第七訓 知ったかぶりはやめましょう
北武デパート7階の催事場エリア。
真っ白な壁にいくつもの絵画が掛けられ、その前で足を止めた来場客たちが、鮮やかな色彩で描かれた油彩画に感嘆の声を上げていた。
「……なるほど」
俺は、来場客の流れに乗るようにゆっくりと歩きながら、穏やかな笑みを浮かべる美女を描いた大きな絵を見上げ、ウンウンと頷く。
「さすが、『異常派の奇跡』展。これは素晴らしい――」
「……違うってば」
感じ入った体で呟く俺の顔をジト目を向けながら、立花さんは言った。
そして、手に持ったチラシを俺に示しながら、抑えた声で言葉を継ぐ。
「『異常派の奇跡』じゃなくって、『印象派の軌跡』展!」
「あ……ま、まあ……そうとも言う……」
「そうとしか言わないッて!」
彼女は顰めた声を荒げると、眉を顰めて俺の顔を睨みつける。
「まったく……大学生のクセに印象派も知らないの、アンタ?」
「い……いやぁ、そう言えば……高校の時、美術の時間に習ったような、習ってないような……」
彼女の呆れ交じりの問いかけに、俺は曖昧な苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
そんな俺の事を、冷たい目で一瞥した立花さんだったが、急にハッとした表情を浮かべた。
「って! そんな事はどうでもいいんだった! ホダカは――!」
彼女はそう呟きながら首を巡らせ、通路の先の方に目を凝らす。
俺も彼女の視線を追うようにして、人混みの流れの数メートル先へと目を向けた。
「……いた」
幸い、俺たちの目標――ミクと藤岡穂高の姿はすぐに見つかった。
ふたりは、俺たちから数メートル離れた壁に掛けられている、花畑の中で佇む日傘を差した女性を描いた油絵の前で立ち止まり、何やら言葉を交わしている。
「……」
俺と立花さんは目を合わせて頷き合うと、さも目の前の絵画に見入るフリをしながら、横目でふたりの事を監視……もとい、見守る事にした。
――藤岡は、油絵を指さしながら、何やら説明をしているようだ。その傍らで、ミクは藤岡の言葉に聞き入り、何度か小さく頷く。
そして、時折藤岡の方に顔を向けては、短い言葉を返していた。
「……」
俺は、そんなふたりの様子を見ながら、胸の奥に鈍い痛みが走るのを感じ、僅かに顔を顰める。
微笑み合いながら談笑するミクと藤岡のふたりが、甚だ不本意ながら、とてもお似合いのカップルのように見えてしまったのだ。
あんな楽しそうな表情を浮かべているミクの隣にいるのが自分じゃない事に、俺は何ともやりきれない思いを抱く。
同時に、ふたりがどんな会話を交わしているのか、その内容が無性に気になった。
俺はこっそり耳をそばだてるが、少し距離が離れているので、ふたりがどんな会話を交わしているのかまでは聴き取れない。
話の内容を聴くには、もっとふたりに近寄る必要があるが、そこまでするのは躊躇われた。
いかに会場内が薄暗くて、そこそこの入場客が居て、俺たちが変装をしているといっても、接近すればするほど、ミクたちに気付かれてしまうリスクが高まる。
万が一気付かれて、「あれ……? 何でそうちゃんがここに居るの?」なんて訊かれたら、何と答えればいいのか分からない。
それに……、
「……チッ!」
「……っ!」
その時、不意に傍らで鳴った舌打ちの音によって、俺の思考は遮られた。
慌てて横を見ると、立花さんがふたりの事をガン見しているのに気付いた。
目深に被った帽子でハッキリとは見えないが、その顔には般若もかくやという表情を浮かんでいるであろう事は、火を見るよりも明らかだった。
だって……ビグ〇ムの上に立って機関銃を乱射するド〇ル中将と同じような、黒い炎みたいなオーラが立花さんの全身から噴き上がっているのが確かに見えたんだもん。
「あ……あのさっ!」
気付いたら、俺は彼女に向かって声をかけていた。
すると、
「……なに?」
地獄の底から響いてきたようなドスの利いた声を上げながら、立花さんが俺の方にゆっくりと顔を向ける。
……怖っ!
目が完全に座ってて、今にもひと犯罪犯しそうなヤバい雰囲気を醸し出している……。
「そ……そういえばさ」
俺は、内心で彼女の形相にビビりつつ、懸命に笑顔を作りながら彼女に尋ねた。
「あ、あの藤岡穂高……さんって、大学三年生なんだっけ?」
「はぁ?」
俺の質問を聞いた立花さんは、呆れ交じりの声を上げる。そして、不機嫌を煮詰めて固めた様な顔で頷いた。
「そうだよ。慶安大学のナントカ学部の三年生。あの泥棒ね――アンタの幼馴染も同じ大学でしょ?」
「あ、う、うん。そうだったね……」
「さっき、ヨネダ珈琲でも言ったじゃん。もう忘れちゃったの? なに、実は中身はおじいちゃんなの、アンタ?」
「……スミマセン」
立花さんの辛辣な言葉に俺は憮然とするが、心の中で秘かに安堵していた。
何とか、彼女の気を逸らす事が出来たようだ。
あのままじゃ、そのうち完全に頭に血が上って、ふたりの元に特攻んでいきかねない雰囲気だったもんな……。
――と、相変わらず険しい表情を浮かべたままの立花さんが、僅かに首を傾げた。
「……で、それがどうしたっていうの?」
「……え? あ、いや……ええと……」
立花さんの問いかけに対し、俺は言葉に窮する。
今のは、彼女の気を逸らす為、咄嗟に口にした質問だったので、そこからどう話を広げるとかを全然考えていなかったからだ。
俺は、サングラスの奥で目を瞬かせながら、懸命に続ける話題を探す。
そして、相変わらずミクに対して熱弁を振るっている様子の藤岡の横顔を見て、ふと頭に浮かんだ疑問を口に出してみた。
「そ……そうだ。あのさ……あの藤岡さんって、美術とか絵画とかが好きな感じなの?」
「え?」
俺の問いかけに、立花さんは怪訝な表情を浮かべるが、すぐに首を横に振った。
「ううん、全然。ホダカが好きなのは、マンガとかアニメとかの方だよ。ほら……『テンピース』とか、その辺」
「あ……そうなんだ。いや……」
俺は、藤岡の趣味を知って、少し意外に思いながら言葉を継ぐ。
「彼女との初デートで美術展を選んだり、あんなに熱心に絵について解説してるっぽいから、てっきり絵画鑑賞が趣味かなんかなのかと……」
「あぁ……」
俺の言葉に、チラリとミクたちの方を見た立花さんは、ブスッと口を尖らせると、再びかぶりを振る。
「……あれは、見栄を張ってるだけだよ。初めて出来たカノ……女狐に、『実は僕、アニオタなんです』とは言えないじゃん。ヘタすればドン引きされちゃいそうだし」
「まあ……それは確かに」
立花さんの言葉に、俺は頷いた。俺自身も、どっちかというとオタク気質を持っているので、その藤岡の懸念は良く解る。
と、立花さんは更に言葉を継ぐ。
「……だから、ドン引きされないような無難なデート場所として、この美術展を選んだんでしょ。多分、あの娘にいい所を見せようと思って、印象派について予習もしてきたと思うよ。そういう所、昔からマメだから」
彼女はそう言うと、小さく溜息を吐いた。
そして、僅かに顔を伏せると、微かな声でぼそりと呟く。
「まったく……あたしが彼女だったら、全然そんな気を使わなくて構わないっていうのに……さ」
「……」
ふと彼女が漏らした、誰にも聞かせるつもりが無かったであろうひとり言をうっかり耳にしてしまった俺は、素知らぬ顔をするのに苦労するのだった……。




