第百四十二訓 眠る前に色々と考えるのは控えましょう
「……うぅん」
俺は寝苦しさで唸りながら、キッチンの固いフローリングの上に敷いた薄いシーツで、この日数十回目の寝返りを打った。
「くそぉ……」
俺は小さく毒づきながら瞼を開け、暗闇の中で枕元をまさぐる。そして、置いてあったスマホを手に取ると、電源ボタンを押した。
「あぁ……もう夜の三時過ぎか……」
スリープモードから起動したスマホの液晶画面の時計表示を見た俺は、日の出まであと二時間ほどしか無い事に愕然とする。
「あーくそ……全然眠れねぇ」
俺は、手の甲を目の上に乗せながら、再び絶望の声を上げた。
眠れないが……眠気が無い訳じゃない。
固いフローリングは確かに寝心地が悪いし、年式が古い上にパワーが足りない備え付けのエアコンの風はキッチンまで届かず、夏の夜特有の蒸し暑い空気に包まれているという事は確かにあるものの、酒の酔いもあって、むしろいつもより眠いくらいだ。
だが……とある特殊な状況下に置かれている事によって、精神が著しく緊張してしまっていて、入眠を妨げている……。
「……」
俺は横たわったまま、その精神の緊張の原因に恨めしげな目を向けた。
……俺のベッドを占拠した四十万さんは、俺の掛け布団に丸まり、穏やかな寝息を立てている。
「……いや、熟睡かい」
暗闇の中で、寝息と連動して規則正しく上下している四十万さんの肩を見ながら、俺は呆れ声を漏らした。
俺の方は、若い異性が同じ部屋で寝てるという事実を意識しまくって一睡も出来ていないというのに、四十万さんは、そういう事が全く無いらしい……。
「……いや、確かにさ。俺には四十万さんにそういう事をする気もする度胸も無いけどさ……だからって、少しは気にしたり緊張したりするもんじゃないの?」
四十万さんが完全な無警戒で熟睡している事実に男としてのプライドがいたく傷ついた俺は、小声でぼやく。
……というか、なんかデジャヴ――。
――『颯大くんが女の子にひどい事なんて出来ないって信じてるから大丈夫だよ!』
――『確かに、実行には移せなさそうだよね、ヘタレっぽいし』
俺の脳裏で、あの時に、ミクと立花さんからかけられた言葉が再生される。
「……つうか、そんなに警戒に値しない男なのか、俺は……?」
薄暗い闇の中で天井を見上げながらぼそりと呟いた俺だったが、その問いかけに対し、自分でも『YES』という答えしか思いつかず、更に深い絶望を感じた……。
――と、
(……あれ?)
俺はふと、今の連想の流れで脳裏に浮かんだ立花さんの顔に引っかかった。
(そういえば……立花さん関係で何かあったような……?)
確か、何かを約束してたような……?
「ええと……何だっけ……?」
俺は、仰向けに寝転がったまま軽く目を閉じ、立花さんと何の約束を交わしていたかを思い出そうとする。
(ええと……確か電話で……ウチに来るとか来ないとか言ってたような……言ってないような……? つか、いつの話だっけ……)
――だが、
俺が覚えている記憶はここまでだった。
次の瞬間、それまでおとなしく息を潜めていた眠気が唐突に蘇って俺の意識を襲う。
「む……にゃ……」
俺はそれに抵抗する術も時間もなく、まるで気を失うかのように深い眠りに落ちていったのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「……んんう」
――次に意識を取り戻した時には、外はすっかり明るくなっていた。
寝ぼけ眼を擦りながら上半身を起こした俺の顔に、台所の明かり取りの窓から射す夏の強い陽射しが直撃する。
「……うおっ、眩しッ!」
暴力的なまでに強い光をまともに食らった俺は、思わず顔を顰めながら手を翳した。
そして、目ヤニと今の日光でしょぼしょぼする目を擦りながら、ぼんやりと周りを見回す。
「えぇと……なんで台所で寝てるんだっけ、俺……?」
寝起きでぼんやりしているせいで、初めの内は昨夜の出来事をすぐに思い出せなかった俺だったが、だんだん覚醒していくにつれ、霧が晴れるように昨日の記憶が蘇ってきた。
「……あ! 四十万さん……!」
自分が台所の床で寝ていた理由を思い出した俺は、リビングのベッドに目を遣る。
――昨夜に見た時と変わらず、四十万さんは掛け布団に包まった格好ですやすやと寝息を立てていた。
四十万さんの存在を確認した俺は、ふと今の時間が気になり、床に転がっていたスマホを拾い上げ、電源を入れる。
そして、
「……げっ!」
表示された現在時刻を見て、思わず目を剥いた。
「もう十一時近いじゃん!」
道理で、昨日眠りに就けたのが午前三時過ぎだったのにもかかわらず、妙な熟睡感があった訳だ。何せ、八時間近くも眠ってたんだから。
――と、その時、俺はマズい事に気付いた。
「……って! 四十万さん……遅刻しちゃうじゃん!」
確か……今日のシフト、俺は休みだけど、四十万さんは遅番の十三時出勤だったはずだ。さすがにもう起きて準備し始めないと、間に合わなくなるんじゃないだろうか? 男と違って、女性はメイクとかで時間がかかると思うし……。
そう考えた俺は、腹にかかっていたシーツを跳ね除けると、リビングのベッドで眠る四十万さんに向けて叫んだ。
「ちょ! 四十万さん、起きて下さい! もう十一時っす!」
「むにゃ……じゅういちじぃ?」
俺の叫び声に、四十万さんは寝ぼけ声で答える。
「……だいじょぶだいじょぶ。まだしゅうでんはのこってるはずだから……」
「いや、まだ寝ぼけてるんすか! 夜の十一時じゃなくって、朝……いや、昼の十一時です! 今日は遅番っすよね、四十万さんっ? もう起きて支度しないとヤバいっすよ!」
「……お昼? 遅番……?」
ベッドに横たわったまま、俺の言葉を反芻する四十万さん。ようやく目を覚ましたようだが、語尾に『?』が付いているから、まだ本覚醒にはほど遠いようだ……。
そんな彼女に、俺はもう一度声をかけようとした――その時、“ドンドンドン”という、ドアを乱暴に叩く音が耳に飛び込んできた。
「……へっ?」
俺は、急なノックの音に驚き、玄関の方に顔を向ける。
“ドンドンドン”
少し間をおいて、再びノックの音が聞こえた。
「……新聞の勧誘かな?」
俺は、不躾なノックからそう判断し……無視する事にする。今は、しつこい新聞配達のオヤジの相手をする余裕など無い。
……だが、
“ドンドンドンドンドンドンッ!”
居留守を決め込んでいるにもかかわらず、三度目のノックが鳴らされた。しかも、さっきまでよりも長く、心なしか叩く強さも上がっている気がする。
「……しつこいなぁ」
俺はさすがにムッとして、ベッドの四十万さんをチラリと見てから、しぶしぶ玄関へと向かった。
そして、
「すみません! 今取り込み中なんで、勧誘とかセールスは結構です!」
と、ドア越しに少し荒げた声を上げる。
――すると、
『勧誘? セールス? 何と勘違いしてんのさ!』
てっきり濁声のオッサンの声が返ってくると思っていた俺の予想を裏切り、若い女の子らしい気の強そうな声がドア越しに上がった。
「……えっ?」
その聞き覚えのある声と口調に、俺は思わず固まる。
と、次の瞬間、鍵を閉めていなかったドアのノブが、軋み音を立てながら開いた。
そして、開いた扉の前に立っていたのは――、
「あたしだよ、ソータ! この前の電話で、今日行くって言ったじゃん。まさか、忘れてたとか言わないよねぇッ?」
そう叫びながら、プリプリした顔で俺の事を睨みつける立花瑠璃だった……。