第百八訓 昔を懐かしむのはほどほどにしましょう
「じゃあ、これから母さんはサクッと唐揚げやっちゃうから、ふたりは遠慮なく寛いでてね~」
俺と一文字をリビングに通した母さんは、ダイニングテーブルの椅子の背もたれにかけてあったエプロンを着けながら、明るい声でそう言った。
そして、リビングに置いてあるソファに向かって声をかける。
「お父さん、私の代わりに、颯くんと一文字くんのお相手をしてあげて~」
「お……あ、ああ」
母さんの声に、振り返ってぎこちなく頷いたのは、俺の父さんだ。
仕事柄、休みの曜日が決まっていない父さんは、日曜日も仕事に出る事が多いのだが、今日は俺の誕生日会の為にわざわざ休みを取ったらしい。
……別に、俺の誕生日会ごときで、そこまでしてくれなくてもいいんだけど。
父さんは、それまで読んでいたらしい新聞を畳んでソファの脇に置くと、座ったまま俺に頷きかけた。
「よ、よう。おかえり、颯大」
「あ、う、うん。ただいま、父さん」
お互いに何となくよそよそしい挨拶を交わす父さんと俺。まあ、母さんと違って、父さんから電話がかかって来る事もほとんど無いし、ちゃんと顔を合わせるのも久しぶりなので、ぎこちなくなるのはしょうがない。
「まあ……その、何だ。――とりあえず、誕生日おめでとう」
「あ、うん、えと……ありがとう」
いきなり父さんから祝いの言葉をかけられた俺は、どうリアクションするべきか迷いながら、とりあえず頭を下げる。
と、そんな俺の顔をじっと見つめていた父さんが、感無量といった様子で言った。
「お前も、もう二十歳かぁ……」
「あ……まあ、そうだね」
「まだまだ子どもだと思ってたのに……月日が経つのは早いなぁ」
そう呟くように言った父さんが、しきりに目を瞬かせる。
俺は、どこか気恥ずかしさを覚えながら、軽口で返した。
「それはこっちのセリフだよ。白髪、ちょっと増えたんじゃないの?」
「ははは、確かにそうかもな」
俺の言葉を聞いた父さんが、苦笑いをしながら、オールバックにセットした髪に手を触れる。
そして、緩やかにウェーブのかかった髪の毛を摘まみながら言葉を続けた。
「でも、ハゲるよりは、白髪の方が全然マシだろ?」
「まあ……それは確かに」
父さんの言葉に、思わず頷く俺。
子どもの頃は、父さんの持つ天パの遺伝子を色濃く継いでしまった事を呪いもしたが、天パの遺伝子と同時に“ハゲない遺伝子”も継げているのなら、トータルでプラマイゼロかもしれないな……。
「……俺、父さんの息子で良かったよ」
「……!」
俺が何気なく呟いた言葉を聞いた父さんは、目を大きく見開くと、慌てた様子でテーブルの上に載ったティッシュの箱に手を伸ばした。
そして、引っこ抜くようにティッシュをまとめて取ると、急いで目元を拭う。
「お、お前……いきなり不意討ちみたいに、そんな嬉しい事を言うなよ……。父さん、年取って涙腺がユルユルになっちゃってるんだから……」
「あ……」
俺は『将来もハゲなくて済みそうだから』というくらいの軽いニュアンスで言ったつもりだったのだが、どうやら父さんには全然違う重た~い意味に捉えられてしまったらしい。
すっかり感動したらしい父さんは、湿ったティッシュを鼻に当てて盛大に鼻を噛むと、窓の外に広がる青い空を見上げながら、しみじみと言う。
「デパートのおもちゃ売り場で、『変身ベルトが欲しい』って泣き叫びながら、一時間も床に転がって駄々をこねてたお前が、もう成人かぁ……」
「そ、そんな事も……あったような、無かったような……」
「小学一年生までおねしょの癖が直らなくて、もう一生おねしょし続けるんじゃないかと心配し――」
「ちょ! ちょちょちょちょちょっ!」
涙ぐみながら、とんでもない俺の過去を口走り始めた父さんを慌てて制止した。
これ以上好きなように喋らせたら、更なる俺の子どもの頃の心温まる――俺にとっては心臓が凍りつくエピソードの数々を暴露し始めかねない……。
そう考えた俺は、父さんの気と会話の矛先を逸らす為、傍らに突っ立っていた一文字を指さした。
「そ、そんな事より! と、父さん、コイツが、俺の大学で同級の単なる知り合いの一文字だ!」
「お、おう。そ、そうか」
俺の声を聞いた父さんは、戸惑いの表情を浮かべながら一文字の方に目を向ける。
狙い通りに父さんの気を逸らす事が出来た事にホッとしつつ、俺は言葉を継いだ。
「……まあ、もう二度と家に連れてくるつもりは無いから、もう父さんと顔を合わせる事も無いだろうけど、一応紹介しとく」
「ちょ、ちょ? 本郷氏、そんなつれない事を言わないでおくれよ? ボクはこれからも君のご家族と末永く――」
「ほら、挨拶!」
「あっ、ハイ……」
上げかけた異議を俺の強い声で封じられた一文字は、釈然としない顔をしながらコホンと咳払いし、それから父さんに向けて深々と頭を下げる。
「ええと……こんにちは、本郷氏の御尊父様。ボクは一文字一と申します」
「ああ、君が……」
一文字の自己紹介を聞いた父さんが、柔和な微笑みを浮かべながら頷いた。
「母さんから軽く聞いてるよ。颯大の唯一無二の友達らしいね」
「オイ」
“唯一無二”って、それはさすがに言い過ぎだろ……とは言い切れないところが哀しい……。
一方の一文字は、父さんの言葉に頬を紅潮させ、大きなストロークで首を縦に振った。
「ハイ! 友達どころじゃなく、心の友と書く方の“心友”でありマ――」
「もうそれはいいっちゅーねん!」
「ごふぅ!」
俺のツッコミを頭に食らった一文字が奇声を上げる。
そんな俺たちの事を、ニコニコしながら見ていた父さんは、改まった様子で一文字に向かって会釈した。
「はじめまして、ハジメ君。私が、颯大の父親をやらせてもらっている、本郷大悟と申します」
「いや、『父親をやらせてもらってる』って何だよ……」
緊張しているのか、言い回しがおかしい父さんに、俺は呆れ声でツッコミを入れるのだった。