第1章 坂下先生からの手紙(02)
旧校舎の最寄りバス停で降りた三人は、無言のまま坂道を登っていた。舗装がところどころ剥がれかけたアスファルトに、コツコツとスニーカーの音が響く。
「……坂下先生、なんで俺たちにこんな“課外授業”残したんだろうな」
将がぽつりと口を開く。軽口ではなく、静かな声音だった。
「“本当の卒業”をさせたかったんじゃないかな」
祥太の返答に、柚羽が少し驚いた顔を見せた。彼が“推測”を語ることはあっても、“信念”を語ることは稀だった。
「先生、よく言ってたよね。“点数なんてどうでもいい。人としての“卒業”が大事だ”って」
「俺、それ聞いた時、心の中で“うわ、教育マニアだ”って思ってたわ」
「素直すぎるな、お前は……」
三人の笑い声が、少しだけ空気を柔らかくした。
そして、視界がひらけた。
そこには、かつての旧校舎が、そのままの姿で残っていた。
赤茶けた瓦屋根、年月を経て色あせた木造の壁、そして春の陽射しの中にたたずむ大きな桜の木。その幹は、太く、力強い。
誰もが「思い出」の中でしか見ていなかった風景が、今、目の前にある。
「……ほんとに、変わってないんだな」
柚羽が息をのむように言った。
そのとき、カラカラッという音がして、古びた玄関の引き戸が開いた。
そこから姿を現したのは――
「よう。あんたたち、遅かったじゃない」
腕を組み、ややふてぶてしい様子で立っていたのは、恵梨だった。
変わらずの長い髪、変わらずの鋭い目、変わらずの毒気を孕んだ声音。
「……来たんだな、恵梨」
「まあ、招待状が来たんだし。無視したら“感じ悪い奴”になるでしょ? それに、“あんた”が来るなら、暇潰しくらいにはなると思ってたし」
将は笑って肩をすくめた。
「お前さ、毒舌の精度、落ちてないよな」
「ありがと」
「褒めてないって」
誰かがドアの奥で咳払いした。
「……全員、揃ったの?」
その声はややおどおどしていて、だが聞き覚えがある。
姿を現したのは、細身で猫背気味の男性――遼平だった。眼鏡の奥の目は相変わらず伏し目がちで、手には小型のタブレットを抱えている。
「遼平……お前も来たんだ」
「うん……。なんか、呼ばれた感じがして……。あ、これ、音声の再生機材、持ってきたんだ。もし何かあったら、使えるかなって……」
祥太はうなずいた。
「ありがとう。助かる」
こうして、旧校舎の玄関に、かつての仲間たちが一人、また一人と集まり始めた。
部屋の空気がざわつく中――
「“再会”ってさ、ちょっとしたホラーだよね。“昔の自分に会う”って意味でも」
低い声と共に入ってきたのは、美紗だった。
黒に近いロングカーディガンを羽織り、無表情で立つその姿に、どこか“冷血”の香りが漂っていた。
「誰にも期待しない。期待しないことで、失望しなくて済む。……そんな子だったよね、お前は」
祥太の言葉に、美紗は瞬きもせず答える。
「今もそうよ。“失望する自由”なんて、いらないの」
そのとき、校舎の奥から――
「みんな、おかえり」
静かに声がした。
振り返ると、そこには小柄な女性、亜沙美が立っていた。穏やかな笑み、周囲を包み込むような柔らかな目。
「先生、ほんとに仕掛けてたんだね。こんな風に、私たちを“集める”方法を」
「坂下の遺志を、君が?」
「……ちょっとだけ、手伝ったの。お手紙の用意とか、日程の調整とか。でも、内容までは私も聞かされてない。先生、“最期の授業は、驚きがないとね”って、笑ってた」
その場の空気が、少しだけ温かくなる。
静かに、玄関の柱時計が鳴った。午後四時。
その音に導かれるように、教室に設置された音響機材から、聞き慣れた声が流れ始めた。
《やあ、みんな。元気かな? ここに来たってことは、“まだ終わってない”と思ってる証拠だね》
それは、坂下光太郎の声だった。
《三泊四日。君たちはここで、“真の卒業”を迎えてもらう。課題は、簡単だ。“自分自身”と向き合うこと。それが、俺からの“最後の授業”だ》
声は穏やかだったが、どこか背筋に冷たいものが走る。
教室の窓から、春の光が差し込んでいた。
次の四日間。彼らは、“自分たち”という教科に向き合うことになる――。
(第1章 終/第2章へ続きます)