第百四十三訓 ウソを吐いても必ずボロが出るからやめましょう
「へ、へっ? た、立花……さん?」
思いもかけない彼女の姿に、俺はドアを開けたまま体を硬直させ、目をパチクリとさせた。
「ど、どうして……ウチに来たの?」
「はぁ?」
手には大きく膨らんだレジ袋を提げ、ベージュ色の膝上丈のズボン……確か、キュロットパンツって言うんだっけ? に、猫柄のファンシーなイラストがあしらわれた黒のTシャツといった出で立ちの立花さんは、狼狽える俺の顔をジロリと見上げると、不満げに答える。
「だから、この前電話した時に約束したじゃん。料理の特訓をしにアンタん家に行くって」
「……あ」
立花さんの言葉を聞いた俺は、ようやく数日前に交わしたLANE通話のやり取りを思い出した。
『ソータさ、今週、空いてる日ってある?』
『じゃあ……木曜日空けといて!』
『じゃ、木曜日ね! おいなりさんだけじゃなくて、他にも美味しい料理をたくさん作ってあげるから、楽しみにしててね~♪』
……そうだった。確かに、誕生日会の翌日に、彼女とそんな約束をした……。
確かに昨日までは覚えていたはずなのに、四十万さんと飲んでいる内に、その約束がすっぽりと頭の中から抜け落ちてしまったようだ……。
「……その間抜けな顔、マジで忘れてたんだね、アンタ」
「う……す、すみません……」
責めるようにジト目を向ける立花さんを前に、俺はバツ悪げに身を縮こまらせる。
そんな俺を冷ややかに見ながら、彼女は大きな溜息を吐いた。
「はぁ……。今朝からずっとLANEを未読無視されてるからおかしいと思って、ちょっとだけ心配してたのに、そういうオチかよ……」
「え? LANE?」
俺は立花さんの言葉を聞いてビックリし、慌てて持っていたスマホでLANEの履歴を確認する。
――確かに、“RULLY”から数件のメッセージが届いていた。
俺は、立花さんにおずおずと頭を下げる。
「その……ご、ゴメン……今まで寝てて、LANEに気付いてなかった……」
「今までって、もう十一時過ぎてるけど」
俺の釈明に、立花さんは呆れ声を上げた。
だが、気を取り直すように肩を竦めてから、ドアの前に立つ俺に向けて手を左右に振る。
「……まあいいや。早く中に入れて。この暑い中、駅からずっと歩いてきたから、疲れちゃった」
「ちょ、ちょっストーップッ!」
俺は、部屋の中に入ろうとする立花さんを慌てて押しとどめた。
行く手を遮られた立花さんは、訝しげに俺を見上げる。
「……なに? 何で止めるの?」
「あ、いや……」
責めるような立花さんの口調にたじろぎながら、俺は気まずげに目を泳がせた。
当然の事ながら、今彼女を家に上げるのはマズい。マズすぎる。
もしも、奥のリビングのベッドに若い女性が寝ている事を知られてしまったら、彼女にどんなあらぬ誤解をされるかは火を見るよりも明らかだし、俺の貧困なボキャブラリー力でその誤解を解ける可能性は皆無に近いだろう……。
「あ、あの……今かなり部屋の中が散らかっててさ。お客さんを上げるにはちょっと……」
俺は、何とか彼女の侵入を阻止しようと、咄嗟に適当な理由をでっち上げた。
「だ、だから……俺が部屋を片付けてる間、近くのコンビニで待ってて。ほら……この前、立花さんがトイレを借りに行っ……痛ったあ!」
「おバカ! と、トイレを借りたとか……そういう事を大きな声で言わないでよ!」
俺の足の甲をサンダルを履いた足で思い切り踏みつけた立花さんは、真っ赤にした顔に怒りの表情を浮かべながら小さく叫ぶ。
「ホント、デリカシーってモンが無いの、アンタにはっ?」
「ご、ゴメン……」
「そんなんだから、酔った勢いでミクさんに告白なんてしちゃうんだよ!」
「ぐはっ! そ、それは言わないで……」
立花さんに、まだカサブタも出来ていない心の傷を容赦なく抉られた俺は、思わず胸を押さえてヨロヨロとよろめく。
一方の立花さんは、険しい目で俺の事を睨みつつ、諦めたように頷いた。
「……分かった。別にあたしは、少しくらい散らかってても気にしないけど、ソータがどうしても片付けたいって言うんだったら、ちょっと待ってるよ」
「あ、あざます!」
立花さんの返事を聞いた俺は、大いに安堵しながら、彼女に深々と頭を下げる。
そんな俺の大げさなリアクションに、再び不審そうに眉を顰めた彼女だったが、それ以上追及する事も無く、持っていたレジ袋を俺に向けて突き出した。
「じゃあ、コレ。今日の“特訓”で使う為に買ってきた食材だから、冷蔵庫に入れておいて」
「あ、了解っす!」
俺は立花さんの言葉にすぐさま応え、彼女の手からレジ袋を受け取る。
と、その時、
「あっ……」
レジ袋の一番上に乗っていた油揚げのパッケージが袋の中から零れ落ち、玄関の三和土の上に落ちた。
俺は、すぐさま屈み込み、落ちた油揚げのパッケージを拾い上げ、元のレジ袋の中に戻す。
……と、
「……ソータ」
「え?」
不意に立花さんから名前を呼ばれた俺は、怪訝な顔をしながら、屈んだ体勢のまま彼女の事を見上げた。
立花さんは、何故か険しい表情を浮かべて、三和土の上を指さし、低い声で俺に尋ねる。
「……その靴、誰の?」
「……靴?」
俺は問いかけの意味が解らず、キョトンとしながら彼女が指さす先に目を移した。
そこには――無造作に脱ぎ捨てられた女物のパンプスが……!
――あ、オワタ……。
唐突にネットミームとしてお馴染みのあの顔文字が無数に現れ、まるで動画のコメント爆撃よろしく、高速で俺の視界を右から左へと通過していったのが見えた……。
「こ! こここ、これはその……!」
「誰かいるの? ひょっとして、女の人?」
目を激しく泳がせながらしどろもどろになる俺を鋭い目で見据えながら、立花さんは剣呑な響きを含んだ声で詰問する。
「アンタ、さっき『今まで寝てた』って言ってたよね? なのに、何で家に女の人が上がり込んでるの? って……もしかして、昨日の夜から……って事?」
「あ、あの……それは……」
「まさか、女の人を連れ込んでたの? それで朝まで――」
「い、いや、違うよ! ……いや、泊めた事は確かだけど、誓ってそういう行為は――」
「いや、泊めたって、そういう行為する目的以外に無くないっ?」
立花さんは、俺に非難めいた視線を向けながら声を荒げた。
「アンタ……ついこの前、ミクさんにあんな告白したクセに、もう他の女に乗り換えたって事? 控えめに言って最の低なんですけど!」
「い、いや違うってば!」
俺は、どんどんヒートアップしていく立花さんの誤解を何とかして解こうと、負けずに声のトーンを上げる。
だが、それはむしろ逆効果だったようで、彼女はますます目を吊り上げ、激昂した様子で俺のTシャツの襟を掴んだ。
「違うぅ? どう違うって言うのさっ?」
「いや、だから、それをこれから説明するから……く、苦しい……!」
俺は、荒ぶる立花さんにTシャツの襟を締め上げられながらも、何とか彼女を落ち着かせようと必死に声を上げる。
――と、
「もういいッ!」
立花さんはそう叫ぶと、まるで突き飛ばすようにして、俺の襟から手を離した。
「うわぁっ!」
急な事でバランスを崩し、玄関でタップダンスを踊るように踏鞴を踏む俺に、立花さんは背中を向ける。
「あ、ちょ、ちょっ? 立花さんっ?」
慌てて呼び止めようとする俺の声を無視し、立花さんはそのまま外へと飛び出していった。
ひとり玄関に残された俺は、呆然としながら首を傾げる。
「ったく……ちょっとは人の話を聞けよ……」
「おやおや、青春だねぇ」
「……!」
俺は、急に背後から上がった声に驚き、慌てて振り返った。
「し、四十万さん! いつから起きてたんですか?」
「んー? ちょうどあの娘がドアを開けたあたりからかなぁ」
「いや、結構前からじゃないっすか……。つうか、起きてるんだったら助けて下さいよ……。なんか、四十万さんのせいで妙な誤解をされちゃったみたいなんですけど……」
「いやぁ……なんか、ふたりのやり取りを見てたら面白くって、ついつい傍観モードに入っちゃった」
「オイコラ元凶」
「……っていうかさ」
四十万さんはそう言うと、半開きになったドアの向こうを指さした。
「追いかけてあげた方がいいんじゃない? あの娘の事」
「う……」
俺は、四十万さんの言葉に少し迷う。
「で、でも……勝手に帰ったのは立花さんだし……今更俺が追いかけても……」
「追いかけた方がいいよ」
四十万さんは、ふと真顔になって言葉を継いだ。
「誤解を解くのは早い方がいいって。今追いかけないと、後々後悔しちゃうかもよ?」
「……」
妙に重みを感じる四十万さんの言葉に、俺はどうしようかと大いに悩むのだった。