第6章 柚羽と祥太、笑えない夜(00)
その夜、旧校舎の空には雲が広がり、月は一度も顔を見せなかった。
星の光すら届かない空の下で、校舎の廊下は暗く、天井に吊るされた蛍光灯だけが頼りなかった。
二階の東側の教室――普段なら寝室として割り当てられたはずの場所に、祥太と柚羽のふたりだけが残っていた。
他のメンバーは、夕食後の団欒を終えて思い思いの部屋へ散っていた。
けれど柚羽だけは、まだ何かを言い足りないように、廊下を歩いていた祥太を見つけて声をかけた。
「ちょっと、話さない?」
それだけの短い問いに、祥太はただ「わかった」と頷いた。
そして今、二人は向かい合っていた。
長机をはさんで、まるでかつての放課後のように。
「……ここ、覚えてる?」
柚羽が先に口を開く。
「高校三年の、二学期のこと。進路希望調査票をこの教室で書いてて、私、悩んでたのに“お前は教師向きだろ”って一言で終わらせたの、あんた」
「覚えてる」
「しかも、あたしが“でも迷ってるんだ”って言ったら、祥太、“それ、言い訳?”って真顔で言ったのよ。あれ、地味に一週間くらい引きずったから」
祥太は、小さく眉を動かした。
「……悪かったと思ってる。でも、あのときは本気でそう思ってた。“迷うくらいなら、踏み出せ”って」
「正論すぎて、こっちの傷が深くなるんだよねぇ。……でもまあ、あれがなかったら教師になろうって踏ん切り、つかなかったかも」
柚羽はそう言って、小さく笑う。
けれど、その笑顔はすぐに翳りを帯びる。
「でもさ……その正論で、あたしたち、“壊れた”こともあったよね」
祥太は黙った。
「覚えてるでしょ? 三年の冬、あの事件――」
言いかけて、柚羽は一度だけ口をつぐんだ。
それは、あまりにも長い間、誰の口にも上らなかった“傷跡”だった。
「誰が悪かったとか、今さらどうでもいい。でもさ……あのとき、あんたが黙ってたことだけは、ずっと引っかかってた」
「……俺は、何を言っても、誰かを傷つけると思ってた」
祥太の声は、低く、静かだった。
「恵梨も、真吾も、将も、柚羽も、みんなそれぞれ正しくて、それぞれ間違ってた。だから、俺が言葉を選ぶたびに、それが誰かの“棘”になる気がして……」
「じゃあ、黙ってたのは“優しさ”?」
「いや、ただの“臆病”だった」
柚羽は、机に両手をついて、少しだけ身を乗り出した。
「じゃあさ、なんで今、こうして話してくれてるの?」
祥太は視線を柚羽から外さなかった。
「……自分を信じられるようになったからだと思う。昔の俺は、誰かの前に立つと、自分が小さくなるのが怖かった。でも今は、自分の弱さを“受け入れられる”ようになった。……お前が、こうして向き合ってくれるから」
柚羽は、しばらく祥太を見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「ねえ、あたし、ずっとあんたに聞きたかったことがあるの」
「なんだ?」
「……あの時、“あたしのこと、見てた”?」
その問いは、笑えないジョークだった。
心の奥底にずっと残っていた、氷のように冷たい問いだった。
「“見てたよ”って言われたら、救われたかもしれない。“見てなかった”って言われたら、今もきっと、壊れる」
祥太は、すっと息を吸い込んで言った。
「……見てたよ」
「……ほんと?」
「お前が誰よりも正しくあろうとして、でも誰よりも傷ついてるのも分かってた。でも、俺は……その“痛み”に向き合うのが怖かった。だから、目をそらした」
柚羽の肩が、ほんの少しだけ震えた。
「……じゃあ、“今のあたし”はどう? ちゃんと、見えてる?」
「今のお前は、“ちゃんと笑えてる”」
そう言った祥太の声は、いつかの教室で言葉を飲み込んだ少年の声とはまるで違っていた。
柚羽は、言葉を返さなかった。
ただ、長い沈黙の中で、机の上にそっと自分の手を置いた。
その手に、祥太が静かに手を重ねた。
夜の闇は深く、静かだった。