第9章 対話するということ(00)
合宿三日目の夜。
焚き火の余熱も、真吾の告白の余韻も、食堂に残る静けさに溶けていった。
旧校舎の廊下を、祥太はひとり歩いていた。
手には、坂下が遺した手紙の複製。再生されるメッセージではなく、あのとき郵送されてきた、印刷のにじんだ封筒の中身――あれをもう一度読み返していた。
《“今ここにいる”という事実を、大切にしなさい。
“対話”は、必ず誰かの人生を変えるから。》
「……先生、対話って、結局どうやればいいんだろうな」
つぶやいたその時、後ろから声がした。
「ねえ、祥太。話、していい?」
振り返ると、亜沙美がいた。
あいかわらず、遠慮がちで、それでも確かな強さを目に宿している彼女だった。
「もちろん。ちょうど、誰かと話したかった」
「よかった。実は、あたしも」
二人はそのまま、廊下を折れ、空き教室に入る。
窓の外には星がいくつか見えていた。
「……あたしね、今までずっと、“自分の意見”を押しつけるのが怖かったの」
亜沙美が話し出した。
「誰かと対話しようとすると、つい相手に合わせすぎて、“自分の輪郭”がなくなっちゃう。だから、“本音”を言うのが怖かった。誰かとぶつかったとき、自分の内側が壊れる気がして」
祥太は頷いた。
「分かる。“衝突”が怖いんだよな。でも、それって本当は、“衝突”じゃなくて、“違い”だよな。……“違い”を受け入れた上で、どう向き合うか。それが対話なんだと思う」
「じゃあ、祥太は……今でも、怖い?」
「……うん、少しは。でも、“話す”って、怖いからこそ価値があるんだと思う。話せた瞬間に、自分が“ちゃんと生きてる”って思えるから」
亜沙美は、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「じゃあさ、今、あたしが言ってもいい? “今ここにいるあたしの気持ち”を」
「もちろん」
「……あたし、今、すごく“安心してる”の。変な意味じゃなくて、あんたとこうやって“ただ言葉を交わせる”ことが、心地よい。誰かと違ってても、笑い合える。そんな対話がしたかったんだって、今ようやく分かった」
祥太はその言葉を受け取り、ふと笑った。
「俺も同じ気持ちだよ。誰かと話して、笑える。そこに“答え”がなくてもいい。ただ、“会話が続くこと”自体が、俺にとっては意味なんだって、今すごく実感してる」
同じころ、屋上に近い階段の踊り場では、雄也と菜穂が話していた。
「……菜穂ってさ、あんまり“深く踏み込まない”タイプだよね」
「うん。それが私の“処世術”だったから。でも、あんたはどう? 自分のこと、ちゃんと話せてる?」
「俺? ……ようやく“話す準備”ができてきた気がする。今日、坂下先生の言葉を聞いてて思った。“対話すること”って、怖いけど、誤解も解けるって」
「誤解ね……」
菜穂は、手すりにもたれながら空を見た。
「私は、人から“軽い奴”って思われるのが嫌だった。でも、重くなるのも苦手だった。だから、対話から逃げてたんだよね。……“表面で済ます”のが癖になってた」
「俺は逆に、内面を見せるのが怖かった。正直に話したら、“自分の形”が崩れる気がしてさ」
「でもさ、今、こうして話せてる。……それで、いいんじゃない?」
「うん。それで、いい」
二人はただ、静かに夜を見つめていた。
言葉がなくても、通じ合えるときがある。
でも、“言葉にしなきゃ通じない”ことも、たしかにある。
対話は、その両方を行き来する術なのだ。




