第七十八訓 良く見えないのならメガネをかけましょう
「うおっ、冷たぁッ!」
俺は、天井から滴り落ちてきた冷たい水滴を裸の背中に受け、素っ頓狂な声を上げる。
途端に、洗い場と湯船の中からの視線を一身に浴びた俺は、身を縮こまらせて、熱々のお湯の中に鼻まで沈んだ。
――ここは、『厭離湯』の男性浴場。
壁沿いにシャワーと蛇口が十セットくらい並び、その奥に広々とした湯船が、熱めのお湯を満々に湛え、朦々とした湯気を上げている。
湯船の中は三つに仕切られており、ボコボコと大きな泡を立てている泡風呂とビリビリする電気風呂が設けられていた。
もっとも、泡風呂と電気風呂は、さっきから常連の爺さんがずっと占拠していて、事実上の貸し切り状態だったが……。
まあ、俺は別に体が凝っているわけでもないので、はじめから泡風呂にも電気風呂にも入る気は無いからいいんだけどさ。
銭湯に入場……もとい、チェックインした俺は、そそくさと服を脱いで手早く体を洗うと、一直線に大きな湯船の中に足を踏み入れ――先ほどの水滴爆撃を食らってしまった訳だ。
まさに、あの国民的お風呂歌謡で歌われたまんまだな。
はーびばのんのん♪
「熱ちちち……」
俺は、一気に湯の中に入った事で体中の毛細血管が一気に開くのを感じながら、熱さによる心地よい痛みに身を委ねる。
そして、改めて周囲を見回した。
「……やっぱり、ボロいよなぁ、ここ……」
俺は、タイル壁のあちこちにヒビが入っていたり、湯船の上にデカデカと描かれた富士山の絵のペンキが剥落したり色褪せたりしているのを見ながら、ボソリと呟く。
さすがに清掃は行き届いてるようだが、創業百ン十年という歴史の蓄積は至る所に見て取れた。
……とはいえ、家の狭い風呂ではこんなにのびのびと手足を伸ばせないので、いかにボロくてもありがたいところである。
「たまには銭湯もいいなぁ……」
俺は、向かいで肩を並べてお湯に浸かっている親子連れの仲睦まじげな様子にほっこりしながら、両手でお湯を掬って顔にかけた。
そして、濡れて水滴を滴らせる前髪を手櫛で掻き上げながら、洗い場の方をキョロキョロと見回す。
「まだ体を洗ってるのかな、あの人……」
俺が目で探しているのは、遅れて浴場に入ってきているはずの藤岡の姿だった。
脱衣所までは一緒だったのだが、並んで服を脱ぐのが何だか嫌だった俺は、あえて藤岡と距離を取って素早く服を脱ぐと、彼を待つ事も無く浴場の中に入ったのだった。
……いや、何か嫌じゃん。まだ二回しか顔を合わせた事の無い男に、自分が服を脱ぐ様を見られるのも、まだ二回しか顔を合わせた事の無い男が服を脱ぐ様を見るのも……。
その上、その男は、秘かに俺が想いを寄せている幼馴染の彼氏ときた。そんな“恋敵”に、自分の無防備な姿を見られるのは……真っ平御免だった。
だが、今なら大丈夫だ。
俺は肩までとっぷりと湯に浸かり、奴に貧相な裸体を見られる事は無い。
そして、逆に、俺は奴のあられもない姿を存分に見てやる事が出来るのだ。この心理的優位感は大きい。
もしも、藤岡の藤岡がなめこサイズだったら、「お可愛い事♪」と心の中で嗤ってやろう……そんな後ろ暗い事を考えながら、俺は彼の姿を探すが――浴場内に朦々と立ち込める湯気のせいで、なかなか彼の姿を見つける事は至難だった。
――と、その時、
「ああ、そこに居たのか、本郷くん」
洗い場の方から、聞き慣れた男の声が聞こえてきた。
……だが、
「……あれ?」
俺は、違和感を覚えて眉を顰める。
妙だ。俺に声をかけているにしては、なんだか声が遠い。
「……?」
俺は首を傾げながら、頭の上に乗せていた手拭いで股間を隠しつつ立ち上がった。
そして、声のした洗い場の方に歩み寄る。
真っ白い湯気の中、ぼんやりと二つのシルエットが見えてきた。
……どうやら、背を向けたひとりに、もうひとりが声をかけているようだ。
「どうしたんだい、本郷くん? 呼んでいるのに無視するなんて」
――どうやら、声をかけている方のシルエットが藤岡のようだ。
うん、何となく状況が見えてきた。
恐らく、藤岡は、洗い場に居た俺に声をかけているらしい。
……あれ?
でも、俺は今、湯船の中に居るじゃん。
(……じゃあ、藤岡は、一体誰に向かって声をかけているんだ?)
そう思った俺は、訝しげな顔をしながら、湯気の向こうに立っているもうひとりの影に向かってグッと目を凝らし――、
「……ッ!」
その背中がハッキリと見えた途端、息と心臓が止まりそうになった。
背中一面に鮮やかに描かれた、満開の牡丹の花と昇り龍……!
間違いない……藤岡が俺と間違えて声をかけていたのは――“はじめにヤが付く自由業”の方だ……ッ!
「ふ! ふふふふじお……」
「――んだぁ、テメエはぁ?」
「――ッ!」
慌てて藤岡の事を呼ぼうとした俺だったが、ヤク……道を極める人が上げたドスの効いた声を耳にした途端に恐怖で体が硬直してしまい、声も出せなくなってしまう。
熱々の湯船の中で、液体窒素に浸されたかのように凍りついている俺の目の前で、ヤ〇ザ男が藤岡に向かって詰め寄ってきた。
「んだよゴラ? さっきからオレの背中に向かってペチャクチャ喚きやがってよぉ? 喧嘩売ろうっていうんかワレェッ!」
ヤク〇男は、眉間に深い皺を寄せ、斜め四十五度に首を傾げながら、藤岡に向かってガンを飛ばす。
一方の藤岡は、訝しげに首を傾げた。
「……あれ? 君は本郷くんじゃないのかい?」
俺の方に背中を向けたままなので、藤岡の表情は分からない。だが、その口調は、いつもの藤岡と変わらない。こんなに至近距離で本職の極道にメンチを切られながらも、彼が動揺している様子は無かった。
そんな藤岡の落ち着き払った態度に、ヤ〇ザは僅かにたじろいだ素振りを見せるが、すぐに表情を一層険しくさせると、斜め下から藤岡の顔を見上げるように睨みつける。
そして、不機嫌と敵意の籠もった低い声で、藤岡を恫喝しようとした。
「あぁッ? 誰だよホンゴーってっ? そんなヤツ知らねえよ!」
「あ、そうなんだ」
ドスの効いたヤク〇の言葉で、自身の勘違いにようやく気付いたらしい藤岡は、チョコンと頭を下げる。
「それはスミマセンでした。良く見えなくて、知り合いと間違えてしまいました」
「あぁッ? 間違えましたじゃねえぞコノヤロー! 俺の風呂をジャマしやがって……テメエ、どう落とし前をつけてくれるつもりだ、オォッ?」
とぼけた謝罪にますます頭に血が上ったらしい〇クザは、こめかみに太い青筋を立てながら、藤岡に一層顔を近づけた。
そして、威圧するように藤岡を睨みつける……が、
「……うっ……うぅ……」
なぜか、喧嘩を売ってきたはずのヤ〇ザが、藤岡の顔を凝視したまま体を小刻みに震わせ始める。
「て……テメ……な、何だよその目……は……! お、オレにメンチを切りやがっ……て!」
「……めんち? いや、今日の晩ご飯は、メンチカツじゃなくて肉じゃがを食べましたよ?」
「そ、そうじゃねえよ……ッ!」
「あ、もうちょっと良く顔を見せてもらえませんか? 僕は目が悪くて、メガネを外すと全然見えなくって」
明らかに気圧されている様子のヤク〇にそう言いながら、藤岡は自分から更に顔を近づけた。
その瞬間、
「ひ……ひぃっ! こ……殺されるぅ~ッ!」
顔面が真っ青になった〇クザが、甲高い悲鳴を上げ、くるりと背を向けると、足を縺れさせながら脱衣所に向けて猛ダッシュする。
へっぴり腰の格好で一目散に逃げ出したヤ〇ザは、『お風呂場で走ってはいけません』と貼り紙された脱衣所の扉の前で派手にすっ転んで悶絶するが、それでも激しく打った腰を痛そうに擦りながら四つん這いになると、そのまんまの格好で脱衣所の中へと消えていったのだった。
「……」
俺は何が起こったか解らぬまま、ヤ〇ザが逃げ出す様を見送る。
と、
「……あ、そこにいるのは、今度こそ本郷くんだね」
唖然としている俺に、藤岡が声をかけてきた。
その声で我に返った俺は、当惑しつつコクンと頷く。
「あ……アッハイ。そ、そうっす」
「ああ、その声は確かに本郷くんだ。ようやく見つけたよ」
俺の返事を聞いた藤岡は、安堵した様子で肩を竦めた。
「いや、さっきの人には悪い事しちゃったなぁ。てっきり君なのかと思って、何度も声をかけちゃった。怒らしちゃったみたいけど……なんで急に出てっちゃったんだろう?」
「さ……さあ、どうしてでしょ……?」
藤岡に尋ねられた俺も、狐につままれたような思いで首を傾げる。
と、藤岡が急に顔を近づけて来て、俺はビックリして仰け反った。
「ふぁ、ふぁっ? ど、どうしたんですか、いきなり……?」
「いや……さっきもあの人に言ったけど、僕はめちゃくちゃ目が悪くてね。メガネをかけてないと全然見えないんだよ。声の感じから、君が本郷くんなのは間違いないと思うんだけど、念の為に君の顔を見て確認しておきたくてね……」
そう言いながら、藤岡は更に近付き、目を凝らして俺の顔を覗き込んでくる。
自然、俺も藤岡の目を見返した……次の瞬間、
「…………ひぃっ!」
俺は、絹を裂いたような悲鳴を上げながら恐怖で顔を引き攣らせ、咄嗟に目を背けた。
「……どうしたんだい? さっきの人と同じような反応をして?」
「あ……あの……ふ、藤岡さん……」
何とか焦点を合わそうと、更に目を鋭く凝らしながら訝しげに尋ねてくる藤岡の視線を一身に受けた俺は、暑いはずの浴場の中で背筋が凍りつくのを感じながら、震える声で言った。
「こ……こ、これからは……風呂だろうがプールだろうが、絶対にメガネを外さないようにした方がいいっすよ……」
「え? どうしてだい?」
「じゅ……十中八九、『殺人鬼みたいな目で周りを睨みつけてる人がいる』って、警察に通報されちゃうから……」




