第二訓 溜息は幸せが逃げていくのでやめましょう
「はぁ……」
その日の夜。
自宅であるワンルームマンションに帰ってきた俺は、小さなテーブルに置いた夕食のカップラーメンとにらめっこしながら、この日89回目の溜息を吐いた。
溜息の理由は、言うまでもない。
「何だよ……ミクの奴……」
俺は、半分開けたカップ麺の蓋の間からゆらゆらと立ち上る湯気をボーっと見つめながら、うわ言のように呟いた。
「か――『彼氏が出来た』って……」
おかしい。こんな事は許されない。
「なんで……何で俺がいるのに、彼氏なんかが出来るんだよ? つうか……“彼氏”って、実質俺じゃん!」
思わず声を荒げるが、その叫びに応える者はこの部屋にはおらず、俺の絶叫は狭い部屋に虚しく反響しただけだった。
俺は、忌々しげに頭を抱えると、癖毛がちの髪の毛を乱暴に掻く。
そして、テーブルの端に置いたスマホを手に取ると、アルバムのアイコンをタッチした。
「……」
俺は、表示されたサムネイルを指でスワイプしながら、記録されている写真を過去へと遡らせていく。
そして、四年ほど遡ったところで一枚の画像をタッチする。
そこには、伸ばした黒髪を後ろで束ね、今より幼い顔をしたミクが、満面の笑みを浮かべてピースサインをしていた。
「ミク……」
俺は、スマホの小さな画面に映るミクの姿に思わず顔を綻ばせると、そこから次々と画像をスクロールし始めた。
そして、料理の写真や風景写真に混ざるようにして残っている、ミクが写った画像を見つける度に、スクロールする手を止めてじっくりと眺める。
撮影日時が現在に近付くにつれ、写真に写るミクはポニーテールからショートボブになり、子どもっぽかった顔がだんだんと大人びていく。
そして、雲一つない青空の元、『卒業式』という立て看板がかかった校門の横にすまし顔で立つ制服姿のミクの画像が、スマホに保存されていた最新の画像だった。
思えば、ミクが高校を卒業した時が、ちゃんとあいつに会った最後だったなぁ。――今日会うまでは。
そう考えた瞬間、昼間のあの時の情景が、脳裏にフラッシュバックする。
――『そうちゃん、私ね……彼氏が出来たのッ!』
「ぐぅっ……!」
全く思い出したくなかった光景を思い出してしまった俺は、胸の辺りを押さえながらテーブルに突っ伏した。
……辛い。
「はぁ……」
この日90回目の溜息を吐いた俺は、ムクリと身を起こす。
――その時、
“ピロリン”
スマホから、独特なチャイム音が聞こえた。
「――ッ!」
その音が、メッセージアプリ“LANE”の通知音だと気付いた俺は、慌ててスマホを手に取り、点灯した液晶画面に『“MIKU-chan”さんからの新着メッセージがあります』というポップアップが表示されているのを見ると、思わず息を呑む。
言うまでもなく、“MIKU-chan”とは、ミクのLANEID名である。
俺は、急いで“LANE”のアイコンをタップした。
緑色のロゴマークが映し出されてから、ホーム画面が表示されるまでの僅か数秒をやきもきしながら待ち、ようやく“MIKU-chan”のトーク画面が開くや、食い入るようにスマホを凝視する。
そこには、
『そうちゃーん! 今日はありがと!』
という短いメッセージと、ペコリと頭を下げる可愛らしいクマのキャラのスタンプが張りつけられていた。
と、すぐに新しいメッセージが表示される。
『突然で驚かせちゃったみたいだけど、おめでとうって言ってくれて嬉しかったよ~』
「あぁ……そういえば……」
確かに、あまりの衝撃でぼんやりとした意識の中、そんな言葉をミクにかけたような気がする。もっとも、心の中では、全然そんな事は思っていなかったんだけど……。
――ぶっちゃけ、変にカッコつけて『おめでとう』なんて言わずに、自分の心に正直になって『本当は、ずっと前からお前の事が好きだったんだ! 頼むからその男と別れて、俺と付き合って下さいお願いします!』って叫びながら、スライディング土下座でもした方が良かったのかもなぁ……。
……なんてバカみたいな事を考えている間に、三度通知音が鳴る。
新たに届いたミクのメッセージは、こうだった。
『明日頑張るから、そうちゃんも応援しててねー』
「明日……」
スマホの画面を見つめながら、俺はぼそりと呟く。
そして、次の瞬間、
「――明日ッ!」
目を飛び出さんばかりに大きく見開き、昼間のミクが話していた言葉を思い出す。
『それでね……明日、いっしょに出かける約束したの。か、彼……えと、ホダカさんと』
上の空――というか、ミクに彼氏が出来た事がショック過ぎて、半分意識を飛ばした状態で聞いていたせいで、ミクがそんな事を言っていたのをすっかり忘れていた。
……つか、ホダカとかいうのか、クソ彼氏。
何だか、「どすこーい!」とか言いながら四股でも踏んでそうな名前だ……。
――って! そんな事はどうでもいい!
彼氏になった男と一緒に出かける。それは即ち――、
「デ――――トって事じゃねえかこの野郎ォォォッ!」
俺は頭を抱えて絶叫すると、そのままゴロゴロと床を転がりながら、うわ言のように言葉を継ぐ。
「デ! デデ、デートって事は、ふたりで一緒に歩いて、その内そっと手を繋いで、肩がぶつかったりして『あ……ゴメン』『う、ううん……いいの(ポッ)』とか言い合ったり、日が暮れたら、綺麗な夜景が見える丘の上で肩を抱き寄せられてき、キキキキッスしたり、そのまま盛り上がってシッポリとラブな外泊施設にしけ込んで大人の階段昇っちゃったりするアレじゃね――かっ!」
ダメだ! それはダメだ!
ガキの頃からずっと一緒だったミクが、俺以外の……どこの馬の骨とも分からない野郎とアーンな事になるなんて……耐えられないッ!
い……一体、どうしたら……ッ!
「そういえば……明日……どこに行くって言ってたっけ、アイツ……ッ!」
耐え難い焦燥に駆られながら、俺はそう独り言ちると、昔テレビで観た推理ドラマの刑事がやっていたように眉間へ人差し指を当てて、昼間の牛丼屋でのやり取りを懸命に思い出そうとする。
「ん~……確かあの時……そう! 美術展!」
そうだ、思い出した。
ミクは、明日まで北武デパートで開催してる『異常派のキセキ』展だか何だかを彼氏と一緒に観に行くって言ってた……!
「確か……北武デパートの炎獅子像の前で待ち合わせするって……」
俺はブツブツ言いながら、脳味噌をフル回転させ――一つの決断を下した。
――明日、彼氏とのデートに出かけるミクの後をこっそり尾行する事を!
もちろん、ミクが楽しみにしているデートを妨害したりぶち壊したりする気は無い。いかに俺といえど、そこまで性根は腐っていない……はずだ。
ただ、“ホダカさん”という、ミクの彼氏になったという男の事を、どうしてもこの目で見たかった。
見てどうするつもりなのかは……ぶっちゃけ、自分でも良く分かってないけど。
「……よし」
そうと決めてからは、不思議と気持ちが落ち着いた。多分、『覚悟が決まった』とか『肝が据わった』みたいな感じなんだろうな……。
すると、俺の腹の虫が、盛大な声を上げた。
「あ……腹減った……」
俺は猛烈な空腹感に襲われ、
「あ……!」
それと同時に、夕食の準備をしていた事も思い出した……。
ハッとしてテーブルの上に視線を向けると、すっかり俺に忘れられていたカップ麺が寂しそうに佇んでいた。
「やっべ……」
俺は、心の中が絶望の深い闇に覆われていくのを感じながら、恐る恐る半分開けていたカップ麺の蓋を取り去る。
――容器の中には、いつもの数倍の太さに膨張した麺が所狭しと詰まっており、なみなみと注いだはずのお湯は、跡形も無く干上がっていた。
「うげ……」
俺は、変わり果てたかつてカップラーメンだったものを見下ろし、沈痛な呻き声を上げる。
「……延びてやがる。遅すぎたんだ……」
思わず、融け崩れる巨〇兵を目の当たりにした中年副官のように嘆いた俺は、この日91回目の大きな溜息を吐き、浮腫み切った麺のなれの果てを箸で持ち上げ、恐る恐る啜った。
「……不味っず」