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第百七十九訓 劣情に身を委ねるのはやめましょう

 「そっ……か」


 俺は、そう呟くと、立っているのが辛くなり、ブランコを囲う安全柵の上に、ミクと向かい合うようにして腰を下ろす。

 そして、顎を上げて、星が瞬く夜空をぼんやり見上げた。

 と、その時、


「……そうちゃん、ごめんなさい……」

「え……?」


 突然ミクに謝られた事にビックリして、俺は夜空に向けていた目を正面に向ける。

 そして、顔を俯かせて、微かに肩を震わせているミクの姿を見て、慌てて言った。


「い、いや……別に、お前が謝る事じゃないよ。――っていうか、謝んなきゃいけないのは、俺の方だ」

「え……?」


 俺の言葉を聞いて、ミクが俯いていた顔を上げる。

 その頬を幾筋もの涙が伝い落ちているのを見て、俺は胸の奥がズキリと痛むのを感じながら言葉を継いだ。


「ゴメンな。お前には、とっくに藤岡さんっていう彼氏がいるっていうのに、俺の勝手で告白なんかしちゃって……」


 そう言いながら、俺はミクの泣き顔をじっと見つめる。――今にも涙が零れそうになるのをグッと堪えながら。


「あの誕生日会の日から今日まで、ずっと困らせちゃってたよな、俺……。ミクは優しいから、どうやって俺の告白を断ろうかって、ずっと考えてたろ?」

「……」


 ミクは、嗚咽を堪えながら、頬を伝う涙を手の甲で拭った。俺の言葉に応える声は無かったが、その反応が雄弁に答えを語っている。

 そんな彼女に、ポケットから取り出したポケットティッシュを差し出しながら、俺は小さく頷いた。


「――好きな()をそんなに苦しめるなんて、最低な奴だよな、俺って……」

「う、ううん……! そんな事……無い!」


 俺の自嘲を聞いたミクが、目を大きく見開きながら激しく首を左右に振る。


「だって……そうちゃんの気持ちは嬉しかったもの……。でも……私は、やっぱりホダカさんの事が好きなの。その……そうちゃんに対する好きとは違う意味の……」

「……うん、解ってる」


 俺は、ミクの言葉に胸が痛むのを感じつつも、それを顔に出さぬように必死で表情筋を引き締めながら、小さく頷いた。


「だから……ありがとうな、ミク」

「え……あ、ありがとうって……?」


 ミクは、俺が口にした感謝の言葉を聞いて、当惑した様子を見せる。

 そんな彼女に、俺は諦め混じりの苦笑を向けた。


「自分の気持ちをぼかしたり誤魔化したりしないで、キッパリと俺の告白を断ってくれた事に――だよ。中途半端な言葉だと、変な未練や期待が残っちゃうからな。今くらいハッキリとぶった切ってくれた方が……諦めがつくよ」

「そうちゃん……」


 もちろん、強がりだ。

 でも、紛れもない本音でもあった。


「よいしょっと……」


 俺は、そう掛け声を上げながら、座っていた柵から尻を浮かせると、手に持っていた缶を一気に呷って、中に残っていたいちごおしるこを飲み干した。

 ――喉にこみ上げた苦い失恋の味を、いちごおしるこの強烈な甘味で誤魔化そうとするように。


「じゃあ……そろそろ帰るか」

「あ……う、うん」


 ミクは、俺の呼びかけにぎこちなく頷くと、急いで立ち上がろうとした。

 ――その拍子に、座っていたブランコの板が激しく揺れ、立ち上がりかけたミクはバランスを崩す。


「きゃ……」

「――ミクッ!」


 ミクが大きくよろけたのを見た俺は、咄嗟に手にしていた空き缶を投げ捨て、倒れかけた彼女の身体を受け止めた。

 缶が地面に転がる音が鳴る中、衝撃と共に、俺の胸部にミクの柔らかな体がもたれかかってくる。


「お……お……っ」


 思わず反射的に『重い』と言いかけて、慌てて口を噤んだ俺は、大いに狼狽しながら、広げた両手を宙に彷徨わせた。

 これまでの人生の中で、女の子の身体が胸の中に飛び込んできた経験なんてほとんど無いから、こういう時にどうすればいいのか全然分からない……。

 いや……マンガやアニメだったらお約束の展開ではあるけど、だからといって、何だかんだでリア充な主人公たちのように、『そのまま固く抱きしめる』なんてのはNGだろう。

 何せ、ミクは幼馴染ではあるけど、もう既に彼氏がいる上に、今まさにフラれたばっかりの相手だ……。


「あっ……ご、ゴメン、そうちゃん! あの……えっと……!」


 一方のミクも、突然の事態に軽くパニクっているようで、俺の胸にもたれかかったまま、どうしたらよいのか分からぬ様子でわたわたしている。

 俺の視点からだと彼女の表情は見えないが、耳の先が真っ赤になっていた。

 ……それを見て、更にミクの髪から漂う仄かなシャンプーの香りが鼻孔をくすぐった瞬間、俺の理性のタガが一気に緩む。


 ――このままミクの体を抱きしめながら顔を近付けて、チューしちゃえ!


 俺の心の中に潜む悪魔が、実に魅力的なアイデアを提示してきた。


「……」


 荒い息を吐きながら、俺は広げていた両腕をゆっくりと狭めていく。

 そして――、


「……だ、大丈夫か?」


 ――激しい葛藤の末、結局俺は劣情に身を委ねる事が出来なかった。

 俺は、ミクの両肩に優しく手を置く。……そう、某『泥棒のおじさま』風仕草である。


「ま、まったく、気をつけろよ」

「う、うん……ごめん、そうちゃん……」


 俺のかけた言葉に、ミクは俯きがちにコクンと頷いた。

 ミクがしっかりと立ったのを見た俺は、名残惜しい気持ちを抱きつつ、ミクの肩から手を放し、掌に残るミクの体温を逃すまいと、そっと握り込む。

 そして、必死で平静を装いながら、公園の門に顎をしゃくった。


「じゃ、じゃあ……行こっか」

「……うん」


 俺の言葉に小さく頷いたミクは、手に持ったままだったティッシュで目尻を拭く。

 それに気付いた俺は、ミクに向かって手を差し出した。


「ほら……そのティッシュと空き缶、捨ててくるよ」

「え……? あ……うん」


 ミクはその言葉にハッとした様子で、手に持ったままだった空き缶とティッシュを俺の掌に乗せる。


「じゃあ……お願いします。ありがとう……」

「……おう」


 俺は一拍子おいてから軽く頷くと、足下に転がった自分の空き缶を拾い上げ、公園の端にあるゴミ箱まで歩いていった。

 そして、紙くず入れにティッシュを捨ててから、その横に置いてある缶用のゴミ箱に空き缶を投げ捨てる。


「……さよなら」


 ――俺の心に残っていた、ミクへの未練といっしょにして。

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