第3章 壊れかけた友情の温度(01)
その夜――誰もが眠れない時間を過ごしていた。
二階の教室を仮眠室として男女に分けて使うことになったものの、誰ひとりとして「ぐっすり眠る」ことはできなかった。古い窓枠から忍び込む雨の匂いと、床を軋ませる足音。気を抜けば、どこか遠くから坂下の声が聞こえてくるような錯覚すら覚えた。
祥太は廊下のベンチに腰掛けていた。校舎の奥、理科室近くの廊下は、昼間から人気がなく、夜になればなおさら誰も来ない。
それでも、誰かの気配がした。
足音は小さく、だが歩き慣れた音だった。
「……こんなとこで、何してるの?」
柚羽だった。ジャージの上からブランケットを羽織り、髪は後ろで簡単に束ねている。眠気の残る顔で、だが瞳だけはしっかりと祥太を見据えていた。
「眠れないのか?」
「そっちこそ」
「俺は……考えてた」
「いつもそう。考えてるけど、言わない。それって、自分守ってるだけじゃない?」
言葉にとげはなかった。むしろ、柚羽の声は驚くほど穏やかだった。
「高校の時もそうだった。みんなが揉めて、誰が悪いとか、誰が嘘ついたとか、誰が誰を裏切ったとか――いろんな声が飛び交ってたのに、あんたは黙ってた」
「……黙ることが、正解だと思ってた」
祥太は窓の外を見つめた。雨はまだ止んでいない。
「間違ったことを言いたくなかった。誰かを傷つけるよりは、何も言わない方がマシだと思った」
「でも、あの時、私は……あんたに言ってほしかった。どっちでもいい、誰の味方でもいい、何でもいいから“私を見てた”って言ってほしかった」
柚羽の声が、わずかに揺れる。
「それだけで、救われることって、あるんだよ」
祥太は、ゆっくりと柚羽の方を向いた。
「ごめん」
短い言葉だった。けれど、彼が「本心」を口にしたのは、もしかするとそれが初めてだったのかもしれない。
柚羽は、微笑んだ。
「……言えるじゃん。ちゃんと謝れるんじゃん。やればできるじゃん」
「そんなに簡単なことじゃなかった」
「簡単じゃないから、ちゃんと価値があるんだよ」
二人の間に沈黙が落ちる。
だが、それは苦しいものではなかった。どこか、雨音に包まれた深夜の校舎だけが許してくれるような、特別な静けさだった。
「……ところでさ」
柚羽がいたずらっぽく言う。
「明日から“課題”あるんでしょ? 先生の最後の授業。『自分と向き合う』とか、まじで道徳の授業レベルに抽象的だけど」
「たぶん、“具体的なテーマ”が出るんじゃないか」
「どんなの?」
「……例えば、“高校時代に抱えてた後悔”とか」
柚羽の表情が一瞬だけ動いた。だがすぐにいつもの調子に戻る。
「うわ、それやだな。正直に言ったらめっちゃ泣く気がするし、適当に流したらたぶんみんな怒るじゃん」
「でも、俺たちはそれをやらされる」
「坂下先生って……死んでもなお、課題出してくるタイプなんだね」
二人はふっと笑った。
廊下の奥から、小さな足音が近づいてきた。亜沙美だった。彼女は二人の様子を見て、少しだけ微笑んでから言った。
「ごめん、寝る前に、ちょっとだけ伝えたくて。明日、“課題一”があるって。みんなで集まるの、午前十時。場所は……音楽準備室だって」
「やっぱり、あそこか」
祥太が呟いた。
あの赤ペンで囲まれていた部屋。すべては、そこから始まるのかもしれない。