第十九訓 理性はきちんと保ちましょう
駅構内を歩く人波に逆らうように小走りで駆け寄ってきたミクは、ずり落ちかけたショルダーバッグを肩に掛け直しながら、俺に向かって微笑みかけた。
「ちょっと寝坊しちゃって、電車を一本乗り過ごしちゃったんだ。それで慌てて走って来たから、息が切れちゃったよ」
「あ……そ、そっか……」
ミクの言葉に対し、声を上ずらせながら答えた俺は、左胸の心臓がバクバクと音を立てるのを感じながら、ミクの屈託の無い笑顔に思わず見惚れていた。
今日のミクは、五分袖の白いブラウスに細い肩紐で吊ったベージュのロングスカート……確か、キャミワンピだか何だかいう服を着て、その下には低いヒールのサンダルを合わせるという、いかにも初夏という涼やかな格好をしていた。高校生の頃は、もっと適当な……もとい、中性的な格好をしていたのに……。
前に会った時……つまり、『彼氏が出来た』と告げられた、思い出したくもない忌々しい日と同じように、顔には薄く化粧を施していたが、決してけばけばしくはない。まだ十八歳になったばっかりだし、元々の素材がいいから、ナチュラルメイクでも充分なのだろう。
……本当に、大学に入った途端、一気に女らしくなった。
これも――好きな人が出来たからなのだろうか……?
そう考えてしまった俺は、辛い現実を目の当たりにした事が苦しくて、思わず胸を手で抑える。
――と、
「……どうしたの、そうちゃん? お腹でも痛くなっちゃった?」
「へ……? あ、いやいや、大丈夫大丈夫! 何でもないです、ハイ!」
心配そうな顔をしたミクに尋ねらかけられた俺は、目をパチクリさせながら、慌てて首と手を大きく横に振ってみせた。
うーん……自分で言うのもなんだが、明らかに何でもなくない反応だ。誤魔化すのヘタか、俺……。
「そう……なら、いいんだけど」
だが、そんな俺の言葉を、ミクは『悪い奴らにあっさり騙されちゃうんじゃないか?』と、今後が心配になる素直さであっさりと信じた様子である。
――そして、そのままジッと俺の顔を覗き込んだ。
「……っ? へっ……? な、なに……?」
ミクの円らな瞳に見つめられた俺は、すっかりドギマギしてしまい、舌を縺れさせながらおずおずと訊ねる。
そんな俺の問いかけに対し、はにかみ笑いを浮かべたミクは、どこか照れくさげに答えた。
「あ……ううん。なんだか、いつもと違う感じだなぁ……って」
「ち……違う? どこが……?」
ミクの言葉に戸惑いながら、俺は更に訊き返す。
すると、ミクは「えっとね……」と呟くと、ちょこんと小首を傾げながら答えた。
「なんかね……格好がオシャレになった」
「あ……」
俺は、ミクの答えを聞いて、思わず自分の身体を見下ろし、苦笑する。
「そ……そうかな?」
「そうだよー。前は、高校の時にはヨレヨレのTシャツとか着てたじゃない? 中学の頃のジャージとかも……」
「あ……いや……まあ、確かに、そんな事もあった……かも」
ミクの指摘に、俺は返す言葉も無い。
確かに、前はそうだった。ファッションとかにはとんと無頓着だった上に、幼馴染だからと気を緩ませて、ミクの前では適当極まる格好ばかりしていた。
――というか、ぶっちゃけ、中学の頃のジャージは、今でも出掛ける時にチョコチョコ着てたりする……。身体が大きくなったせいでちょっときつくなったけど、結構重宝してるんだよね、あのジャージ……丈夫だしさ。
そんな事を考えながら、リアクションに困る俺の姿をしげしげと見つめていたミクは、ニコッと微笑みながら言った。
「うん、カッコいいよ、そうちゃん」
「ふえっ? ま、まままマジっすか?」
ド直球なお褒めの言葉を頂き、俺は大いに照れながら、それを誤魔化そうとして、乱暴に頭を掻いた。
そのせいで、さっきせっかく苦労して整えた髪の毛がみだれてしまう……。
と、
「あー、せっかくカッコよく決まってたのに、ダメだよう」
ミクがそう言いながら、おもむろに俺の頭に手を伸ばし、髪の毛を撫でつけ始めた。
「ふぁ、ファ―ッ?」
目の前数十センチまで接近したミクの顔と、漂ってきた微かなシャンプーの香り、そして、優しく髪の毛を撫でてくれているミクの指の感触に、俺の心臓は今にも破裂せんばかりに活動を活発化させ、全身を回る血液が血管を破って噴き出してしまいそうになる。
「み……ミク……!」
完全に舞い上がった俺は、半分無意識に両手を広げ、そのままミクの身体を固く抱きしめてしまおうとしかけたが、
(まだだ。まだ慌てるような時間じゃない)
という、心の中の仙道さんの言葉で、すんでのところで思い止まった。
そう、まだ早い。
……いや、
でも、このチャンスをみすみす逃すのは――。す、据え膳食わぬはナントカって言うし……。
で、でも……ミクは、現時点では、まだ彼氏持ちな訳だし……。
し……しかし――。
「……うん。これで良し」
「……へ?」
そんな風に、俺が脳内で熾烈で不毛な葛藤をしている間に、俺の髪の毛をセットし終わったミクの身体がスッと離れてしまった。
「お、おう……。サンキュ……」
俺は、安堵と落胆が綯い交ぜになった複雑な心境に苛まれながら、ぎこちなく感謝の言葉を述べる。
「えへへ、どういたしまして~」
そんな俺に、ミクは屈託の無い笑顔を向けながら大きく頷いた。
……うわ、ヤバい、ヤバい! ミクにそんな笑顔を向けられたら、俺の理性が――!
「……ああ、やっぱり可愛いなぁ……」
「……え? なんか言った?」
「あっ! い、いえ、ナンデモナイデスッ!」
理性のタガが緩んで、思わず口走ってしまった独白をミクに聞き留められた俺は、大慌てで千切れんばかりに首を左右に振った。
そして、目を白黒させながら、駅通路の先を指さし、
「そ! そんな事より、早く行こうぜ、サンシャイン水族館!」
と、わざとらしく声を張り上げながら、大股で歩き出そうとした――が、
「――あ、ちょっと待って、そうちゃん」
なぜか、ミクが俺の事を引き止めた。
「……へ?」
当惑して振り返った俺に、ミクはショルダーバッグから取り出したスマホを覗き込みながら言った。
「もう少しでここに着くみたいだから、ちょっと待ってよう」
「……はい?」
ミクの言葉に、俺はますます戸惑う。
『もう少しでここに着く』? ――何が?
『ちょっと待ってよう』? ――何を?
何とも言えない嫌な予感が、俺の心をみるみる侵食していく。
一方、そんな俺の心の内など知る由も無いミクは、心なしかウキウキした様子で、駅の改札の方へ続く通路を見つめていた。
――と、
「――あ! 来たぁ!」
いかにも嬉しげに声を弾ませたミクは、こちらへ歩いてくる人混みの中のひとりに向かって大きく手を振り始める。
そして、その次に彼女が口にした声で、俺の心臓は凍りついた。
「こっちこっち! こっちです、ホダカさ~んっ!」
「――ッ!」
ミクの言葉に愕然として、飛び出さんばかりに見開いた俺の目に映ったのは――
一週間前に、二度と忘れようもない程、俺の網膜と海馬に深く刻みつけられた不倶戴天の敵が浮かべる満面の笑顔と……、
その幼馴染である、気の強い少女が浮かべている、これ以上ない程の渋面だった……。