第10章 課題三:一人きりの時間(02)
図書室の奥。
遼平は小さな丸椅子に腰をかけ、書架の陰に隠れるようにしてノートを開いていた。
ページには、今日までに交わした言葉たちが綴られていた。会話の断片、感情の変化、表情のメモ。機械的に記録しているように見えるが、そのどれもが“彼なりの手触り”を持っていた。
「機械は、心を記録できない」
それは、大学で教授が言っていた言葉だ。
「けど、“心が動いたこと”は記録できる」
彼は自分の思考を、そっとひとつひとつ確認するように書き込んだ。
《共感は、データではなく、経験でしか得られない》
そして、書いた文字をじっと見つめた後、ふっと肩の力を抜いた。
「……あの時、誰かと話すことを怖がってた自分に、“今なら平気だよ”って言いたい」
遼平はペンを置き、ノートを閉じた。
心の中にあった“回路”が、少しだけ太くなった気がした。
一方、麻実は旧美術準備室で、一枚の白紙を前に立ち尽くしていた。
壁には色あせたスケッチ。破れかけた画用紙が無造作に立てかけられている。
「……あたしって、何を描きたかったんだろう」
呟いた声は、誰にも届かない。
“誰にも伝えなくていい、自分の気持ち”というのは、思った以上に難しい。
普段はプレゼン資料をまとめるように、誰かに「見せる前提」で物を作ってきた。けれど今は、“誰にも見せなくていい時間”なのだ。
彼女は白紙の中央に、ゆっくりと線を引いた。
線は、震えていた。まっすぐでも、曲線でもなく、不確かな自由を持っていた。
「……これが、今の自分」
そう言って、一枚、また一枚と線を重ねていく。
完成形などなかった。ゴールも設計もない。
けれど、その線は、麻実の内側から自然に滲み出るように浮かび上がっていた。
描き終えた紙を見下ろしながら、麻実はそっと微笑んだ。
《私は、今ここにいる》
ただ、それだけを確認するように。
音楽室の隅では、将がピアノの前に座っていた。
鍵盤には触れていない。ただ、蓋の上に両手を置き、目を閉じていた。
「“自分一人”の時間って、実は一番退屈で、でも一番贅沢なんだな」
誰かの前では軽口を叩き、場を動かす役目を無意識に引き受けてきた将。
だが、それは本当の自分だったのか――答えはまだ出ていなかった。
「俺、いつからか“誰かを惹きつける”ことでしか、自分を保てなくなってた気がする」
彼はそう言って、手帳を開き、そこに一言書き記した。
《沈黙に耐えられる自分になりたい》
そしてふと、小さく笑った。
「そのために、まずはこの時間、ちゃんと味わってやるか」
そして、坂下が最後に仕掛けていた“仕上げ”の鐘が、静かに鳴り始めた。
校舎全体に響く、懐かしいチャイム。
その音を合図に、十二人はそれぞれの場所から、再び“この今”に戻ってくる。
誰にも見せることのない時間。
しかし、それは確実に――
自分の“奥底”にふれた時間だった。
(第10章 End)




