第5章 美紗の嘘、春樹の本音(00)
2日目の午後。空は前日とは打って変わって晴れ渡り、旧校舎の窓からはやわらかな光が差し込んでいた。
雨の気配がすっかり消えたことで、校舎の木材の匂いすらも少しだけ軽やかになったように感じられた。
食後の静けさが、校舎全体を優しく包んでいた。
「……外、歩かない?」
春樹がそう声をかけたのは、美紗だった。
彼女は最初、無言で視線を向けただけだったが、数秒の沈黙の後、ノートパソコンのふたを閉じて立ち上がった。
「行き先は?」
「どこでも。お前の足が向いたところに、俺がついてく」
「……妙に素直ね、今日のあんた」
「昨日の“課題”で、少し毒気が抜けたのかも」
美紗はふっと小さく笑った。それは、誰にも見せることのなかった微笑だった。
二人は旧校舎を出て、裏手の雑木林沿いの小道を歩いた。そこは在学当時、生徒の出入りが禁止されていた場所だったが、いまや管理の目もなく、草の香りが自由に空気に混じっていた。
「……あたし、昨日の話、本当は全部じゃなかった」
ふいに美紗が言った。
春樹は黙って聞いた。
「高校のとき、“感情を遮断する”ようにしてた。優しさも、期待も、失望も。全部まとめて、なかったことにしてた。……でも、ひとつだけ例外があった」
美紗の横顔が、ほんの少しだけ揺れていた。
「それが、“あんた”だった」
春樹の足が止まる。彼女も、足を止めた。
「……でも、それを自分に認めたら、すごく面倒なことになる気がした。“好き”だとか、“嫌い”だとか、そんな曖昧な感情で、心が揺れるのが怖かった」
風が吹いた。木々の隙間を通って、二人の間を通り抜けた。
「だから、嘘をついた。“春樹は軽薄だ”“あたしには興味がない”って、自分に言い聞かせて、全部終わらせた」
春樹は、その言葉を一言も遮らなかった。
「でも今、こうしてまた会って、気づいた。“終わらせた”んじゃなくて、“止めてただけ”だったんだって」
彼女の目が、春樹を真っ直ぐに見た。
「……あんた、なんで黙ってるの?」
「聞いてた。全部、ちゃんと聞いてた」
春樹は、まっすぐに答えた。
「俺も、高校のとき……美紗のこと、たぶん好きだった」
美紗は一瞬だけ、眉をぴくりと動かした。
「でも、お前が冷たくて、俺は“ただの仲間”って自分に言い聞かせてた。気持ちを押し込めて、楽しそうに振る舞ってた。でも……それ、全部お前が見透かしてたって、昨日わかった」
春樹は一歩、美紗の近くに歩み寄った。
「だから、言い直す。俺、お前のことが“ずっと気になってた”。でも、それを“好き”って言えるほど、自分のこともわかってなかった」
風の音が、葉の擦れる音に変わる。
「じゃあ……今は?」
「今なら言える。“好きだった”んじゃなくて、“今も好きかもしれない”って」
美紗は少しだけ目を細めた。笑っているようで、泣きそうにも見えた。
「……でも、それを言われたからって、何も変わらないよ」
「うん。変わらないかもしれない。でも、こうして話せたってことが、俺たちにとってはきっと――」
春樹が言い終わる前に、美紗が言葉を継いだ。
「“始まり”ってこと?」
春樹は、黙って頷いた。
長い沈黙のあと、美紗はぽつりと呟いた。
「“冷血”って言われることに、慣れすぎてた。でも、今ならわかる。誰かに“体温”をもらうって、こんなにあったかいことなんだね」
その言葉は、春の陽だまりのように、彼の胸に染み込んだ。