帰還
一年ぶりに、ここへ戻ってきた。
春の暖かな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、王立学園へと足を向ける。
王立学園の華やかな校舎が見えてくると、ここに通っていた日々が、ひどく遠い昔のことのように思えた。
白い制服を着た学生たちが、思い思いに談笑しながら校門へ向かって歩いていく。
その間を抜けていくと、時折、視線を感じた。
──黒い制服のせいだろう。
あるいは、左目の傷と眼帯のせいかもしれない。
こちらもすれ違う学生たちを眺めながら歩くと、やはり貴族というのは、それなりの雰囲気をまとっているものだと感心させられる。
教室に入り、自分の席に腰を下ろすと、見知った顔の男子学生が声をかけてきた。
「久しいな、レオ。その様子だと、それなりに苦労したようだな」
「ああ、久しぶりだな、グレン。まあ、それなりにな」
そう返すと、グレンはどこか興奮したように身を乗り出してきた。
「父上から聞いたぞ。戦場では、ずいぶんと活躍したそうじゃないか」
「グレンの父上にそう言ってもらえるなら、光栄だよ。あっちでは本当にお世話になった」
「私も早く戦場に出て、武勲を立てたいものだ。レオが羨ましい」
「はは、急ぐことはないさ。……いずれ、嫌でもそうなる」
口調はできるだけ気さくに保ちながらも、内心は決して穏やかではなかった。
羨ましい、か。
一年前の自分なら、きっと同じことを思っていたのだろう。
だが今は、あの光景を知ってしまった自分がいる。
周囲と違う制服を着ているせいもあってか、いっそう強く、周りとのあいだに疎外感を覚えた。
この黒い制服は、王立学園に籍を置きながらも、すでに戦地へ派遣された者であることを示すためのものだ。
本来、王立学園に通う貴族の子息が戦場に立つことはない。
だが、家の当主が戦場で命を落とし、その当主が生前に「当主の座を息子に引き継ぐ」とした正式な文書を残していた場合、その子息は学園を休学し、家督を継ぐ者として戦場に向かわされる。
戦争が在学期間中に終わった場合、その者は王立学園に復学することになっている。
だから、今こうして教室に戻ってきた黒制服の生徒は皆、「学生」であると同時に、すでに一族の当主でもあるわけだ。
黒い制服が定められた理由は簡単だ。
彼らは家の当主としての立場をすでに持っており、もし他の生徒と揉め事を起こせば、それはただの学生同士の喧嘩では済まず、貴族同士の争いに発展しかねない。
だからこそ、白い制服の生徒たちは本能的に悟っている。
──黒い制服の学生と接するときは、余計なトラブルを避けるよう、距離を測りながら接するのが得策だと。
今日、最初の授業が始まり、ぼんやりと黒板を眺めていると、ふと気づいた。
――一年前よりも、内容が頭にすんなり入ってくる。
科目は数学だ。
戦地に行って、嫌というほど思い知らされた分野でもある。
なるほど、これは──
火球を敵に命中させるための角度を算出するとき、軍の術師に叩き込まれた計算そのものだ。
いくつかの授業が終わり、昼休みになると、教室の扉のほうから声が飛んできた。
「レオ。一緒に食べない?」
少し声が上ずってはいるが、どこか気さくで、柔らかな響きだ。
振り向くと、そこには女生徒が立っていた。
「カレン。ありがとう。一緒に食べようか」
そう答えて、二人で食堂へ向かう。
大きな半円形の窓のそばにある丸いテーブルに腰を下ろすと、ちょうど陽光が差し込んできて、心地よい明るさに包まれた。
席につくと、給仕の者が手際よく二人分の食事を運んでくる。
食事を食べ始めると、カレンのほうから口を開いた。
「雰囲気は普通のようね。安心したわ。昨日、久しぶりに会ったときは、全身から殺気が立ってるみたいだったから」
私は、思わず少し笑いながら答える。
「そう? それなら良かった。でも、昨日そんなにひどかったかな」
「それはもう。いろいろと……感じたわよ」
「そうか。ただ、今の私を見て、カレンが“おかしくはない”って思えるなら、それで十分だよ」
カレンは昨日の私の様子から、何か強く感じるものがあったのだろう。
確かに、久しぶりに会ったとき、彼女の顔には、憐れみとも、恐れともつかない色が浮かんでいた。
少し間をおいて、私は言葉を続ける。
「見た目も、他の生徒とはだいぶ違うからな。……カレンは大丈夫かい? こんなに目立つ婚約者で」
そう言って、左目の眼帯を指先でトン、と軽く叩きながら冗談めかして笑う。
「何というか、今からでも婚約破棄も遅くはないぞ」
殺し合いのただ中にいた身として、私はカレンの父上に、何度か手紙を送っている。
「娘を戦場帰りの男に縛りつける必要はない」、
「婚約を解消してほしい」と。
だが、返ってくるのは、最近の近況を綴ったカレンからの手紙だけだった。
彼女は微笑みながら、はっきりと言った。
「無事に帰ってきたし、その制服は、ある意味では名誉な証よ。これからも、私があなたの婚約者であることは変わらないわ」
その言葉には、揺るぎない意志が込められていた。
そして、その強さに触れて、私のほうこそ少し救われた気がした。
「……そうか。ありがとう」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
「……そうか。ありがとう」
口にした途端、胸の奥に張りついていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
カレンは「ふふ」と小さく笑って、カップを指先でくるりと回す。
「むしろ心配なのは、別のところよ」
「別のところ?」
首を傾げると、カレンは少しだけ声を落として続けた。
「最近ね、学園では“別の”婚約者問題が、いろいろと噂になっているの。……王太子殿下の」
「ああ……殿下の、か」
王族の話題となれば、自然と背筋が伸びる。
カレンは周囲を一瞥してから、言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。
「殿下ご本人も、殿下の婚約者であるリリアナ様も、そこは誤解しちゃいけないわ。本当にまっとうで、落ち着いてらっしゃるの。
でもね――最近、男爵家の令嬢が一人、殿下の周りをずいぶん自由に飛び回っていて」
「……ああ、なんとなく聞いたことがある。とびきりの美人で、物怖じしない娘だとか」
「そう、その子。エミリア嬢っていうの。容姿だけなら、上級貴族の令嬢にも引けを取らないくらい綺麗よ。
でも、言動がちょっと奔放で……殿下に気安く腕を絡めたり、リリアナ様の前でも遠慮がないの。本人に悪気はあまりないんでしょうけど」
カレンは、困ったような、でも少しあきれたような表情を浮かべる。
「殿下としては、あくまで“困った子”くらいの認識みたいで、恋愛感情なんて全然なさそうよ。
でも、王太子が下位貴族の令嬢をあまり邪険にもできないでしょ? 家格の差がありすぎるから、むしろこちらが大人気ないって話にもなりかねないし……」
「それで、周りだけが勝手に騒いでいる、というわけか」
「ええ。『リリアナ様が可哀想』とか、『殿下が心変わりなさったのでは』とか。
当のお二人は、あまり気にしていないように見えるのにね。リリアナ様なんて、『殿下があの程度でふらつく方ではないわ』って、余裕の笑みよ」
「……強いな」
素直な感想が口をついて出た。
戦場で刃を前にしても微笑んでいた兵士を何人か知っているが、その類いの強さとはまた別のものだろう。
学園は平和なはずなのに、ここにも別種の火種がある。
そんなことを考えていると、ふとカレンの視線が私の背後へと向いた。
「――あら、本当に噂をすれば、ね」
カレンの声につられて振り返ると、食堂の入り口付近が、さざ波のようにざわめいていた。
王家の紋章を刺繍した深い青の制服――王太子殿下が、ゆったりとした歩調でこちらへ向かってくる。
その隣には、柔らかな金髪をきちんと結い上げたリリアナ嬢。
背筋の通った立ち姿だけで、彼女が育ってきた環境と気品がうかがえた。
そして、その少し後ろを、軽やかな足取りでついてくる少女。
濃い栗色の髪をふわりと巻き、白いリボンを揺らすその姿は、なるほど一目で視線をさらっていく。
――あれが、エミリア嬢か。
「さっき話した三人よ」と、カレンが小さく囁く。
食堂の空気が、自然と道を開けるように変わっていく。
王族とその婚約者、それに噂の令嬢。
その三人は、数ある空席の中から、なぜかまっすぐこちらのテーブルへと進んできた。
「……こっちに、来るな」
思わずそんな独り言が漏れる。
カレンはくすりと笑った。
「視線をそらしたら、かえって失礼よ、レオ」
やがて、目の前で足音が止まった。
「久しいな」
静かながらもよく通る声が、真上から降ってくる。
顔を上げると、王太子殿下と、正面から視線がぶつかった。
「黒の制服……よくぞ戻った」
殿下は私の左目の眼帯に一瞬だけ視線をやり、それから真っ直ぐにこちらを見据える。
「戦場での働き、父上から何度も聞いている。
よくぞ我が国の盾となり、そして、こうして帰還してくれた。――労をねぎらう」
食堂のざわめきが、さらに一段階、静まる。
黒制服の生徒に、王太子自らがねぎらいの言葉をかける。
それがどういう意味を持つのか、周囲の貴族たちは痛いほどよく理解しているのだろう。
私は慌てて席を立ち、軍で教え込まれた礼を自然に取っていた。
「過分なお言葉、恐れ入ります。
王家と、この国のために働けたこと、身に余る光栄に存じます」
口は勝手に動く。
けれど、ここが戦場ではないことを思い出して、ほんのわずかに動きを抑えた。
――もっと深く頭を垂れそうになるのを、ぎりぎりで堪える。
ここで膝をつくのは、最前線の砦ではなく、王立学園の食堂だ。
殿下は満足そうにうなずき、その隣でリリアナ嬢も穏やかな微笑みを向けてくる。
「カレン嬢も、ご無事で何よりです。殿方を、無事に返していただいて」
「恐れ入ります、リリアナ様」
カレンが優雅に会釈を返した、そのときだ。
「まあ!」
一歩、軽い足取りで前に出たのは、エミリア嬢だった。
ぱっとこちらに花が向くみたいに、食堂の視線が集まる。
「あなたが、噂の“黒狼様”なのね? 戦場帰りの当主様なんて、素敵だわ」
……黒狼。
その二文字が、耳に焼きつく。
手にこびりついた血の色と、夜明け前の遠吠えのような怒号が、一瞬にして蘇る。
仲間が半ば面白がって呼び始めた渾名。
敵兵たちが、恐怖と憎しみを込めて吐き捨てた名。
それが今、陽の光が差し込む学園の食堂で、
ひどく軽やかな声音と共に口にされている。
指先が、無意識に腰のあたりを探った。
そこに剣はない。代わりに、皿とフォークがある。
当たり前のことなのに、それがやけに噛み合わない感覚だった。
エミリア嬢は、興味津々といった様子で、ぐっと距離を詰めてくる。
「その眼帯も、戦場での名誉の傷なのでしょう?
ああ、どんな戦いだったのか、ぜひ聞かせてほしいわ。きっと殿下の武勇譚にも負けないくらい――」
「エミリア」
殿下の声が、わずかに低くなる。
叱責というほど鋭くはないが、たしなめる色が滲んでいた。
「当主殿は、まだ学園に戻ったばかりだ。
昔馴染みと食事をしている最中に、武勇談を強請るのは礼を欠く」
「……あら、ごめんなさい。つい」
エミリア嬢は、悪びれた様子もなく小首をかしげる。
その仕草に、遠巻きに見ている生徒たちの間から、また小さなどよめきが漏れた。
――戦場の血の匂いも、焼け焦げた肉の色も知らないまま。
彼女にとっては、武勇も傷も、ただの“華やかな物語”なのだろう。
殿下は、私のほうへと視線を戻す。
「とはいえ、いずれ時間を取らせてもらうかもしれぬ。
戦場の現実を知る者の目は、学園の中からはなかなか得難い」
「そのときは……僭越ながら、私でお役に立てるのであれば」
そう答えると、殿下は満足そうに微笑んだ。
その微笑みは、私個人に向けられたものというより、
黒制服全体――ひいては、戦場に立った貴族たちに向けられた印章のように思えた。
やがて、王太子一行は別のテーブルへと移動していく。
彼らが通り過ぎた後には、目に見えない境界線だけが、静かに残った。
さっきまでと同じ食堂。
同じ陽光、同じざわめき。
なのに、自分だけが、別の場所に立っているような感覚が拭えない。
「……疲れた顔してるわよ」
向かいから、カレンの声が落ちてくる。
気づけば、握りしめていたフォークがわずかに震えていた。
私は慌てて力を抜き、息を吐く。
「そう見えるか?」
「ええ。さっきまで“普通の学生”の顔をしてたのに、今はちょっと」
カレンは、いたずらっぽく微笑んでから、ふっと表情を和らげた。
「でも――ここは戦場じゃないわ。
あなたが、もう一度“レオ”としていていい場所よ」
戦場では、私は家名で呼ばれることが多かった。
当主としての名で。
だからこそ、学園で当たり前のように「レオ」と呼ばれることが、妙にこそばゆく、同時に救いでもある。
「……そうだな」
短く答えて、ようやく冷めかけたスープを口に運ぶ。
味はちゃんとする。けれど、遠い。
王太子のねぎらいも、エミリア嬢の無邪気な瞳も――
どちらも、この学園が“平和”である証なのだろう。
だが、私の中にはまだ、泥と血と炎の匂いが残っている。
黒い制服は、その証を、誰の目にも分かる形で貼りつけている。
それでも。
「カレン。……とりあえず、午後の授業には遅れないようにしないとな」
「そうね。当主様が居眠りしてたら、いろいろ言われちゃうもの」
くすりと笑うカレンにつられて、私も少しだけ口元が緩んだ。
戦場と学園。
二つの世界のあいだに立たされている感覚は、きっとすぐには消えない。
それでも、今ここにいる限り――
私は、学生であり、当主であり、そしてカレンの婚約者なのだ。
その全部を抱えたまま、この学園に、もう一度馴染んでいくしかない。




