第百三十三訓 仕事が手につかない時は無理せず休みましょう
「……ホンゴーちゃん、大丈夫?」
「……へっ?」
バイト先でコピー用紙を品出ししようとしていた俺は、不意に背後からかけられた声にワンテンポ遅れて気が付き、ビックリした声を上げる。
慌てて振り返った俺の前に、訝しげな顔をした四十万さんが立っていた。
「だ、大丈夫って、何がっすか? お、俺は全然いつも通りっすけど」
実は、さっきから仕事が手についておらず、全然大丈夫じゃなかった俺だったが、それを四十万さんに知られたくなくて、涼しい顔を作ってしらばっくれる。
だが、そんな俺の虚勢は、彼女にはバレバレのようだった。
四十万さんは、更に眉間に深い皺を寄せながら、俺の手元を指さす。
「全然いつも通りじゃないじゃん。そのラミネートフィルムをどこに並べる気なの、君?」
「え……?」
俺は、四十万さんの言葉に戸惑いながら自分の手元に目を落とし――彼女の言う通り、自分が持っているのがコピー用紙ではなく、ラミネートフィルムである事にようやく気が付いた。
ラミネートフィルムの展開場所は、ここじゃなくて、その反対側の棚だ。
「あ……す、スミマセン。うっかりしてました」
間違いに気が付いた俺は、手にしていたラミネートフィルムを折りコンの中に慌てて戻す。
そんな俺の様子を見ていた四十万さんが、心配そうな声で尋ねてきた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「な……何かって……別に何も無いっすよ?」
俺は、四十万さんの問いかけにドキリとしながら、なおもしらばっくれる。
……本当は、何も無くなんかない。
昨日、酒に酔った勢いでミクに告白してしまったという事実 (全然覚えてないんだけど)が常に頭の中をふわふわと漂っている感じで、ふと気を緩めた途端に脳全体がその事でいっぱいになってしまうのだ。
そのせいで、さっきから全く仕事に集中できていない。
「……そう?」
……俺の答えを聞いた四十万さんは、スッキリしないと言いたげな顔で首を傾げた。
その表情と、「そう?」の声の調子が尻上がりの疑問形な事からも、彼女が俺の答えに納得していない事は明らかだ。
「具合が悪いんだったら、早退しても大丈夫だからね。無理しないでよ?」
「いや……だから、別に全然普通ですってば」
珍しく俺の事を気遣ってくれる四十万さんに、俺はなおも首を横に振った
そして、まだ品出ししなければならない商品がたくさん残っている折りコンを両手で持ち上げ、「じゃ、じゃあ、そういう事なんで――」と四十万さんに軽く頭を下げ、品出し作業に戻ろうとする。
と、その時――、
「ひょっとして、熱でもあるんじゃないの?」
四十万さんがそう言いながら、自然な動きで俺の額に手のひらを当てた。
「――ふぁッ!」
突然、額に四十万さんの手のひらが触れたのを感じた俺は、ビックリして妙な声を上げる。
熱があるか確かめる為、額に手のひらを当てられる事自体は、今までも経験がある。だが、それはまだ小さい頃に母さんや小学校の保健室の先生にされたもので、四十万さんのような若い女の人にされたのは、これが初めてだった。
(し、四十万さんの手のひら……少しひんやりしてるけど、柔らかくて……き、気持ちい――)
「う~ん、熱は無いみたいね」
「あっ! ひゃ、ひゃいぃっ!」
初めて感じる若い女性の手のひらの感触に、すっかり脳内でテンパっていた俺は、四十万さんの声でハッと我に返り、上ずった声で答える。
そんな俺の返事を聞いて、四十万さんは再び怪訝な表情を浮かべ――次の瞬間、思い切り顔を顰めた。
「……ちょっと、ホンゴーちゃんッ! 君、お酒飲んだでしょ!」
「ふぇっ?」
俺は、四十万さんの言葉に驚きながらコクンと頷き、何で昨日の飲酒がバレたのか不思議に思って訊ねる。
「な……何で分かったんですか?」
「いや、分かるわよ!」
そう声を荒げた四十万さんは、渋い顔をしながら俺の口を指さした。
「めっちゃお酒臭いもん、ホンゴーちゃんの息!」
「あ……」
四十万さんの答えを聞いて、俺は慌てて口元を押さえる。そんな俺にジト目を向けながら、四十万さんが険しい声で言った。
「ホンゴーちゃん……君はマジメな子だと思ってたのに、まさか未成年飲酒するような不良だったなんて――」
「い、いや! ち、違いますよ!」
四十万さんから軽蔑に満ちた視線を送られた俺は、慌てて千切れんばかりにかぶりを振る。
「た、確かに、昨日酒は飲みましたけど……み、未成年飲酒なんかじゃないっす!」
「いや、飲んでるんじゃん! まだ十九歳なのに!」
「い、いえ、それが……」
俺は、怖い顔で問い詰める四十万さんから気まずげに目を逸らしつつ、小さな声で言った。
「実は……ついこの前に誕生日を迎えて……つまり、昨日時点ではもう成人済みだった訳でして……」
「えっ? でも、この前、私が飲みに誘った時は、『まだ未成年なんで』って言って断ってたよね?」
「ええと……あの時点では、まだ誕生日前だったんで……」
「あっ、そういう事ね……」
「だ、だから……もう、酒を飲んでもオッケーというか……まあ、体調的にはあんまりオッケーって訳でも無いんですが――」
「マジでっ?」
四十万さんは、俺の言葉を遮るように弾んだ声を上げ、キラキラと目を輝かせる。
「だったら、今のホンゴーちゃんは、もう私と一緒に飲みに行けるって事だよね!」
「あっ……」
俺は、四十万さんの言葉に嫌な予感を覚えながら、不承不承頷いた。
「ま、まあ……そういう事に……なりますね……」
「やった!」
四十万さんは、俺の答えを聞くや、小さくガッツポーズをする。
それから期待に満ち溢れた顔で俺に言った。
「じゃあ、今度飲みに行こうよ! いつにしよっか……。出来れば、私が次の日休みで、ホンゴーちゃんも空いてる日で……」
「あ、あの、四十万さん……? まだ、俺は飲みに行くとは……」
「ちょっとシフト表見てくる! ちょっと待っててね~」
「いや、聞けよ!」
必死で叫ぶ俺の言葉も聞こえぬ……或いは聞こえてないフリをして、四十万さんはウキウキでシフト表の置いてあるレジカウンターの方に行ってしまう。
俺はその背中を呆然と見送りながら、
「はぁ~……」
と大きな溜息を吐くのだった……。