熱の孤島
昔から、不思議な子だねって、言われていた。奇妙、不気味、恐ろしい、奇跡……人によって言い方はいろいろだったけど、とにかく私は他の人とは明らかに違うらしい。小学校高学年――ちょうど私の胸が大きくなってきたころから、それは顕著に表れるようになった。一番最初にお母さんがそれに気付いた。
「熱があるじゃないの」
体温計には、三十八度七分、と浮かんでいた。私は首を傾げた、別に平気だよ、と言ってもお母さんは聞いてくれなかった。
「今日は学校、休みなさい」
その日から三日くらい、学校を休んだ。言われたとおりに布団の中でゆっくりしていた。本を読んだり、宿題をしたり、寝たりした。三日が明けてまた熱を測っても、下がる気配がなかった。また私は学校を休んだ。
「熱、下がらないの? 大丈夫?」
家にお見舞いに来てくれたクラスメイトが不安そうに言うけれど、ぜんぜん私は元気だった。咳も出ないし、食欲だってある。私が一番不満なのだった。突然、学校に行くな、と家に閉じ込められている。
そうやって気付けば二週間が過ぎた。あんまり熱が下がらないので、私は病院に引き摺られていった。たくさん検査をしてもらったけれど、
「高熱以外には、目立った症状は見受けられませんね……」
若い女のお医者さんも首を傾げて、そう両親に告げた。
「脱水症状からくる高熱かもしれません。これから寒くなりますから、ちゃんと水分をとらせてあげてください」
そう言って薬を貰う事も無く、私は突き返された。それからは毎日出来るだけたくさん水を飲むように言われて、言われたとおりに飲んだ。もちろん、熱は下がらなかった。小さいころにインフルエンザにかかったときも熱を出したことがあるけれど、その時とは違う。ちゃんとしっかり立てるし、吐き気もしない。ただ熱が高いだけなのだ。
早く学校に行きたい、となんども言った。私はなんども病院に連れていかれた。新幹線に乗って遠くの大きな病院に連れていかれて、大きな機械をくぐったりして、詳しく体を調べられたこともあった。もちろん、結果は変わらなかった。
とうとう両親は、あまりに元気な私の様子を察したらしい。「体温の高い子」という肩書きを得た私は、晴れて自宅から学校に行くことがかなった。最初に学校を休んでから、三か月以上経っていた。
私は中学生になった。
あれから数年たったけど、もちろん、あがったままの体温は下がらない。クラスメイトや私の事を知らない人は、だいたい私を避けるようになった。気味が悪いとか、風邪をうつされるとか、高熱の人間は危ないということを知っているからだ。
もちろん、私も最初のうちは否定して回った。小学校のころからずっとそうしていたけれど、思春期を迎えてすっかりそれも飽きてしまった。保健室で体温を測ったとき、三十九度一部になっていた。普通なら意識がもうろうとしてくるほどの熱だ。ということは知っているけれど、私は至って健常だった。
「不思議ねぇ」
保健室の先生がしみじみと呟いた。
「体育の授業とかは、念のために出ないでね」
そう念押しされたら生徒の私は従うしかなくて、だからすっかり運動なんてご無沙汰だ。本当に体が弱くなってしまいそうだ。家でマラソンか縄とびかをしようとしても、両親に見咎められて面倒なことになる。私はすっかり体を動かすことが出来なくなっていた。
どこに遊びに行くのにも、それは同じだ。人混みは避けるべき、海なんてもってのほか。ついこの間、私を半年後――三年の夏にある修学旅行に連れていくかで面談を敢行された。結果は推して知るべし、体内にウイルスを保菌しやすいらしい私は、民主主義的に集団には溶け込めなかった。
十二月の半ば、冬休みも近いころ、私は首にマフラーを巻いて学校を終えて放課後を歩き出した。既に雪が積もっていて、何人かの生徒の足跡が続いている体をふるわせた。人より体温が高い私は、他人より余計に寒さを感じやすいらしくて、ブルブル体をふるわせながら白い息を吐きつつ帰ることが当たり前だった。みんなが平気な顔をしていても、私にとってはひどく寒かった。みんなが鈍感なのか、私が大袈裟なのか、確かめる方法はない。
いつも通りの帰り道を、いつも通りひとりで。私の吐く息と、進む道は。ずうっと、ずうっと、真っ白だった。こんこんと降る雪は私の手のひらに触れると、すぐに溶けて水になってしまう。
通学路の途中、少し開けた場所にある寂れた公園に、私はクラスメイトの影を見つけた。私もほとんど話したことが無いような、長い黒髪で口数の少ない女子生徒だ。
地面を白一色に塗りたくられた中で、彼女の着た黒いセーラー服、赤いマフラー、まっすぐ伸びたみどりの髪の毛。ぜんぶがぽっかりと切り取られたように浮かんで見えた。彼女はブランコに座って、物憂げに顔を伏せている。
彼女は私に気付いたようにこちらを見ると、笑って私に手招きした。
「彼氏と別れちゃった」
ふいに俗っぽく、そう切り出す。私は隣のブランコに座って、話を聞いてやることにした。
「私、ずっと友達がいなくて。彼は私の事が大好きだって言ってたけど、きっとそうやって私のことをからかってたんじゃないかなって、思えてきちゃった」
つらそうに言っている割に、彼女は晴れやかな笑みを浮かべている。不思議だった。
「今になって思うと、別れて正解だったかも。あはは」
力なくわらって、彼女は空を仰いだ。顔にいくつも雪の粒が降りかかって、涙みたいに溶けた。私は黙っていたけれど、彼女がそれ以上何も言わないことにちょっとだけ、ちょっとだけ顔が引きつるような気がした。
「嬉しいの? 悲しいの? どっちなの」
びっくりした風に彼女がこちらを向いて目を見開くので、私は心臓を掴まれたような気分になった。彼女の顔から、笑顔が消える。やがて、彼女はぽろぽろと泣き出してしまった。本当に、目から涙を流して。
「あはは……ご、ごめんね、なんか」
彼女は泣いていた。そして、笑っていた。
私がびっくりする番だった。泣きながら笑う人なんて、初めて見たからびっくりした。彼女は涙をぽろぽろこぼして、指で拭いながら「ありがと、ありがと」と、誰に対してかお礼を言い続けた。そんな同い年の女の子が、――なんだか、とても、きれいに見えたから。ずっと孤独だった私は、ちょっと人よりも熱いせいで人からさけられていた私は、まるで熱帯の孤島。そんな私の横で、今、なによりきれいな人が、こんなにきれいな姿をさらしている。
雪が、私の手にかかる。私が思わず伸ばした手が、彼女の頬の涙をぬぐった。彼女はこちらに向かって目を大きく見開くことも、また笑うことも、もっと涙を流すことも無かった。ただ、私の手をそっと、細くてつめたい指で握り返しながら、
「あったかいね」
と、言ってくれた。
彼女と話をしたのは、たったそれきりだった。
私たちは同じ教室で同じ授業の時間を共有しながら、ただ、同じように時間を過ごしていた。高校に進学するときも、彼女と私は別々の学校に進んだらしい。いったい彼女がどうしていたか、私に知る由はなかった。
私はいつものように、たったひとり、他人に避けられる熱源として、高校三年間を漫然と過ごしていた。クラスメイトは私のことを気味悪がったり、体育の授業に出られなかったり、修学旅行にもやっぱりいけなかったりした。体温計はいつも三十九度くらいを指していて、けれど私は、へっちゃらだった。
あったかいね。そう言ってくれた人がいるから、この身体を認めてくれる人がいたから。たったそれだけで私は、前向きになれた。
「どうしてそんなに、身体が熱いの?」
ある時、無邪気にクラスメイトにそう尋ねられたことがあった。私はわからない、と答えるほかなかったけれど、そのクラスメイトの手を握ってやると彼女は納得したように笑ってうなずいた。
大学受験に精を出していた高校三年生の冬の事。あの子と街中でばったりと再会した。ちょうど、あの時のように雪の降る白い日だった。彼女は長い髪を切っていたから一瞬だれか分からなかったけれど、その顔立ち、その白い肌、間違いなく彼女の物だった。
「あの時は、ありがとう」
また、彼女はそういったのだ。髪を短くすると、なんだか子どもっぽくてずいぶん印象が違って見えた。
「あなたの言葉で、私、自分のことを少し分かった気がするよ」
私はなにも、そう言おうとしても、彼女の瞳は澄んでいた。だから何も言わなかった。
彼女とは十分ほど、そうして立ち話をした。否、正確には私が聞いていたのだ。私には話すようなことなんて、なかったから。最後に彼女はもう行くね、と笑って、その前に私の手を取って両手でいたわるように包んだ。
「やっぱり、あったかいね」
くすぐったそうに、そう、はにかんで見せた。
私はあの時と同じように、彼女の頬に手を持って行って、涙をぬぐうようにして触れた。彼女は瞳を潤ませていたけれど、今度は涙を流すことはなかった。
「また、会おうね。出来れば、こんな日に」
そう言って彼女は、背を向けて行ってしまった。
私はいつも、変わらない。
この微熱を、あたたかいと、そう言ってくれる人がいる。
自分のことが少し、分かった気がする――
「私だって、そうだよ」
自分の手に、呟いた。
「また、会おう」
できれば――
空を見上げた。こんな、こんこんと、雪の降る白の日に。