第9章 対話するということ(01)
深夜0時を過ぎた頃。
旧校舎の灯りは、階段の非常灯と、いくつかの教室に残るスタンドライトだけだった。
校庭の隅からは虫の音が微かに聞こえる。人の声はもうしない。だが、眠っているわけではない“静けさ”が、校舎全体に染み渡っていた。
音楽準備室――そこには、遼平がひとりいた。
ノートパソコンを膝にのせ、何かを打ち込んでは止まり、また削除していた。
その背中に、足音が近づく。
「ここ、使ってた? 邪魔しちゃった?」
そう声をかけたのは、麻実だった。
「いや、大丈夫。……むしろ、来てくれて助かった」
遼平は画面を閉じ、手を止めた。
麻実は椅子を引いて、隣に腰かけた。
「……考え事?」
「うん。“対話ってなんだろう”って」
麻実は黙っていた。
「今日、いろんな人と話してて思った。“話すこと”って、怖いし、でも大事なんだって。伝えることで、“自分の存在”が少しだけ輪郭を持てる気がして」
「私も……そうかも」
麻実は膝の上で両手を組み、視線を落とした。
「昔から、自分の意見に自信はあった。でも、それを出すと、誰かに否定されるのが怖かった。“意見”って、出した瞬間に責任が生まれるじゃない?」
「うん、わかる」
「だから、質問されると構えちゃう。自分の中にあるものを“見せる”のが怖くて。……でも、今回ここでいろんな人の話を聞いて、ようやく、“出しても壊れない”って思えた」
遼平はふと微笑んだ。
「俺ね、機械のプログラムって“正解”を出すための手順を組むけど、人との対話って、たぶん“正解を出さないため”にあるんだと思う」
「……面白いこと言うね。それ」
「うん。だってさ、正解だけがほしいなら、会話なんていらない。Googleで調べれば出てくる。でも、誰かの言葉を聞いて、自分の考えが変わったり、“あ、そういう見方もあるのか”って思える瞬間って、きっとそれが“生きてる”ってことなんだよ」
麻実は、ゆっくりと頷いた。
「私……これまで、人と“意見を混ぜる”ことがなかった。“勝つか負けるか”って思ってた。けど、本当は、“合わせて作る”ことができるんだよね。意見って、“ぶつかり合う”んじゃなくて、“重なり合う”こともあるって、今日やっと思えた」
遼平は静かに彼女を見つめていた。
「その言葉、すごく強いと思う」
「強くなんかない。……ようやく、“普通”のことを言えるようになっただけ」
その“普通”を言うまでに、どれほどの時間がかかったか。
遼平には、なんとなくそれが伝わっていた。
「ありがとう、来てくれて。今日のこの話、たぶん……一生忘れないと思う」
「うん。私も」
二人の間に、沈黙が流れた。だが、それはもう“気まずさ”ではなく、“信頼”だった。
その夜、いくつもの“対話”が、それぞれの場所で交わされていた。
言葉が足りなかったあの頃。
沈黙が重くのしかかっていた教室。
けれど、今はもう違う。
話すこと、聞くこと、そして受け止めること。
それらがようやく、“未来を語るための手段”になり始めていた。
(第9章 End)




