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第二百二十九訓 人を待たせたら謝りましょう

 

 「やあ、おまたせ」


 そんな呑気な声を上げながら、ようやく藤岡が廃墟から戻って来たのは、俺たちと別れてから一時間半以上も経ってからだった。


「随分遅かったっすね……」


 いい加減、スマホをにらめっこするのにも飽き飽きしていた俺は、半分開けた運転席のドアから顔を覗き込ませた藤岡の顔をジト目で見る。

 そんな俺の冷たい視線を一身に受けながらも、全く意に介していない様子の藤岡は、ムカつくくらい清々しい微笑みを浮かべながら「いやぁ、ゴメンゴメン」と軽く頭を下げてきた。


「本当はもっと早く切り上げるつもりだったんだけど、つい『あともう少しだけ粘ろう』って魔が差しちゃってね……。気付いたら、こんな時間になっちゃってたよ」

「いや……心霊スポットで『魔が差して』って……縁起でも無さ過ぎるんですけど……」


 俺は、あっけらかんとした藤岡の言葉に呆れ声を漏らす。

 だが、同時に不吉な想像が頭を過ぎって、口の端が引き攣った。


「ま、まさか……実はなんか変なものに取り憑かれて操られてます……とか、あったりします?」

「ははは、心配しないで大丈夫だよ」


 震え声で恐る恐る訊ねる俺に、藤岡は苦笑しつつかぶりを振る。

 そして、少しガッカリした表情を浮かべながら言葉を継いだ。


「取り憑かれるどころか、めぼしい現象はほとんど起こらなかったよ。せいぜい、廊下の向こうから足音が聞こえたような気がしたり、耳元で女の人の声が聴こえたかな~って感じたくらいだね」

「いや……それ、結構な怪奇現象だと思うんですけど……」


 呑気なツラでとんでもない事を言い出す藤岡にドン引きしながら、俺は思わず彼の背後に目をやり、不気味な影がのしかかってたりしないか確認する。

 ……と、


「そんな事はどうでもいいから、早く行こうよ、ホダカ」


 唐突に不機嫌そうな声が上がった。

 その声の響きに剣呑なものを感じた俺は、慌てて助手席の方に顔を向ける。

 藤岡も、さすがにルリちゃんが醸し出す尖ったナイフのようなオーラに気付いた様子で、


「ああ、ゴメンゴメン。今着替えるよ」


 と声をかけ――それから、彼女に聞こえないように潜めた声で、こっそり俺に尋ねた。


「……どうしたんだい、ルリは? 随分と御機嫌斜めみたいだけど……」

「あぁ、まあ……」


 藤岡に問いかけられた俺は、答えに困る。


『そうだよね……ミクさんともだけど、ホダカとの関係も変わっちゃうんだよね、あたしが告白したら確実に……』


 ――結局、あの言葉を最後に、ルリちゃんはずっと黙ったままだった。……まあ、無理もない。

 何せ、これから自分が起こそうとしている行動によって、子どもの頃から秘かに恋い慕っていた幼馴染の藤岡や、その彼女だけど親しい友達でもあるミクとの関係が変わってしまうかもしれないのだ。

 思い悩むなというのは、無理な相談だろう……。


 そのせいで、車内の空気は重たい事この上なく、その気まずい沈黙の中でひたすらスマホをいじりながら、俺は藤岡の帰還を今か今かと待ち焦がれていたのだ……。

 そんな俺の気苦労を知る由もない藤岡は、心配そうな顔で「ひょっとして……」と続ける。


「僕が一人検証をしている間……君たち、ケンカでもしたのかい?」

「いや……違いますけど……」


 俺は、見当違いも甚だしい藤岡の言葉に思わずイラっとしながら、ぶっきらぼうに答えた。

 思わず、『アンタのせいだよッ!』と叫びそうになった俺だったが、すんでのところで自制して、喉まで出かかった声を飲み込む。

 ――と、その時、


「……なにをふたりでヒソヒソ話してんのさ」

「「――っ!」」


 まるで地獄の底から響いてきたかのような低い声を耳にした俺と藤岡は、思わずビクリと身を震わせ、おずおずと助手席の方に目を遣った。

 そんな俺たちに顔だけ向けたルリちゃんは、絵に描いたような仏頂面で藤岡に言う。


「いいから、早く着替えてきて、ホダカ。――何か食べに行こうよ。あたし、お腹空いちゃった」

「あ、あぁ……そういう事か……」


 ルリちゃんの言葉を聞いた藤岡は、合点がいったという顔になって、ホッと息を吐き、それから柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。


「ああ、分かったよ、ルリ。じゃあ、ちょっとさっきの木陰で着替えてくるよ」

「……あっ」


 藤岡の言葉に、ルリちゃんは小さな声を上げる。

 そして、なぜか頬を真っ赤に染めながら、小さな声で言った。


「べ……別に……あ、あそこまで行かなくても……こ、ここでちゃっちゃと着替えてもい、いいんじゃないかな……?」

「あぁ、そうかい? じゃあ、お言葉に甘えて――」

「いやいやいや、そこは甘えちゃダメでしょッ!」


 俺は、ルリちゃんの言葉に軽く頷いて、その場でツナギのチャックを下ろそうとした藤岡を慌てて制止する。


「さ、さっきも言ったでしょうが! る、ルリちゃんはもう年頃の女の子なんですから、少しは気を遣ってあげて下さいッ!」

「でも、当のルリ本人がいいって言ってるんだから……」

「本人がいいって言ようが、ダメなものはダメですって!」


 俺は、藤岡の声を途中で遮ると、後部座席に置いてあった彼の着替えを引っ掴み、投げつけるように渡した。


「ほらっ! つべこべ言わずにさっさと着替えてきて下さいッ! ルリちゃんが餓死しちゃう前に!」

「わ、分かったよ……」


 俺の必死の剣幕に気圧されたのか、藤岡は素直に頷くと、着替えを持ってそそくさと木陰の方に向かう。


「ふぅ……」


 その後ろ姿を見送りながら、俺はやれやれと安堵の息を漏らした。


「……ちぇっ」


 ……助手席の方から上がった舌打ちには聞こえなかったフリをして。

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