第8章 真吾の理想と現実(02)
夕方。
光の角度が変わり、旧校舎の廊下に長く伸びた影が射し込んでいた。誰かが歩くたび、まるで時間が逆流するように、影も一緒に揺れた。
教室の一つに、真吾は再びひとりで戻っていた。
そこは三年の時、自分が「秩序」を保つために頻繁に使っていた教室だった。クラス委員として、話し合いを仕切り、トラブルを調整し、時に“責任者”の顔をしていた場所だ。
黒板に向き合ったとき、かつての自分の声が蘇った気がした。
『このままだとクラスが壊れる。協力してください』
『私語はやめましょう。時間を守りましょう。全員に迷惑がかかっています』
『それがルールです』
「……正しさの、亡霊みたいだったな」
真吾はそう呟くと、黒板のチョークを手に取った。
「今日は俺が壊す番だ」
そう言って、真ん中に大きくこう書いた。
《正しさだけでは、人の心は動かない》
その言葉を見つめていたとき、後ろから足音がした。
振り返ると、菜穂が立っていた。
「……見つけた。あんた、こういうとこ好きだったよね」
「うん、落ち着く場所だった。でも今は、少しだけ居心地が悪い」
菜穂は前に出て、黒板の文字を読んだ。
「……変わったじゃん、真吾。あの頃なら、“こんな落書きすぐ消せ”とか言ってたくせに」
「俺も、ようやく“間違える自由”が欲しくなった」
「いいこと言うね」
菜穂は、黒板に小さく《でもルールは大事》と書き足した。
「正しさも、大事よ。全部捨てちゃダメ。あんたのそれがあったから、助かった子もいるんだから」
「……ありがとう」
真吾は素直にそう返した。
「ていうか、あたし、昔から思ってた。真吾って、ちょっと“独り相撲”してたよね」
「自覚ある。勝手に全力投球して、勝手に相手に失望してた」
「それって、“信頼すること”を避けてただけなんだよ」
真吾は黙って頷いた。
「でも、今のあんたなら、信頼できそう。“守ろう”としすぎない人のほうが、私は好きだな」
菜穂はそう言って、にやりと笑うと、さっさと出て行った。
残された真吾は、再び黒板の言葉を見つめ、静かにチョークを置いた。
夜。全員が集まった食堂には、焚き火のときとは違う落ち着いた熱があった。
「じゃあ今日は……“真吾さんに乾杯”ってことでいいんじゃない?」
柚羽の冗談めいた音頭に、誰もがグラスや紙コップを掲げた。
「……そんなの、いらないよ」
真吾がそう言いかけたとき、亜沙美が笑いながら言った。
「真吾の“いらない”は、“どうしていいか分からない”って意味でしょ? もらっときなよ。初めての、歓迎の乾杯なんだから」
「……ありがとう」
真吾は、短く、しかし心からの声でそう言った。
コップを軽く合わせる音が、夜の静かな空気に心地よく響いた。
この三日間で、確かに何かが変わっていた。
正しさではなく、対話が。
ルールではなく、理解が。
孤独ではなく、共有が――この場所にはあった。
(第8章 完)




