第六訓 食べ過ぎたら、きちんと食休みを取りましょう
それから――。
ミクの幼馴染である俺と、ミクの彼氏である藤岡穂高の幼馴染である立花瑠璃は、軽食を摂ってから一階の“ヨネダ珈琲”を出たミクたちの後を、気付かれぬように距離を保ちながら尾行した。
エスカレーターに乗って、どんどんと上階へ上がっていくふたり――と、その後をつかず離れずの距離で尾けている、野球帽を目深に被った少女と中折れ帽にサングラスの男。
うん、怪しい。
自分で言うのもなんだが、傍目で見たら怪し過ぎる。多分、周りの買い物客たちからは相当不審がられていたんじゃないだろうか……?
でも、俺と立花さんは、そんな周囲の目に気を回す余裕もなく、数メートル先に居るそれぞれの幼馴染たちの後を追う事に必死だった。
そして、辿り着いたのは、デパートの7階フロアだった。
ミクと藤岡は、催事場のあるこのフロアでエスカレーターを降り、楽しげに会話を交わしながら、買い物客でごった返す連絡通路を歩いていく。
俺と立花さんもふたりの後を追おうとするが、沢山の人が行き交う沢山の人たちに行く手を遮られた。
それでも、何とか人混みを掻き分けるようにしながらふたりの背中を追う俺たちだったが、ここで異変が起きてしまう。
それは――俺の体調の急変だった。
「……もうっ! 何やってんのっ? これじゃ、ふたりの事を見失っちゃうよ!」
少し先を小走りで往く立花さんがちらりと振り返ると、目深に被った帽子の庇の奥から覗かせた目で、遅れがちになった俺の事を睨みつけながら小声で叱咤してきた。
俺は、彼女のまるで責めるような口調に思わずムカッとしたが、別のものが胃の腑から込み上げてきて、思わず口元を押さえる。
「う……うぇっぷ……。ご、ゴメン。ちょ、ちょっとヤバい……」
「うわっ。ちょっと、やめてよね! こんな所でリバースするとか……!」
立花さんは、俺の様子に顔を顰めながら憎まれ口を叩くも、肩からかけたポシェットの中から一枚のレジ袋を取り出すと、俺に向けて無造作に突き出した。
「ほら! どうしてもってなったら、それの中に出しなさい!」
「い、いや……さすがにそこまでは……」
即席のゲロ袋を渡された俺は、思わず顔を引き攣らせるが、再び胃の内容物がこみ上げそうになって、再び口元を手で押さえる。
「う……うぅ……油断すると、マジでリバースしちまいそうだ。さすがに食い過ぎた……」
「ホント、バカじゃないの、アンタ?」
前方に油断ない視線を向けたまま、立花さんが呆れ声を上げた。
「あのヨネダ珈琲で、よりにもよってカツカレーパンを注文するなんて……」
「い、いや、しょうないだろ!」
立花さんの言葉に、思わず俺は反論する。
「普通、カツパンって言ったら、せいぜい拳くらいの大きさじゃん。何だよ、あそこのカツカレーパン! 靴底くらいあったぞ!」
「ヨネダ珈琲のボリュームの多さは有名じゃん。これからホダカたちを尾行して歩き回る事が確定してんのに、そんなお腹にガッツリ溜まるものを注文する方が悪いよ」
俺の主張に、立花さんは冷たいジト目で返す。
そして、大きな溜息を吐きながら呆れ声で言った。
「それに……多いんだったら残せばいいじゃん。何必死で完食してるんだってハナシ。それでリバースしそうになってりゃ世話無いわ」
「だ、だって……もったいないじゃん! それに、食べ物を粗末にしたらバチが当たるんだぞ!」
「田舎のおばあちゃんかアンタは」
立花さんはそうツッコむと、自分で言った事がツボにはまったのか、歩きながらクスクスと笑い出す。
俺は憮然として言い返そうとするが、息を吸い込んだ途端、胃が圧迫されたせいで中身のカツカレーパンが喉まで込み上げてきた。
危ういところで破滅的な決壊を免れた俺は、荒い息を吐きながら通路脇に設置されたベンチを指さした。
「な、なあ……ちょっと、そこのベンチで休まない? 多分、少し座れば、胃の中のむかつきも収まると思うから……」
「はぁ? そんなのダメに決まってるでしょ!」
だが、立花さんは俺の必死の懇願をにべもなく却下し、行き交う通行人たちの間に見え隠れする男女二人連れの後ろ姿に向けて顎をしゃくる。
「こんな所で休憩してたら、ホダカたちの事を見失っちゃうじゃない!」
だが、そう鋭い声で言った立花さんは、ふと何かに気付いたように表情を変えると、ひとりで大きく頷いた。
「あ、そっか。そもそも、別にアンタと一緒に行動する必要なんか無いんだ。――じゃあ、アンタひとりで、好きなだけそこで休憩してればいいじゃん。あたしは、ふたりの事を尾けて、あの女狐がホダカに変な事をしないように見張っとくから」
「……却下だ!」
俺は、立花さんの提案に対し、断固とした態度で拒絶の意志を示し、憤然と背筋を伸ばした。
そして、喉と横隔膜あたりに力を込めて、胃の中身が飛び出さないように意識する。
……よし、大丈夫だ。これならいける気がする。
「無理しない方がいいんじゃないの?」
そんな俺に、気遣ってるのか揶揄っているのか分からない調子で、立花さんが声をかけてきた。
俺は、そんな彼女の顔をジロリと見て答える。
「大丈夫だよ。俺だって、ミクの事を見守りたいし。食い過ぎたくらいでへばってられないよ」
俺は、そこまで言ってから一旦口を噤み、隣を歩く気の強そうな女の子の横顔をジロリと一瞥してから「それに――」と続けた。
「……何だか、君を一人にしたらとんでもない事をやらかしそうな、嫌な予感がするんだよなぁ」
「はぁ? 何それ?」
立花さんは、俺の言葉に露骨に顔を顰める。
そして、敵意剥き出しの目を俺に向けながら、険しい声色で言った。
「じゃあ聞くけど、『とんでもない事』って、具体的にはどんな事だっていうの?」
「どんな事って……。まあ、例えば――ふたりの距離が物理的に縮まったら、その間に身体を強引に割り込ませて、ミクの事を蹴り飛ばしたり……とか?」
俺は、さすがに無いだろうと思いながら、少しだけ誇張した予測を述べる。
すると、彼女は、さも不服そうに「はぁ?」と語尾を半音上げると――大きく頷いてみせた。
「うん。まあ、そのくらいは普通にするでしょ。ていうか、全然とんでもない事じゃ無くない?」
「……」
涼しい顔でそう言ってのけた立花さんに対し、思わず頬を引き攣らせた俺は、
(……絶対に目を離さないようにしよう。――この娘から)
と、固く心に誓うのだった……。