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第三百十九訓 夢と現実をごっちゃにするのはやめましょう

 「う、うえええぇっ?」


 トイレのドアの向こうから聞こえてきたスマホの着信音に、俺は狼狽の声を上げた。


「こ、このタイミングぅ?」


 ――『ま、まあ、そんなタイミング悪く電話なんて来ないやろ……』と安易に考えてトイレに入った己の判断と、正に“そんなタイミング”で着信が来てしまった運の悪さを呪いながら、俺は急いで()()を切り上げようとする。

 ……だが、一度始まった()()は、なかなか終わってくれなかった。

 『気を付けよう 尿意は急に 止まらない』――鳴り続けるスマホの着信音に急かされる俺の脳裏に、最悪の標語(シモネタ)が浮かぶ。

 絶望感を覚えながら、何とか膀胱の中身を出し切った俺は、後ろのタンクのレバーを下げてトイレの水を流しつつ、便座から腰を浮かせた。

 そして、ズボンを上げる間も惜しんでドアを開け、暗闇の中でスマホが画面が煌々と光らせながら“ピロリン ピロリン”と鳴り続けているのを確認する。


「は、早く出ないと……痛ってぇ!」


 スマホが置いてあるベッドに向かう途中でローテーブルの角に思い切り脛をぶつけた俺は、激痛で涙目になりながら、半ば倒れ込むようにベッドに飛び込んだ。

 涙目でテーブルの角にぶつけた脛を右手で擦りつつ、俺は枕元のスマホを左手で取る。

 手にしたスマホの画面に表示されていたのは――予想通り、ルリちゃんから着信が来ている事を報せるものだった。

 それを見た瞬間、俺の胸の中で、心臓が激しく跳ねたのがハッキリと解る。

 モタモタしてたら切られてしまう――そう考えた俺は、急いで画面の“応答する”ボタンを押そうと指を伸ばす――が、


「う……」


 ついさっき見た悪夢の光景が頭を過ぎり、躊躇してしまう。

 ――『もう、友達としても無理。顔も見たくない』という声をかけられた時の喪失感と絶望感が蘇り、思わず鳴り続けるスマホを放り出したくなった。

 ……だが、


「だ……大丈夫だ。あれはタダの悪い夢だ」


 俺は、そう自分に言い聞かせる。


「本当のルリちゃんは、あんな事は言わない! ……はず…………多分……」


 自分を奮い立たせようと口に出した途端に、まるで穴が開いた風船のように萎んでいく自信。

 それでも、なけなしの勇気を振り絞って、俺はスマホの“応答する”ボタンをタッチした。

 鳴り続けていた着信音が消えたのを確認した俺は、ゴクリと唾を呑んでから、恐る恐るスマホを耳に当てる。


「も……もしもし……?」

『…………あ、で……出たっ?』


 俺が緊張にまみれた声で呼びかけてから一拍ほど置いて、少し上ずったルリちゃんの声がスピーカーから聞こえてきた。


『そ……ソータ……ですか?』

「は、はい……そ、そうです」


 なぜか、初対面のように敬語で会話する俺たち。


(いや……初めて会った時から、ルリちゃんはタメ語で話してたな……)


 そんな事をぼんやり考えながら、俺は彼女の次の言葉を待つが……スピーカーの向こうからは何の声も返ってこない。


『…………』

「…………」


 そのまま、気まずい沈黙が続いた。


「……?」


 一向に応答がない事を不審に思った俺は、意を決して、おずおずと自分から声をかける。


「も……もしもし……? 聞こえてま――」

『あ! う、うんっ! ききき聞こえてるよっ!』


 俺の呼びかけの途中で、ルリちゃんの声が食い気味に返ってきた。

 だいぶテンパってはいるものの、彼女からちゃんと返事が返って来た事に、俺はホッとしながら、とりあえず電話に出るのが遅くなった事を謝る事にする。


「あ……あの、る……()()()()、その……すぐ電話に出れなくてスミマセンでした」

『……は?』


 俺の謝罪に対して返ってきたのは、訝しげな声だった。


『なに、それ?』

「だ、だから……俺が電話に出るまで結構待たせちゃっただろうから、申し訳ないと思って……」

『いや、そっちじゃなくて』


 俺の答えに、少し苛立った響きの混じった声が上がる。


『さっき、あたしの事“立花さん”って呼んでたじゃん。なんでいきなり名字呼び?』

「え? あ、その……」


 ルリちゃんの問いかけに言い淀んだ俺は、恐る恐る答えた。


「さ、さっき……君に、『ルリちゃんって呼ぶな』って言われたから……」

『え? あたしが呼ぶなって?』


 俺の答えに、驚きと当惑が入り混じった声を上げるルリちゃん。


『えっと……全然覚えがないんだけど……いつ言ったの、そんな事?』

「あ……いや、君じゃなくって……さ、さっき見た夢の中に出てきた君にそう言われて……その……」

『はぁ?』


 スピーカーの向こうから、今度は呆れ果てたのがありありと伝わる声が聴こえてきた。


『夢の中に出てきたあたし……って事は、あたしじゃないじゃん』

「ま、まあ……そうなるね」

『あんたが勝手な想像で作ったあたしが言ってたからって、あたしを名字で呼んだって事?』

「は……はい……そういう事っス」


 頭を掻きながら、俺はコクンと頷いた。


「……『アンタなんかに名前で呼ばれたら虫唾が走る』って言われた事が頭に引っかかってて、それで名前で呼べなくなったというか……」

『……バカだなぁ、ソータは』


 返ってきたルリちゃんの声は、呆れ声だったけど……何となく柔らかい響きが籠っている。


『あたしが、あんたにそんな事言う訳無いじゃん。そもそも……“ムシズ”だっけ? そんなムズカシイ言葉知らないし』

「あ、そっか、確かに」

『オイ、そこで納得すんな』


 ムッとした声を上げたルリちゃんは、小さく息を吐いてから『とにかく……』と続けた。


『あたしは全然嫌には思ってないから、今まで通り名前呼びでいいよ。っていうか、なんかよそよそしく感じてイヤだから、もう名字で呼んじゃダメ。分かった?』

「あ……う、うん」


 ルリちゃんの言葉を聞いて、『さっきの夢は逆夢だった』と確信した俺は、心の底からホッとする。

 ……安堵した事で少し心に余裕が出来た俺は、急いでトイレから出てきたせいで、穿いているズボンとパンツが際どい位置までずり下がっている事に気付いた。

 そんな恰好でルリちゃんと会話している事が、今更のように恥ずかしくなった俺は、慌ててスマホの向こうの彼女に告げる。


「あ……ご、ごめん、ルリちゃん。ズボンとパンツを穿き直すから、ちょっとだけ待ってて」

『フわァッ?』


 俺の言葉を聞いたルリちゃんが、素っ頓狂な声を上げた。


『ず、ズボンとぱ……パンツを、は……穿き直すって、ど……どういう状況っ?』

「えっ? ど、どういう状況って……そりゃ――」

『ま、まさか……そ、()()()()()してたのっ?』

「えっ? そ……そういう事って……どういう事……?」

『ど、どういうって……そりゃ……って! おっ、女の子に何言わせようとしてるのよッ、このガッツリスケベぇッ!』

「い、いやいやいやいや! ち、違うよッ! なにとんでもない勘違いしてるんだよ! このムッツリスケベぇッ!」


 俺とルリちゃんは、互いに焦りまくりながら、大いにテンパりまくるのだった……。

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