10話 逃走は敗北じゃない
父はいつも「逃げるな、戦え」と口癖のように言う。
受験勉強から逃げるな。学校から逃げるな。親から逃げるな。
俺はその口癖が大嫌いだった。どうして逃げちゃいけないんだ?
確かに中国では受験勉強で人生が決まる。でも受験勉強から逃げても終わりじゃない。海外に行ってもいい、田舎で農作業するのに学歴なんていらない、自分で起業すればむしろ社員の学歴を品定めする側だ。
学校から逃げたっていい。通信教育がある、学校の勉強の代わりに資格試験に挑んでもいい、旅をして見聞を広めるのもいい。
親から逃げたっていいだろう。というかそもそも息子が逃げたくなるような事をしてくる親は親失格だ。
その点、猫はいい。すぐ逃げる賢さがある。
普通の生き物は危なくなったらすぐ逃げる。危ないというのは危ないという事だから、危なくなっても逃げなかったら危なくて怪我をしたり死んだりする。怪我をすれば弱り、後々まで引きずる。死ねば死ぬ。
馬鹿なのは人間だけだ。人間だけが逃げればいいのに立ち向かうからボロボロになる。
俺は人間より猫のようでありたい。
俺はちゃんとそうやって考えて逃げているのに、父は俺が臆病で怠け者で不良の出来の悪い息子だから逃げているんだと決めつける。俺の言い分なんて一度も聞いてくれない。「逃げるな、戦え」。そればかりだ。
俺は頭がそんなに良くない。逃げずに戦って戦って必死に勉強しても、同級生の頭の良い奴らには勝てやしない。しかしそいつらと戦えと言う。
負けるのが分かり切っているから、もちろん俺は逃げる。当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。
……しかし悔しいけれど認めよう。
人生には何度か立ち向かわないといけない時がある。
あの日。父に叱られ殴られ捨て台詞を吐いて大雨の中家を飛び出したあの日。
俺は増水した川の濁流の中を流されていくダンボールを見つけた。そのちっぽけなダンボールの中で、雨音に掻き消されるほどのか細い鳴き声で必死に助けを求めていたのが黛訳だった。
最初、俺は黛訳を見捨てようとした。
黄土色の濁流の中には流木や大きなゴミも混ざっていて、ダンボールは今にも沈んでしまいそうだった。助けようとして俺まで溺れるなんてばかばかしい。俺は泳ぎが得意じゃない。可哀そうだけど見なかった事にするのが賢い。
そう自分に言い聞かせてその場を離れた。
でも結局、心の痛みに耐えられなかった。
あの猫は俺が助けないと死ぬ。俺が逃げたら死ぬ。
だから俺は傘を投げ捨て、頭を掻きむしって叫んだ。ずぶ濡れになりながら商店街を走りまわり、使えそうなものを探した。魚屋の店先にあったでかい発泡スチロールの箱をひっつかんで、俺は走った。
天よ、俺の蛮勇を笑えと泣き笑いしながら。
走って走って走って、俺は沈みそうなダンボールに追いついた。
三度躊躇したけれど、俺は大きく息を吸い込み捨て身で川に飛び込んだ。
川の流れは思っていたよりずっと激しく、まるで暴れ竜のようで、抱きかかえた浮きが無ければ絶対に溺れ死んでいただろう。
半死半生で黛訳と一緒に川岸に這い上がった時、俺はこんな事は二度とするものかと誓った。
――――今。
俺は再び選択を迫られていた。
黛訳と一緒に七条河市の今後を決める大事な猫集会に出たら、顔色の悪いおじさんが急に怪物になって暴れだした。
ワケが分からなかったが、ヤバいという事だけはすぐ分かった。パンチ一発でクレーターができているのを見れば馬鹿でも分かる。
だから俺は逃げた。危なかったら逃げるのは当然だ。
なのに黛訳と猫達は怪物と戦い始めた。
猫達にとっては逃げてはいけない相手だったのだ。
すぐに思い当たった。聞いた事がある。猫達の間で噂になっていた、猫界を荒らしている「黒い怪物」に違いない。
ガソリンスタンドのトラウマがフラッシュバックする。あの怪物とは比べ物にならない大きさだ。
足が震えてもつれる。
息が上手くできない。肺がひきつる。
ズボンが生暖かい。漏らした。
このまま逃げたい。
逃げ去ってしまいたい。
後ろを振り返りたくない。
怖い、死にたくない! 痛いのは嫌だ。
逃げて逃げて逃げて、全てを捨てて自分の部屋に閉じこもっていたい。
でも俺の相棒が戦っている。命賭けで戦っている。
愛すべき猫達が戦っている。人間よりずっと逃げ上手な猫が逃げずに戦っている。
自分だけ逃げるなんて耐えられない。
ああ、俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ!
俺は立ち止まり、頭を掻きむしって夜空に叫んだ。
天よ、俺の蛮勇を笑えと泣き笑いしながら。
相棒が戦う戦場に戻る前に一つだけ必要なものがある。取りに行く時間が惜しいが取りに行かないといけない。
しかし迷ったのは一瞬。必要なものは向こうからやってきた。
奇跡的なほどタイミングよく、すぐ横の隘路から大荷物を運んでババァが飛び出してきた。
ババァは俺の顔を見て全てを察したようだった。
いま正に必要だったものを親指でグイと指して、言った。
「間に合ったか。浩然、これを使え!」
そう。
俺は「逃げて、戦う」。
勝てない敵がいるのなら逃げればいい。そして必ず勝算を握りしめて戻るのだ。
とっくに巨大化限界時間が切れて素の体躯で戦いはじめた黄虎と飼い猫&鴉の混成軍団を苦労して重症を負わせないよう戦っていた俺は、通りの向こうから猛然と戻ってきた浩然くんを見てホッとした。
もしもの時のカバー役として待機していたババァが上手くやってくれたらしい。
猫達から狙いを浩然くんに変える。黒い巨人の腕を鞭のように振るい、黒い念力弾を撃ち出す。
浩然くんは銀色のバイクを見事に操り、加速しながら念力弾を次々と避けた。ウィリーをかけて跳び、ビルの壁面に着地しそのまま地面と水平に疾走した。
PSIドライブエンジンが唸りを上げる。ババァ謹製の改造バイクは満月を背景にビルの壁面から飛び、真横に猛スピードで落下する。
浩然くんの乾坤一擲の咆哮とエンジン音が一体になって轟く。
暴れる怪物の頭に流星の如く突き刺さる浩然くんとバイクを、全ての猫が呆気にとられ目で追った。
「お゛お゛!?」
黒い怪物アバターの頭が一撃で吹き飛び、俺はびっくりして声を上げてしまった。
驚いた。確かにそんなに強度の高い表皮にはしていないのだが、それでもとんでもない衝撃だった。
基礎訓練を地道に積み上げた浩然くんの加重倍率は現在10倍。体重60kg+バイク250kg=310kgの10倍だから3100kg=3.1トン。空高くからトラックが落ちてきたようなものだ。そりゃ爆散もするか。
怪物の頭部をぶち抜いてそのまま横に落下していく浩然くんは突然正常な重力を思い出し地面に直角に落ちた。着地と同時に鋭くドリフトターンしてもう一度エンジンを吹かそうとするが、ガタガタと異音を上げバイクは停止した。
焦って車体を足で蹴る浩然くんだが、もうちょっと大切に扱ってやって欲しい。それ、まだ完成度50%の試作マシンだから。
演出的にはもうちょっとボコボコにしてもらって倒された方が楽しいが、バイクも停止したようだし、浩然くんはとにかくにゃんこ達がそろそろ限界っぽいのでやられておく事にする。
う、うわーっ! 頭を吹き飛ばされたからやられたー! くそー、頭は弱点だからなー!
黒い巨人のアバターを崩壊させ、ホームレスおじさんモードになって地面にばったり倒れる。
黄虎が急いで駆け寄ってくるが、俺はまた体から滲みだした黒い泥に操られるようにガクガク立ち上がり、ワイヤーアクションめいた不自然な大ジャンプをして逃亡。ビルの谷間に消えた。
黄虎が真っ先に追い、一拍遅れて黛訳と浩然くんも追いかける。が、見失った。
三者三様、悔しがったり悲しんだりする様子をこっそり盗み見しながら思う。
なるほど。負けたのに逃げて決着を延期する系の敵ボスの気持ちってこんな感じなのか。
割としてやったり感があって気持ちいい。ハハハ詰めが甘いぞ馬鹿めが! って叫びたくなる。
後はおっとり刀で到着したババァが上手く収拾をつけてくれるだろう。
また会おう、猫達よ!
そして次に会う時に決着をつけよう浩然くん!
精々牙を研いでおくんだな!
フハハハハハハハハハハ!!!




