第12章 卒業証書ともう一度の朝(01)
映し出された映像のなかで、坂下は白いシャツを着ていた。
教卓の前に立ち、いつもと変わらぬ柔らかな口調で話し始める。
「おはよう、みんな。……この声を、君たちが聞いているころには、私はもうこの世にはいないかもしれない。だけど、だからこそ、この言葉を残したかったんだ」
カメラ越しの視線はまっすぐに、受け取る者たちを見ていた。
「私は教師だった。でも、“教えること”よりも、“信じること”のほうが、ずっと大切だと最後に気づいた」
画面の坂下は、少し照れたように笑った。
「君たちのことは、今でも全部覚えてるよ。教室で騒いでいた顔も、静かに本を読んでいた姿も、誰かの涙を黙って支えていた横顔も。……どれも、私の中では宝物だ」
映像の空気が、まるで今ここに坂下がいるような、そんな錯覚を与えた。
「私は、君たちに“正解”を渡すことはできなかった。でも、ひとつだけ伝えたい」
坂下の声が、ほんの少しだけ震えた。
「この世界には、“やり直せる過去”はない。でも、“向き合える今”はある。だから、どうか君たちがこれから歩く日々のなかで、自分自身と、誰かの言葉と、ちゃんと“耳を傾ける時間”を持ってくれ」
「誰かの正しさに怯えるより、自分の言葉を育てていってほしい。未熟でも、ゆっくりでも、確かに生きていくことが、君たちの“卒業”だから」
そこで一度、画面がほんの一瞬だけ暗くなった。
次に映ったのは、校庭だった。
坂下が、12枚の“卒業証書”を手にして、誰もいない空の教室にそれをそっと置いていく姿。
一枚ずつ、まるで見えない生徒たちの机に向かって。
「……これで、君たちはようやく卒業できたね」
映像の最後、坂下はゆっくりとカメラに向き直り、深く一礼した。
「また、どこかで」
そう言って、笑った。
映像が終わったとき、教室には誰の声もなかった。
ただ、静かに鼻をすする音がいくつか重なっていた。
泣いていたのは、一人ではなかった。
男も、女も関係なかった。
涙を流す理由さえ、いまはもう必要なかった。
その場にいた全員が、ようやく――
本当の意味で、“あの教室”を出て行くことができたのだった。
そのあとの時間は、決して華やかでも、派手でもなかった。
皆で掃除をし、荷物をまとめ、古い校舎の最後の一室まで丁寧に戸締まりをした。
窓のカーテンを直し、掲示物をまっすぐ貼り直す者もいた。
そういった何気ない仕草の一つ一つが、“区切り”を告げていた。
帰り道。
バス停までは舗装の甘い下り坂。木々の影が足元を柔らかく覆っていた。
誰かが口を開こうとして、また閉じる。
それでも、歩くテンポが揃っていた。
会話はなかったが、不思議と“心の調律”は取れていた。
そして、坂の途中で祥太がふと立ち止まり、皆のほうを向いて言った。
「また……どこかで会おうな」
その言葉に、誰も声で返さなかった。
けれど全員が、確かに――
小さく頷いていた。
(第12章 End)




