第一話 迷い音の棲む部屋
第一章:境界の違和感
その夜、東京はひどい雨でした。
春先だというのに、冬の名残のような冷たい雨で、傘を差していても肩先がじっとりと濡れる、そんな気味の悪い降り方でした。
私は、その日どうしても外せない用事があり、都内のマンションを訪ねていました。場所は伏せさせていただきますが、決して古くはない、むしろ新しい部類の建物です。けれども、エントランスに足を踏み入れた瞬間、私ははっきりと感じました。
――ああ、この建物は“持っている”。
霊感というものは、派手なものではありません。沖縄の言葉で言えば、「サーダカー(霊感が強い)」者の肌を撫でる、日常のほんのわずかな違和感。誰もいないはずなのに空気が重い、あるいは理由もなく胸がざわつくといった感覚です。
依頼人は三十代の女性、佐藤さん(仮名)。彼女はひどくやつれ、目の下に濃い影を落としていました。
「先生……ここ、何かいますよね」
部屋に通されるなり、彼女はそう言いました。
私はすぐには答えませんでした。部屋は整い、観葉植物もあり、生活の気配は穏やかです。それなのに、妙に“静かすぎる”。人の暮らしの地層が、途中で断ち切られているような不自然さがありました。
「いつ頃からですか」
「引っ越して二週間ほどです。最初は、夜中に“誰かが歩く音”がするだけでした。でも……その音、必ず“ここ”で止まるんです」
彼女が指差したのは、リビングと廊下の境目でした。私はその場所に立ち、目を閉じました。
――ここで、誰かが“引き返している”。
それはただの足音ではありません。意思を持って、何度も同じ場所まで来て、そして戻っていく。
「ドアは開けないでくださいね」
私の言葉に、彼女は唇を震わせました。「え……開けたこと、あります」。
その瞬間、空気が揺れました。境界を開けてしまったことで、距離が一気に縮まったのです。
「男の声で……“まだ、帰れない”って聞こえるんです」
部屋の温度が確実に一度、下がりました。私は確信しました。この部屋にいるのは一人ではない。足音の主と、声の主は別。重なってしまった場所でよく起こる、深刻な霊障でした。
第二章:御願の儀式
「今夜は、少し長くなりますよ」
廊下の奥から、一歩、また一歩と湿った足音が近づいてきます。私は持参した木製の供物箱、ビンシーをテーブルに据えました。都会のコンクリートの壁の向こうに、この土地がかつて持っていた古い「霊の通り道」が透けて見えます。
「佐藤さん、私の後ろへ。決して声を出してはいけません」
私はヒラウコー(平線香)を折り、火を灯しました。立ち昇る煙が部屋の角へ流れていきます。次に酒を口に含み、霧状に吹きかける「酒の清め」を行いました。
「サリ、ウートートー。これより御願を始めさせていただきます」
私の口から、波のような抑揚のグイス(祝詞)が流れ出しました。
「東の神、西の神、この屋敷を守護する神々よ。今日の良き日に、この場所の筋道を通しに来ました。迷える魂を正しき場所へ戻したまえ……」
廊下の足音が、苛立ったようにドンドンと床を叩き始めました。私は構わず、迷い込んだ霊を正しい場所へ送るヌジファー(抜き払)の儀式へと移ります。
「『まだ帰れない』と言ったのは、あなたですね? 道はもう、ここにはありません。ヒラウコーの煙と共に、あなたの本来の門へお戻りなさい」
煙を廊下へ扇ぎ入れると、足音がピタリと止まりました。静寂が戻った――そう思った瞬間でした。
「クスクス……」
今度は佐藤さんのすぐ背後から、得体の知れない笑い声が響きました。男の霊が作った境界の歪みに乗じて、外から入り込んだ不浄な存在。それが佐藤さんのマブイ(魂)を狙っています。
「佐藤さん、動かないで!」
彼女の顔は土色になり、魂が抜け落ちる寸前の「マブイムヤー」の状態でした。私は激しく数珠を鳴らし、米と塩を彼女の周囲に撒きました。
「サリ、神の加護を! この者のマブイを離すな!」
部屋中の空気が渦を巻いて震え、バチン!と窓ガラスが鳴った刹那、重苦しい気配が霧散しました。
第三章:魂込め(マブイグミ)
雨は止み、窓の外には白々とした夜明けが差し込んでいました。佐藤さんはその場に崩れ落ち、震えながら息を吐きました。
「先生……今、何かが外へ出ていきました」
「ええ。迷っていた方は元の道へ。あなたを狙っていたものは、屋敷の神様が追い出してくれましたよ」
仕上げに、私は小さな石を彼女の胸元に当て、優しく叩きました。マブイグミ(魂込め)です。
「マブイヤ、マブイヤ、ウティミティ、クミティ(魂よ、しっかり身体に収まりなさい)」
三度繰り返すと、彼女の瞳にようやく生気が宿りました。
「もう大丈夫。明日は屋敷の四隅に盛り塩をして、土地の神様に感謝を捧げなさい」
ビンシーを片付け、外に出ると、濡れたアスファルトが朝日を反射して輝いていました。かつての古い道も、現代のマンションも、等しく光に包まれていきます。私の肩を濡らしていた冷たい雨の重みは、もうどこにもありませんでした。




