第8章 真吾の理想と現実(01)
朝食後、旧校舎の中はそれぞれの思いを抱えながら静かに動いていた。
恵梨は一人で階段を上り、誰もいない理科準備室へ向かっていた。
そこは、かつて真吾と対立した記憶がある場所だった。
重たい扉を開けると、薬品の古びた匂いが鼻をかすめる。
窓の鍵は錆びついていて、風は入らない。けれど、恵梨はそこで少しの時間、無言で佇んだ。
「……正しい人間に、ずっと腹立ててた」
彼女は誰にも聞かせるつもりのない独白を、静かに口にする。
「“あたしは間違ってるかもしれないけど、黙ってるあんたたちはもっとずるい”って。そんなことばっか考えてた」
窓の外には、ぼんやりと光る空が広がっている。
その空に向かって、恵梨はつぶやいた。
「でも真吾がさ、“自分が正しさにしがみついてた”って言ったの、……ちょっと救われたんだよね」
人を責めていた自分の心が、少しだけ“許された”気がした。
そのことを誰かに伝えるためではなく、ただ、自分自身のためにそう感じた。
一方その頃、祥太は図書室の角で静かにノートを開いていた。
坂下が遺してくれた「問い」に対して、まだ自分の中で整理がついていない部分があった。
“理想”という言葉の輪郭が、今なら少しずつわかってきた。
真吾が追いかけた理想。
それは、子どもだった頃の自分もどこかで願っていたものだった。
“全員が間違えない世界”。
“誰も否定されず、でも秩序が守られた空間”。
理想という名の“世界の設計図”を引くことで、自分の不安を塗りつぶしていた。
だが、人生は設計図通りに進まない。
むしろ、想定外と予測不能に満ちている。
祥太は、ページにこう書き記した。
《理想は、誰かのために掲げるものじゃない。
誰かと一緒に、手探りで形作っていく“過程”なんだ》
午後、旧校舎の空気はまた一段と静かになった。
校庭のベンチには春樹がひとり座っていた。
そこへ、真吾が近づいてくる。
「……ここ、変わらないな」
「うん。俺もさっき同じこと思ってた」
真吾は春樹の隣に腰を下ろし、しばらく空を仰いだ。
「春樹。お前、変わったよな。昔は“あえて何も言わない”タイプだったけど、今はちゃんと“言葉にする”ようになった」
「それ、最近よく言われる。でも、正直まだ怖いんだよ。言葉にするって、相手の心に踏み込むことだから」
「でも、踏み込んでくれてるって感じたよ。……俺は、昔の俺が“正しさ”で全部を囲い込んでたこと、本当に後悔してる」
春樹はふと笑った。
「後悔って、反省よりもずっと強い“希望”を含んでるよな。“もう一度やり直したい”って、願いがあるから」
「……そうかもしれないな」
「真吾。お前が今、そんなふうに話せるようになってくれて、ほんとよかったよ。あの頃の“正しいやつ”が、今こうして“揺らぎ”を語ってるの、なんか、すげぇ安心する」
真吾は苦笑した。
「“安心”って言葉、昔の俺なら否定してたな。曖昧だって。……でも今は、“誰かが安心できること”を自分の理想にしたいって思う」
春樹は目を細めた。
「それ、いい理想だな。俺も乗っかりたいくらいだ」
二人の会話は、風に溶けていった。
“正しさ”ではなく、“揺らぎのある信頼”。
それこそが、人と人との間に最も必要な“現実”なのだと、彼らはようやく気づいたのかもしれない。




