第14章 祥太、歩き出す(00)
朝の光が、静かに差し込んでいた。
祥太は、その日も図書館の鍵を開けるところから一日を始めた。
かつて出版社にいた頃とは違う。
締切も、評価も、売上もない。
あるのは、開かれた本と、黙ってその前に座る人たち。
そして、自分の声を聞いてもらいたい誰かが、そっと話し出すその瞬間を待つ静けさだけ。
「岸本先生って、元編集者なんですよね?」
ある高校生の女の子がそう尋ねてきた。
彼女は進路に悩んでいた。美大か、文系の大学か。絵も文章も中途半端で、自分に向いている道がわからない――そう言って、何度も彼の前に座っていた。
祥太は、編集者時代の話を少しだけした。
「誰かの言葉を一番近くで読んで、それを誰かに“届ける形”にするのが、編集者の仕事だった」
「それって……面白いですか?」
「うん。だけど、いつからか“自分の言葉”をどこに置いてきたか分からなくなってた」
女の子は少し黙ったあと、こう言った。
「……じゃあ、今は?」
「今は、誰かの声を“そのまま”受け取る仕事をしてる。整えるんじゃなくて、まずは全部聞いてみる。それが、今の俺にできること」
彼女は目を伏せ、何かを噛みしめるように小さく頷いた。
夜、自宅に戻った祥太は、一通の手紙を読み返していた。
それは坂下の「卒業証書」に同封されていた個別メッセージだった。
《岸本へ。
君はいつも“聞く側”だった。教室のざわめきの中で、誰かの感情を見逃さなかった。
だが、それを言葉にすることを、ずっと我慢していた気がする。
もしも君がいつか、自分のために“声”を使える日が来たら、私は何よりもうれしい。》
その文字に、祥太は初めて涙を浮かべた。
坂下先生が最後にくれたものは、“許可”だった。
自分を語ってもいい、自分の物語を紡いでもいいという、静かな後押し。
休日、祥太は旧校舎へ向かった。
図書館の子どもたちの絵を展示する企画を、市の文化センターでやることになったが、ふと思い立って、写真を撮りに行きたくなったのだ。
坂を登り、あのときと同じ風の音を聞きながら、校舎の前に立つ。
誰もいない。でも、扉の軋む音さえ懐かしい。
カメラのシャッターを切りながら、彼はふと思った。
――「もう一度、あいつらに会いたいな」
言葉にはしなかったが、その思いがふっと胸をよぎる。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面には、ひとつの通知。
【文化祭復刻企画「旧校舎にて」/招待:坂下ゼミ卒業生一同】
差出人は――
《NPO法人 教育と記憶のネットワーク》。
知らずに、祥太は笑っていた。
「……先生、最後まで仕掛けてくるんだな」




