計算通り
彼はいつも同じ時間に、学生への講義の為に研究棟を出る。
それはまるで計算され尽くしたかのような正確さだ。
それもそのはず。彼は気鋭の数学者。
己の行動まで数字で計算したかのように同じ毎日を彼は過ごす。学者らしい真面目さだ。
私はそんな彼を羨望の眼差しで毎日眺めた。毎日だ。
何せ彼を見つけるのには困らない。比喩なしで測ったかのように、彼の毎日は同じだからだ。勿論曜日による差異はある。むしろ同じ曜日なら同じ一日を彼は過ごす。
素敵だと同じ学者仲間の私は思ってしまう。
理論的に。計算通りに。理想的な一日を彼は過ごす。
偶然なんて忍び込む余地なんてない。運命とかそんな非科学的なことは信じない。奇跡なんて頭の片隅にすら上がらない。
確率の高い方だけが、その確率の通りに彼の身には起こるのだ。
私はそんな彼にどんどん惹かれていく。
それは最初は同じ学者として尊敬の念だったと思う。
だけど同じ学者としてのそんな敬意は、私の個人的な愛情にあっという間に育っていってしまった。
私は偶然を装って、彼が現れる先々に回り込んだ。研究室で。食堂で。講義の合間に。発表の時間に。私は彼の目にとまるように先回りする。
あら、偶然ですね――
私は初めそう言ったと思う。
「偶然なんてありませんよ」
彼は素っ気なく答えた。覚えている。ひどくがっかりしたのを覚えている。
最近よく会いますね。運命かもしれませんね――
何度か彼に偶然あった振りをして、いつかそう言ったと思う。
「確率的に言って、あり得ることだと思います」
彼はやはり素っ気ない。私はそれでもめげなかった。
奇跡を感じます――
思い切ってそう切り出した日もあった。
「そんなものはありません」
彼は学者らしい意見で私の思いを切り捨てた。
流石に私も相手にされていないことに気がつき始めた。
だがもうどうしようもない。この思いはつのるばかり。
諦めなければなならないのは分かっている。だがこればかりは計算通りにはいかない。
科学的に考えられない。数字は答えてくれない。理論は正解を導いてくれない。計算通りなんてできやしない。
理不尽な思いに苛まされて私は一日を過ごす。
ああ、彼は今日も同じ一日を過ごしている。その隣に私がいないという一日をだ。
彼が独身なのは知っている。この先ずっと彼はこの同じ一日を過ごすのだろうか。
いや違う。彼だって永遠に同じ一日を過ごす訳ではないだろう。人生の節目節目に変化があり、その都度新しい同じ一日を始めていたはずだ。例えば今の学者生活を始めた時のように。
それなら私がいつも隣にいる一日が始まっても、何も理論的におかしいはずがない。
だが彼はどんなに私が言いよっても素っ気ない。
偶然も。運命も。奇跡も。私には起こらないし、彼には通じない。
だから私は計算尽くで彼と一つになることにした。
彼はいつも同じ時間に、学生への講義の為に研究棟を出る。
そう――
だからこの時間にこのタイミングで飛び降りれば、私は研究棟の上から彼の下へと飛び込むことができる。
偶然が、運命を呼び込み、奇跡を起こすのだ。
私達は死して一つになれるのだ。
時間だ。
私は躊躇いなく研究棟から飛び降りた。私は彼を信じていた。その正確さ故に愛した彼の、その計算通りの日常を信じていた。
ほらね――
彼はいつもの時間に研究棟から出てきた。私は一瞬の視界でその愛しい姿を捉える。
計算通り――
偶然も。運命も。奇跡も。私の味方はしなかった。
だけど私にはこの方がお似合い。これで少しでも彼に近づいて、最後には一緒になれるのだもの。計算通りの方が彼には相応しいのだもの。
だけど――
偶然も。運命も。奇跡も。やっぱり私の味方はしなかった。
彼は偶然目の前を通った女性に、運命を感じたかのように目を奪われ、奇跡的に立ち止まったのだ。
私は計算通りにはいかず、そんな彼の鼻先をかすめて一人地面に叩きつけられた。