03話 第一のにゃん
ババァは浩然くんの手を引き寝静まった夜の街を駆けた。路地裏に積まれたビールケースの間をすり抜け、シャッターの降りた魚臭い市場を走り抜ける。
身体能力が人間を超えているババァはどれだけ走っても息切れ一つしない。親分の血液製剤を打った浩然くんも数分はそれにぴったりついて走ったが、効果切れと共に失速していく。
浩然君の足が鈍り始めたのを見て取ったババァは街はずれで速度を緩め、深夜営業をしている中華料理屋に入った。
店の厨房にいた店主と三人の客の注目を受け、浩然くんはたじろいだ。
店主の頬に大きな火傷の跡があり、三人の客もヒゲを伸ばし放題にして腕に刺青を入れたお世辞にも愛想が良いとはいえない様相だった。
『人払いを』
しかしババァがサングラスを一瞬外し顔を見せて言うと、全員口を噤み厳粛な表情を作った。
客は拱手(胸の前で片手の握り拳をもう一方の手で包む礼)をして速やかに退店し、店主は表に閉店の看板を出し入口の鍵をかける。
浩然くんは落ち着き払ってテーブル席に着く銀髪幼女を驚嘆の目で見た。裏社会の臭い漂う男達を鶴の一声で従える幼気な幼女は底知れない存在に見えたに違いない。
この店は月守組の親戚が営業していて、色々と融通が利く。月守組の系列組織にとって月夜見は畏怖と敬意の象徴だ。顔と名前も知られていて、余程の無茶でない限り月夜見の意向が優先される。
浩然くんはババァに促されて恐る恐るテーブルの対面に座り、躊躇いがちに聞いた。
『お前……いや、あなたは一体?』
『ワシの名前はロナリア・リナリア・ババァニャン。気軽にババァと呼んでくれると嬉しい。ああ、そう畏まらずともよい』
ババァは店主から茶を受け取り、気楽そうに言った。店主も拱手して奥に下がり、そのまま階段を上がって二階の居住スペースに行く。これで店内にいるのはテーブル席に座るババァと浩然くん、ババァのポーチで朦朧としている黛訳、そしてカウンターの裏で体育座りして気配を殺し様子を伺っている俺だけだ。
ババァに紹介された何も事情を知らない新人アルバイターという体でこの店に潜入しているから、奥に引っ込む店長には馬鹿な変人を見る目で見られたがそこはまあ。
別に念力式千里眼で遠方からウォッチングしてもいいのだが、やっぱり現場で……ライブ感を……こう……ね。へへっ。
『さて、夜は長いようで短い。君が巻き込まれている事態について説明したい。よいかな』
『もしかしてインビジブル・タイタンに関係してるのか?』
浩然くんが落ち着きなくお茶のカップを指でつつきながら何事か尋ねる。中国語は分からないが『インビジブル・タイタン』だけは聞き取れた。人智を超えた異常事態といえばインビジブル・タイタン、というのは世間一般に広がる一番ポピュラーな発想だ。
ババァは微笑んだ。
『察しが良いのう。半分正解、といったところか。ワシは超能力秘密結社『月夜見』に所属するエージェントじゃ。月夜見は裏社会を超能力でもって平和的に統制するべく動いておる。インビジブル・タイタンは月夜見とは別の超能力結社に属する』
『別の……』
『うむ。世に隠れ潜む超能力者の多くは団結しておる。そしてそういった超能力秘密結社は一つではない』
『な、なるほど』
浩然くんは何度も頷き、納得しているようだ。
うむ! 何を言っているのか全然分かんねぇ! 手元のスマホで中国語-日本語の自動翻訳ソフトを起動させているのだが、カウンターが遮蔽になっているせいでマイクが音を拾ってくれず全く機能していない。迂闊!
俺に分かる中国語はニーハオとシェイシェイだけだ。まるで会話についていけない。
『問題はなぜ超能力者は団結するのか、じゃ。考えた事があるじゃろう? 念力が使えたらああしよう、テレポーテーションが使えたらああしよう、などと。超能力が使えればなんでもできる、退屈な社会の縛りから解き放たれる、自由に羽ばたけると?』
『……読心能力か?』
『ふ。いや、ワシは年頃の青少年が一度は抱く普遍的な欲求を並べ立てたに過ぎんよ。月夜見には読心紛いの能力を使う者もおるが、それはそれとして。超能力者が団結する理由は単純明快、団結しなければ生き残れぬからじゃ。常人を凌ぐ不可思議のチカラを持つ超能力者であっても世界の闇からは逃れられぬ。適切な訓練、そして団結がなければ。先程見たじゃろう、アレこそが闇に潜み人を襲う世界の闇じゃ。ヤツらは超能力者を特に狙って喰らい力を蓄える習性を持つ。
そして。この話をおぬしにしたのは他でもない。ワシが世界の闇に襲われるおぬしを見つけ助けに入ったのは、おぬしが超能――――』
「……に!? フーッ! ニ゛ャー!」
声を張って高らかに決め台詞を言おうとしたババァに腰のポーチから待ったがかかった。
朦朧としていた黛訳が覚醒し、大暴れしてポーチから飛び出しテーブルの上に乗る。黛訳は混乱した様子で忙しなく周りを見回し、一瞬カウンター裏の俺の方を見たようだったが、手近な異邦人を警戒する事にしたらしい。四足で尻を上げて尻尾を逆立て低く伏せ、ババァに向かって牙を剥く。
「んむ? どうした。にゃーご、ごぎゃごぐぐぐ、にゃーん」
「!?」
急に猫語をネイティブに話し始めたババァに浩然くんは目を剥いた。
おやおや、浩然くんは猫語履修者を見るのは初めてかな? 21世紀のグローバルな人材にはね、多言語能力が求められるんですよ。
ババァは持ち前の言語学習能力を発揮して映画をにゃんにゃんバージョンに吹き替えできるぐらい猫語が堪能だ。人間のように見えても人間とは舌の構造も違えば可聴域も違う。猫の言葉を正確に聞き取り、発音できる。近所の猫集会に出席して覚えたとか言っていた。
黛訳は金色の目を丸くして驚いた。
「に? にゃ、にゃごご、くるるるる……にゃーん」
「にゃ~お、んなおぉう。にゃー」
「にー」
にゃんにゃん話し始めた女子組から男子は完全に置いてけぼりを喰らった。
中国語だろうが猫語だろうがどうせ分からん。分からんに分からんを掛けても分からんから分からんぞ。
幼女と猫がにゃーにゃー鳴き合っているのはファンシーではあるが、俺にとっては慣れた光景で特に感慨はない。前に栞がババァに猫耳と猫尻尾を装着させて猫と話させている動画を死ぬほど送り付けてきた時期があったからな。
黛訳とババァはしばらくにゃんにゃんしていたが、やがて一区切りがついたらしい。ババァが難しい顔をして席を立つ。腰を浮かした浩然くんを手で制し、浩然くんと黛訳に見えない角度で俺に手招きして裏口から外に出た。なんだどうした。
俺も匍匐前進で床を這いずり見つからないように後に続く。
俺が通り抜けたタイミングでババァは扉を閉め、口に手を当て高揚を隠しきれないヒソヒソ声で言った。
「彼女と話して考えが変わった。思うに、浩然より黛訳の方が月夜見支部長として適任だにゃん」
「正気かにゃん!?」