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第百八十五訓 リクエストにはなるべく応えましょう

 「……はい。ありがと。終わったよ」


 母さんとの通話を終えた俺は、借りていたスマホの液晶画面を軽く拭いてからルリちゃんに差し出した。


「ん」


 と、短く返事をしたルリちゃんは、俺の手からスマホを受け取り、肩からかけていたショルダーバッグの中にしまう。

 そして、俺の部屋のドアに向けて顎をしゃくってみせた。


「じゃ、早く鍵開けて」

「……はい?」


 彼女の言葉の意味が良く分からず、俺は訝しげに首を傾げる。

 そんな俺の顔を、ルリちゃんはギロリと睨みつけた。


「はいじゃないが」

「あっ……す、スミマセン……」

「アンタ、心配してわざわざ様子を見に来てあげたあたしに、お茶の一杯も出さないつもりなの?」

「あ……いや、そういう訳じゃないんだけど」


 ルリちゃんの非難された俺は、しどろもどろになりながら首を左右に振る。

 そして、そそくさとポケットから家の鍵を取り出しながら、彼女に弁解した。


「いや……もう時間も遅いからさ。終電とか大丈夫なのかな……って」

「あぁ、そういう事?」


 ルリちゃんは、俺の言葉に苦笑いを浮かべながらかぶりを振る。


「大丈夫。電車は0時25分が終電だから。お茶を飲む時間くらいはあるでしょ」


 そう答えながら、ルリちゃんは手首に付けた腕時計に目を落とした。


「今は……まだ23時37分だもん。駅に向かうまでの時間を考えても、お茶を飲む時間くらいはあるっしょ?」

「0時25分か……」


 ルリちゃんが示した腕時計に目を遣りながら、俺は頭の中で計算した。

 ……うん、駅まで多めに見積もって十分かかるとしても、まだ三十分は余裕がある。

 それだけあれば、お茶を飲むくらいは出来そうかな……?


「……分かったよ」


 俺はしぶしぶ頷くと、ドアに挿した鍵を回した。


「でも……お茶って言っても大したモンは出せないから、期待しないでよ? せいぜい水出しの麦茶かコーラくらいしか無いからね」

「分かってるって。ソータん家の冷蔵庫の中身の貧相っぷりは、もう充分に知ってるからさ」

「……」


 歯に衣着せぬルリちゃんの声を背に受け、思わず顔を顰めながら、俺はノブを回してドアを開ける。

 すかさず、むわっとした夏の熱気の名残が襲いかかって来て、それをまともに食らった俺は、思わず顔を顰め――、


「……って、あ! ちょ、ちょっと待ってて! 今、部屋の中を片付け――」

「いいっていいって。どうせすぐ帰るんだし」


 そこで部屋の荒れっぷりを思い出した俺が慌てて制止しようとしたものの、ルリちゃんはそんな事などお構いなしとばかりに、まるで猫のような身のこなしでするりと玄関に入り込んできた。

 そして、俺に断りもなしに玄関脇のスイッチを押して照明を点け、さも当然そうな様子で蒸し暑い部屋の中へと上がり込む。

 そして、慣れた足取りで奥のリビングに向かい、部屋の隅に転がっていたクッションを拾い上げると、ローテーブルの周りに散らばった雑誌やマンガ本を退かして作ったスペースに置いた。

 そのクッションの上にどかりと腰を下ろした彼女は、床と同じくらいに散らかったローテーブルの上からエアコンのリモコンを発掘して電源を入れながら、俺に向かって訊ねる。


「ねーねー、ソータぁ! テレビ観ていーい?」

「人の家に上がり込んだ遠慮とか……無いんか?」


 まるで自分の部屋の中かのように寛ぐルリちゃんに思わず呆れ顔でツッコんだ俺は、小さく溜息を吐いてから、背負っていたバッグを下ろし、台所へ向かった。

 そして、冷蔵庫を開けながら、リビングの方に声をかける。


「えーと……それで、麦茶とコーラ、どっちにするって?」

「うーん、そうだねぇ……」


 俺の問いかけに、ルリちゃんはテレビのリモコンを操作しながら、悩むような仕草を見せた。

 

「もう真夜中だし、コーラはマズいよね……。でも、麦茶っていうのもなぁ……」


 そう呟いた彼女は、何かを思いついたようにポンと手を叩く。


「……そうだ! 確か、流しの横にコーヒーがあったでしょ? ドリップタイプのやつ!」

「え? あぁ……そういえば……」


 ルリちゃんの声に、俺はハッとして流し台の方に目を遣った。

 ……確かに彼女の言う通り、流し台の隅っこにドリップバッグコーヒーのパッケージが置いてある。

 ドリップバッグコーヒーとは、コーヒーの粉末が入った不織布の上からお湯を注いで淹れる、インスタントコーヒーよりも本格的なコーヒーの風味を楽しめる製品だ。

 数ヶ月前にバイト先でもらってきて、そのまま適当に置いたっきり、すっかり存在を忘れていた……。


「つか、何で君が、俺も忘れてたコーヒーの存在を知ってるんだよ……」

「この前、料理の特訓をしに来た時に見たんだよー」

「あぁ、あの時か……」


 俺は、ルリちゃんの答えに納得する。


「……で、これがいいって?」

「そーだよ。お願いしまーす!」

「いや……夏なのにホットコーヒーって、熱くね?」

「じゃあ、氷入れてアイスコーヒーにしてー」

「……お湯沸かすのに時間かかるけど、時間大丈夫かなぁ?」

「じゃあ、早く沸かしてー」

「……っていうか、もう夜遅いのに、コーヒーなんか飲んじゃっても平気なの? 眠れなくなっちゃうんじゃね?」

「あぁ、あたし、カフェイン飲んでもちゃんと眠れる体質だから大丈夫だよー」

「……ラジャっす」


 ルリちゃんの返事に『絶対にコーヒーを飲ませろ』という強い意思を感じた俺は、それ以上の抵抗を諦めて、ヤカンに水を入れて火にかけた。

 そして、リビングの方から聴こえてくる、ルリちゃんが点けたテレビの音声をBGM代わりに、ヤカンの下でチロチロと揺れる炎をボンヤリと眺める。


「……あ」


 ガスが燃える青い炎を見ていると、ふと昨日観た大輪の花火を思い出した。

 ――それと同時に、ミクとの事も……。


「……」


 その記憶に引きずられるように胸の奥の痛みが蘇るのを感じた俺は、ぎゅっと唇を噛みながらかぶりを振る。


(いかんいかん……もう、丸一日経ってるんだから、いい加減思い出すのはやめろよ、俺……)


 そう自分に言い聞かせながら、俺はドリップコーヒーのパッケージを開けて、用意したマグカップにセットし――、ふと、ある事に気が付いた。


(……“思い出す”? あれ……もしかして、今の俺、()()()()()()()()()……?)


 ……確かに、家に入ってから今までのほんの数分ほどだが、それまで何をしていても頭の隅から消えなかった昨日の出来事を完全に忘れていた。

 それは多分、ルリちゃんのペースに翻弄されて、脳味噌のリソースを全て彼女に向けていたからだろう。


「……ふふ」


 俺は、思わず笑みを漏らし、ホッとする。


(……今日、ルリちゃんが来てくれて良かったな。そのおかげで、束の間でも失恋の胸の痛みを忘れる事が出来た)


 心の底から、そう思ったからだ。

 ――と、その時、ヤカンが“シューッ”と音を立てた。お湯が沸いたようだ。

 その音でハッと我に返った俺は、慌ててコンロの火を止め、盛んに湯気を吹くヤカンを持ち上げる。

 そして、マグカップにセットしたドリップバッグの上から、溢れないようにゆっくりとお湯を注ぎ込んだ。

 コーヒーの香りを伴った湯気が、マグカップから舞い上がる。


「熱ちちちち……」


 湯気の熱気を顔に浴びながら、少し多めにお湯を注いだ俺は、ヤカンをコンロの上に戻すと、冷蔵庫の冷凍室から氷をいくつか取り出した。

 そして、もうもうと湯気を上げるマグカップの中へ無造作に放り込む。


「ええと、あとは……」


 そう呟いた俺の手が、ピタリと止まった。


(あれ……? そういえば、ミルクとか砂糖は入れるのかな?)


 リクエストを受けた時に、そこら辺の事を聞いてなかった事に気付いた俺は、どうするべきか判断がつかず、リビングに向けて声をかける。


「ええと、ルリちゃん? ミルクは入れる? まあ……ミルクって言っても、ただの牛乳なんだけど……」

「……」

「砂糖の方はどうする? やっぱり、もう夜中だから糖分は控えた方がいいって感じ?」

「……」

「……ルリちゃん?」


 問いかけても返事が返ってこなかった事に、俺は首を傾げながら名前を呼んだ。

 ……だが、それでも返事は無い。リビングから聞こえてくるのは、バラエティ番組か何かのナレーションの声だけだった。


「ルリちゃん、どうした?」


 俺は、嫌な予感を覚えながら台所からリビングを覗き込む。

 ――すると、ローテーブルの上に突っ伏しているルリちゃんの姿が見えた。


「えっ? ちょ、ちょっと、大丈夫っ?」


 ビックリした俺は、(ひょ、ひょっとして、暑さにやられて、熱中症になったとか……?)と思いながら、慌てて彼女の元へ駆け寄る。

 そして、ローテーブルに顔を載せるように突っ伏したまま動かないルリちゃんの肩を恐る恐る揺すった。


「る、ルリちゃん? 大丈夫か!」

「……」


 だが……彼女は俺の問いかけにも、何ら反応しない。

 これは、本格的にヤバい状態なんじゃないか……? そう思いながら、俺が更に彼女の身体を揺さぶろうとした――その時、


「……むにゃむにゃ……すー……すー……」


 ルリちゃんの口元から、安らかな寝息が漏れた。


「……いや、眠っとるだけなんかーいッ!」


 思わず脱力しながら、渾身のツッコミの声を上げる俺だった……。


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