第二百六十八訓 就職活動は早めに始めましょう
「な……な?」
濃紺のスーツを着た藤岡の姿を見た俺は、ポカンと口を開けた。
「な……なんで、アンタ……藤岡さんがこんなところに居るんすか?」
「ああ、実はね……」
いつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべながらこちらに近付いてきた藤岡は、小洒落た柄のグレーのネクタイを緩めながら俺の問いかけに答える。
「この近くにある会社のインターンシップに参加してたんだ。それが終わって駅に向かって歩いていたら、偶然本郷くんの姿を見つけて、声をかけたんだよ」
「インターンシップ……?」
聞き慣れない単語を耳にして、首を傾げる俺。
そんな俺に、藤岡は嫌な顔一つせず答える。
「就職希望の企業がどんな感じなのかを知る為に、実際に中に入って体験するっていう……要するに、就職活動の一環ってやつだね」
「就職活動……っすか?」
藤岡の説明を聞いた俺は、思わずビックリした。
「もうですか? だって……藤岡さんって、まだ大学三年生ですよね?」
「ああ、そうだよ」
俺の問いかけに頷いた藤岡は、「でもね」と言葉を続ける。
「確かに、本格的な就職活動は四年になってからだけど、今の内から色々と動いておくのが普通なんだって就職課に言われたからしょうがなく、ね」
そう言って苦笑を浮かべた藤岡は、少し声を潜めて「……正直、めんどくさいだけだけどね」と付け加えた。
そのおどけた口調に思わず吹き出しかけながら、俺は「大変すね……」と応える。
それに対してウンザリ顔で「本当だよ……」とボヤいた藤岡だったが、俺の顔を見てニヤリと笑いかけた。
「でも、来年は三年になるんだから、君も他人事じゃないぞ。来年覚悟しとけ」
「げ……そういえばそうか……」
藤岡の言葉に思わず頬が引き攣る。
来年には、俺も就職活動を始めなきゃいけないのか……。うーん……全然実感が湧かない。
――と、
「……ところで」
藤岡は、ふと俺の横に視線を移し、俺に尋ねた。
「隣の人は……君のご友人かい?」
「え?」
「アッヒャイッ!」
訊ねられた俺が、彼の視線を辿って横を向く前に、素っ頓狂な返事が上がる。
見ると、身を小さく縮こまらせて俺の背中に隠れた一文字が、何度も首を縦に振っていた。
「そ、そうでありますっ! ぼ、ボクこそが本郷氏の無二の心ゆ――」
「あ、コイツは、たまたま講義が同じな事が多いだけな、赤の他人の一文字ってヤツです」
「ほ、本郷氏ぃっ?」
簡素にして正確な紹介に抗議の声を上げる一文字の事は無視して、俺は藤岡にペコリと会釈する。
「……って事で、これで失礼します。就職活動頑張って下さい」
そう告げて、くるりと踵を返そうとしたが、
「あ、本郷くん、ちょっと待って」
藤岡は、そんな俺の事を呼び止めた。
「久しぶりに会ったんだから、どこかで一緒にご飯でもどうかな? 奢るよ」
「え……?」
俺は、藤岡の誘いの言葉に当惑の声を上げる。
……正直、当惑というより迷惑だった。ミクの事は諦めたとはいえ、それでもかつて片想いしていた幼馴染の今カレと楽しく飯を食えるほど、俺は人間が出来ちゃいない。
まあ……“奢り”という単語には惹かれるけど。
俺は、そんな事を考えつつ、出来るだけ波風が立たぬよう表情を消してかぶりを振った。
「……いえ、いいっす。お構いなく」
「遠慮しなくていいよ。ちょうどバイト代が入ったばかりで、懐は温かいんだ」
そう言いながら、藤岡はスーツの胸を軽く叩いてみせる。
そして、俺の背中に隠れている一文字に向けてニコリと微笑みかけた。
「一文字くんだっけ……君もどうだい? さすがに、あんまり高い店は難しいけど、それでも良ければ」
「ふぁ、ふぁいっ?」
急に藤岡から声をかけられた一文字は、ビックリした顔で目をパチクリさせる。
「ぼ、ボクも……ボクもいいんですか? た、確かにボクは本郷氏とは心友な間柄ですけど、あ、アナタとはここで会ったばっかりですが……?」
「ああ、もちろんさ」
一文字の問いに、藤岡は満面の笑みを湛えたまま大きく頷いた。
「本郷くんの親しい友達なら大歓迎だよ。君さえ良ければ、喜んで」
「はい喜んでぇっ!」
藤岡の快諾を受けた一文字は、どこぞの居酒屋バイトのような声を上げて顔を輝かせる。
そして、興奮した様子で俺の手を引っ張った。
「本郷氏! さあ行こう! 三人で存分に親交を温める事にしようじゃあないかッ!」
「ちょ……ちょっと待て! 放せって!」
俺は、手汗でぐっしょりと濡れた一文字の掌の感触に顔を顰めながら掴まれた手を振り払い、キョトンとした顔をしている藤岡を横目で見つつ、一文字に声を荒げる。
「行くならお前ら二人で行けよ! 俺は帰る!」
「ちょ! ちょちょ、後生だから待ちたまえよ本郷氏!」
一文字が、さっさと立ち去ろうとする俺のズボンのベルトを掴んで、必死に引き止めてきた。
そして、俺の耳元に顔を近付け、小声で囁きかける。
「……ちょうどいいじゃあないか。キミの悩みを解消できるチャンスかもしれないよ!」
「は? どういう事だってばよ?」
俺は、一文字の言葉が気になり、思わず訊き返した。
一文字は、小さく頷くと、
「キミ、JKと出かける時の服装に悩んでいたじゃあないか。だったら、あの人に相談すればいいんじゃないかな?」
と言いながら、藤岡のスーツ姿を指さした。
「あんなにスーツをカッコよく着こなしているんだから、ファッションセンスも良さそうじゃないか。ハンサムだから、色々と経験も豊富そうだし……」
「そ……そんな事出来るか! だって、アイツはミクの――」
『ミクの彼氏で、ルリちゃんの幼馴染だぞ!』と言いかけた俺だったが、途中で口から出かけた言葉を呑む。
ふと、ある考えが頭を過ぎったのだ。
(ひょっとして……ルリちゃんの幼馴染なら、彼女のファッションの好みも分かるんじゃないだろうか?)
という考えが――。




