第百八十三訓 連絡はいつでも取れるようにしておきましょう
自宅アパートの外階段の途中で思いもかけぬ顔を目にした俺は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「へ……? な、なんで、君が俺の家の前にいるんだ? し、しかも……こんな夜遅くに――」
「何でももかんでももないよッ!」
Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織り、下はデニム生地のキュロットスカートを穿いたボーイッシュな出で立ちのルリちゃんは、険しい表情で声を荒げる。
「お昼過ぎくらいに、マリさんから電話が来たの! 『昨日から颯くんと連絡がつかないんだけど、何か知ってる?』って!」
「へっ?」
俺は、ルリちゃんの言葉に当惑した。
「な、何で、母さんがルリちゃんに電話……?」
「この前の誕生日会の時に、電話番号を交換したの! ――って、そんな事はどうでも良くって!」
俺の問いかけに怒り口調で答えたルリちゃんは、更に表情を険しくさせながら話を続ける。
「――で、マリさんの話を聞いたら、アンタ、昨日は家に泊まりに来たはずなのに、ミクさんといっしょに花火大会に行って戻ってきた後に、まるで死んだ魚みたいな顔して自分の家に帰っちゃったって言うじゃない!」
「あ……ま、まあ……うん」
「その上――いつもは家に着いたら必ず連絡が来るのに、昨日に限ってその連絡が来ない事が気になったマリさんが何度も電話したのに、『おかけになった電話は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないためかかりません』ってメッセージが流れて、全然繋がらないって……」
「あっ……」
ルリちゃんの話を聞きながら、俺は顔から血の気がサーっと引いていくのを感じた。
……そういえば、昨日の夜にスマホの電源が切れているのに気付いた後、うっかり充電するのを忘れて寝ちゃったのに朝気付いて、しょうがないから充電ケーブルに挿したままバイトに出かけたんだった……。
つまり、俺は明らかに意気消沈した様子で実家を出て行って以降、丸一日も音信不通だった訳だ。
それは確かに、あのマイペースな母さんでも心配するだろう……。
遅まきながら、自分のやらかしに気付いて青ざめる俺を階段の上から睨みつけながら、ルリちゃんが更に言葉を継ぐ。
「それで、マリさんがめちゃくちゃ心配しちゃったみたいで、お昼過ぎになってから、あたしに電話してきたの!」
「な、なるほど。そういう事か……」
ルリちゃんの説明に合点がいった俺は、思わず溜息を吐いた。
「そりゃあ……母さんに悪い事しちゃったな……」
「マリさんにだけじゃないよッ!」
「ひっ!」
鬼のような形相で怒声を上げるルリちゃんの剣幕に、俺は短い悲鳴を上げる。
そんな俺に鋭い目を向けながら、心なしかショートボブの髪を逆立たせたルリちゃんが厳しい声を浴びせかけた。
「マリさんだけじゃなくて……あたしにも多大な迷惑かかってるんだけど!」
「あっ……」
「昼過ぎにマリさんから連絡を受けてさ、試しにあたしもLANEしてみたら……本当にずーっと未読のまんまだし、電話しても圏外だし……!」
そう捲し立てながら、彼女は眉間に深く皺を寄せる。
「そんなこんなで夕方になっちゃって……それなのに、相変わらずソータと連絡がつかなくて……ひょ、ひょっとしたら何か事件に巻き込まれてたり、それとも……ミクさんにフラれた事が原因で、じ、自さ……とかしちゃったんじゃないかって――」
「ちょ! ちょっと待てぇい!」
俺は、ルリちゃんが口走った言葉に、驚愕しながら思わず叫んだ。
「な、何で、俺がミクにフラれた事を知ってんだよっ? 俺、まだ君に話してないはずだぞッ?」
「そんなの、アンタから聞くまでもないよ」
俺の問いかけに、ルリちゃんは呆れ顔で答える。
「マリさんから、『ミクさんと花火大会に行った後、ゾンビみたいな顔して帰ってきた』って聞いた瞬間に察したよ」
そう言うと、彼女はそれまでとは一変した、こちらの事を気遣うような表情を浮かべ、少し躊躇してから、おずおずと俺に尋ねた。
「……昨日、ミクさんに告白し直したんだよね? そして……」
「…………うん」
俺は、ズキリと胸が痛むのを感じながら、ぎこちなく頷く。
そして、半ば無理矢理に笑みをこしらえながら、殊更に平静を装ってみせた。
「……君の言う通り、キッパリとフラれたよ。『好きだけど、その“好き”は、そうちゃんの“好き”とは意味合いが違う』――ってね」
「そっ……か」
俺の答えを聞いて、ルリちゃんは沈痛そうな表情を浮かべる。
「――ごめん、ソータ。そんな辛い事、思い出させちゃって……」
「って! そ、それはともかくとして!」
しょぼんとするルリちゃんを前に、俺は慌てて話題を逸らした。こんな自宅脇の外階段なんて場所で、俺の失恋話でお通夜みたいな辛気臭い雰囲気になるのは、真っ平御免だ。
「俺が電源の切れたスマホを家に置きっぱにしたせいで連絡が取れなかった事は分かったけど……それと、今ここに君がいる事って、関係があるの?」
「関係大アリに決まってるじゃんっ!」
俺の問いに、ルリちゃんは目を剥いて声を荒げた。
「いつまで経ってもソータと連絡が取れなかったから、『もう、こうなったら直接会って確認しよう』と思って、わざわざここまで来たんだよっ! ……それなのに、いくらドアを叩いて呼んでも出て来ないし!」
「いや……そりゃ、バイトに行ってるんだから、ドアをいくら叩かれても開けられないよなぁ……」
「うっさいバカッ!」
ルリちゃんは、苦笑交じりにツッコんだ俺を怒鳴りつける。
そして、ぷうと頬を膨らませながら、憮然とした口調で言葉を継いだ。
「ちょっとしてから、あたしもそう思ってさ……。じゃあ、アンタがちゃんと帰ってくるのを確認しようって思って、今までずっとここで待ってたの! なのに、いくら待っても全然帰ってこないし!」
そう叫ぶや、彼女は手にしたスマホを俺の目の前に突きつける。
明るくなった液晶の画面には、『23:16』という時刻が表示されていた。
「こんな遅くまで、一体何してたのさっ? バイト?」
「あ、えっと……その」
俺は、罪悪感を覚えながらおずおずと答える。
「バイトと……上がった後にその、え、映画鑑賞を……」
「はあああぁっ?」
ルリちゃんは、俺の答えを聞いた瞬間、目を剥いた。
「ソータ……あたしがこんな所でアンタの帰りを待ってる間に、呑気に映画なんて観てたって言うの……?」
「あ……その、ゴメ……スミマセン。ま、まさか、俺の家の前で君が待ってるなんて思ってもいなかったから……」
「……!」
頭に血が上りつつも、今回の訪問がアポ無しだった事を思い出したらしく、ルリちゃんは憮然とした表情を浮かべながら、何か言いたげに口をモゴモゴさせる。
……だが、結局は何も言い返さず、その代わりに大きな溜息を吐いた。
「はぁ……もういいわ。とりあえず……思ったより元気そうで良かった……」
「は、はあ……ご迷惑をおかけしました……」
「まったく……」
ルリちゃんは、釈然としないながらも頭を下げた俺にジト目を向けつつ、ぼそりと漏らす。
「あたしが、どんだけアンタの事を心配したと思ってんのさ……」
「え?」
「……あ」
俺が訊き返した途端、ルリちゃんは慌てた様子で口元を手で押さえた。
そして、妙に焦った様子で頭を左右に激しく振りつつ、
「い、今のは……違うからっ! ソータじゃなくって、ソータの事を心配してるマリさんの事を心配してたって意味で……だ、断じてアンタの事を心配してた訳じゃないんだからねッ! ご、誤解すんなよバカヤローッ!」
と、顔を真っ赤にしながら叫び散らすのだった。