第1章 坂下先生からの手紙(00)
四月の風が、まだ肌寒さを帯びて吹いていた。薄曇りの空の下、祥太は真新しいスニーカーのつま先を見つめていた。東京のアスファルトにはまだ春の香りが足りない。街路樹の若葉が風に揺れる音が、微かに耳の奥をくすぐった。
信号が青に変わっても、彼はすぐには歩き出さなかった。ポケットの中で折り畳まれた封筒を指先でまさぐる。何度か開きかけては閉じ、開きかけては躊躇う。それほどに、そこに書かれた送り主の名前は、現実味を欠いていた。
坂下光太郎。
――彼は、もうこの世にはいないはずだ。
祥太の脳裏に、七年前の記憶がよみがえる。高校三年の春、卒業を目前に控えたあの日。学年主任だった坂下が急逝したという報せは、まるで悪い冗談のように教室に流れ込んできた。肝っ玉が据わっていて、ちょっとやそっとのことでは動じない教師だった。だからこそ、信じられなかった。
彼は、「特進クラス」の担任だった。
そして――自分たち十二人は、そのクラスにいた。
「お待たせしました」
後ろから声がかかり、祥太は顔を上げた。紺色のトレンチコートに身を包んだ女性が、小さく手を振って歩み寄ってくる。明るく巻かれたボブヘアが、春の光をわずかに跳ね返している。
「柚羽……早いな」
「うん、仕事、午後は有休取った。こんな“怪文書”来たら、そりゃ気になるでしょ?」
柚羽はにやりと笑い、手にした同じ封筒をかざしてみせた。封はすでに開いているらしく、封筒の端は少しよれていた。
「読み直しても、やっぱり変なんだよねぇ。『旧校舎での再会を望む』って、誰が書いたのか、どこから送られたのか、全然書いてないんだもん」
「でも、消印は坂下先生の地元だった。あの町の郵便局。何かの偶然か、それとも……」
「それとも?」
「誰かのいたずらか、計画か」
祥太の声音には、感情の起伏がなかった。ただ、淡々と現実を分析しようとする思考の冷静さが、彼という人間のすべてを物語っていた。
柚羽は、少しだけ真面目な顔をする。
「もしこれ、先生が本当に何かを仕掛けてたとしたら……ちょっとワクワクしない?」
「そういうところ、お前は変わってないな」
「ありがとう。変わらないって、いいことだよ。特に、こういうときにはさ」
彼女は少し空を見上げて、また笑った。目尻に笑い皺が寄る。明るく、人懐っこく、だけどどこか律儀で。柚羽は、高校時代からずっとそうだった。ジョークで空気を和ませながらも、根っこの部分では誰よりも真面目で、規則を守り続けていた。
「でも……どうする? ほんとに、行くの?」
「行くよ」
祥太の答えは早かった。迷いはない。彼はすでに、準備を始めていたのだ。
封筒に入っていた手紙には、こう書かれていた。
《君たちへ。旧校舎にて、最後の課外授業を始めよう。日程は〇月〇日から三泊四日。持ち物は心だけでいい。坂下光太郎より》
それだけの文面。だが、明らかに彼の言い回しだった。教師としての癖、話すときの口調。それを知っている者には、否応なく記憶を呼び起こすだけの力があった。
そして――
「他のメンバー、誰か連絡あった?」
「ううん。てか、グループLINEももう動いてないし。春樹とかなら、来そうだけどなぁ。あの人、こういうの好きそうじゃない?」
「将も、こういう場を“面白がる”タイプだ」
「恵梨は……どうだろうね。毒舌かますかも」
「遼平は、来るなら一番乗りだな。あいつ、妙にこういうのにロマン感じるから」
「麻実は警戒するでしょ、絶対。あの子、“質問されると構える”って、今でも健在かな?」
「たぶん」
そうして二人は、かつての仲間たちの顔を一人ひとり思い出していく。思い出しながらも、時間は否応なく過ぎていく。もう、大人だ。もう、簡単に集まれる時間じゃない。
けれど、たった一通の手紙が、そんな現実に一石を投じた。
旧校舎での再会。
それは、過去の「終わっていない何か」を、終わらせるためのものなのか。それとも、再び「始めるため」のものなのか。
坂下光太郎――死してなお、彼は彼らに“授業”を続けさせようとしているのかもしれない。