
「はい? なんです……か……!?」
副操縦士は身を乗り出して窓の向こうの景色を見て絶句した。
「水が……おお神よ、なんてこった!」
それはこの世の終わりか、あるいは世界の始まりを思わせる神秘的で絶対的な光景だった。
ほんの少し前までは陽光を照り返し穏やかに凪いでいた海面が見る間に重力に逆らい浮き上がり、上空の一点に吸い寄せられ(いや、落下して?)、信じがたいほどに巨大な水球を形成していっている。その水球のそばには目の錯覚か人影のようなものが見えるようにも思える。
あまりの事に唖然とするウィリーが何もできないでいるうちに、見渡す限りの海水が全て上空に浮き上がってしまい、海底が剥き出しになった。海から水が抜き取られ、大地に変わっていた。
決して日の目を見る事などなかったはずの雄大な海底山脈、長々と横たわる大海溝。長い年月を経て降り積もった軟泥に、あれは難破船だろうか? 巨大な謎の建築物のようなものさえ白日の下に晒されている。
「管制塔に、いや、ホワイトハウスに連絡しろ」
ウィリーの声が震える。
間違いなく今までで最大の、そしてこれから決してこれを超える事件はないだろうという超特大の厄介事だ。
「太平洋の水が全て抜き取られたッ!!!」




