第6章 柚羽と祥太、笑えない夜(01)
手と手が重なった、その一瞬の温もり。
柚羽はそれを、まるで凍えた心に触れた春の陽射しのように感じていた。
だが同時に、すぐにその“優しさ”を自分が受け取ってもいいのか、という戸惑いもまた湧き上がってきていた。
「……あたし、ずっと後悔してたの」
柚羽が、机に視線を落としながら言った。
「“いい子”でいたこと。“正しいこと”をしてたって信じて、でも結局、誰かを追い詰めてた。誰も気づいてくれなかったし、あたしも自分で気づかないふりをしてた」
「気づいてたよ」
祥太の返事は早かった。
「お前が、教室のど真ん中で、誰よりも“強く”見えながら、誰よりも“不安”そうだったのを、ずっと見てた」
柚羽の唇が、ほんの少しだけ震える。
「そういうの、もっと早く言ってくれれば、救われたのに……」
「俺も、自分のことで手一杯だった」
彼は正直にそう言った。
「自分が嫌いだった。何も言えないこと、何もできないこと、ただ“黙っている”ことで“逃げてる”ってこと……全部自覚してた」
「今の祥太がそれを言ってくれるって、なんかずるいね。優しさと、後悔と、誠実さを全部一緒に抱えてる感じ」
「でも、今の俺は、そう言えるだけの時間を過ごしてきたから」
そう言いながら、祥太は視線を落とした。
「……俺、会社辞めたんだ」
「え?」
「もう限界だった。編集の仕事は好きだった。でも、ずっと“人の声”に耳を傾けるふりをしながら、自分の声をごまかしてた。作家の原稿に“ここが弱いです”“もっと掘り下げましょう”ってアドバイスしてるくせに、自分のことは一行も書けないままだった」
柚羽はその言葉に、ふっと息を漏らした。
「……そっか。じゃあ、今は?」
「今は、何も決まってない。でも、こうして“ここ”に来て、お前と話して、自分のことをちゃんと伝えることができて、初めて少しだけ“生きてる”って感じがした」
それは、偽りのない言葉だった。
柚羽は少しだけ沈黙し、それから思い切ったように言った。
「……あたしね、教師になってから、何度か子どもに言われたことがある。“先生、何でもわかってる顔してるけど、本当はちょっと抜けてるよね”って」
「正論言いすぎた?」
「ううん、逆。“自分で決めたルールに縛られてる”って見抜かれてた」
「……子どもは、すごいな」
「うん。正直に言うと、あたし、あの子たちから“学んでる”んだって思う瞬間がすごく多い」
柚羽はゆっくりと目を閉じ、深呼吸した。
「でも、今日みたいな時間を持ててよかった。“子どもの前の先生”じゃなくて、“自分のまま”でいられる相手と、ちゃんと話せたことが」
「俺もだよ。……ありがとう。話してくれて」
二人の間には、もう言葉のいらない静けさが流れていた。
そして、ふいに柚羽が言った。
「ねえ、祥太。あたしたち、昔に戻れるかな?」
「戻らなくていいと思う。……でも、“やり直す”ことはできる」
その答えに、柚羽は目を細めた。
笑っているようにも、泣きそうにも見えた。
夜は静かに更けていった。
そしてその中で、過去の“裂け目”が、ひとつゆっくりと縫い合わされていった。